このあいだ、匝瑳市立八日市場公民館で開かれていた『第18回 匝美会展』に妻と行って来ました。
「匝美会」というのは、匝瑳高校のOBの方々の美術作品を年一回の周期で展示する展覧会のようでした。
そこに、私の中学時代の担任で美術の先生も出展されていたので、出かけたというわけです。
相変わらず、先生のガラス絵は楽しく、愉快な魚が泳ぐ海の世界が描かれていました。
このあいだ、匝瑳市立八日市場公民館で開かれていた『第18回 匝美会展』に妻と行って来ました。
「匝美会」というのは、匝瑳高校のOBの方々の美術作品を年一回の周期で展示する展覧会のようでした。
そこに、私の中学時代の担任で美術の先生も出展されていたので、出かけたというわけです。
相変わらず、先生のガラス絵は楽しく、愉快な魚が泳ぐ海の世界が描かれていました。
私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
先生からお借りしている資料に日付が入っていなかったので、今回のものが書かれた年代は不明です。
先生が身近なところの不法投棄や、生活ゴミのことについて書かれています。
以下、先生の文章です。
《地域のたたずまいに思う》
今にはじまったことではないけれども、身近に路肩など、あきれるほどの不法投棄や一般の生活ゴミが目につく。
つい先日、各地方をまわる業者の人との雑談から、千葉県(所によってのちがいもある)特にこのあたりは、路肩に環境ゴミが目につきますねえと、そう言えばよその地域でもよく目にするものの、日頃用件あって移動中、私の家のちかくでも、市役所通りなどで、かなりひどい状況がある。
そんなゴミの多い場所に環境美化やゴミ捨て禁止の看板ばかりゴミのように目につくのも何か変なもので、看板やスローガンを設置するのもいいが、日常活動として自分たちの暮らす地域の環境美化に手を加えたいものだ。
環境ゴミは捨てる側に責任があるが、その地域に暮らす住民の意識による問題も大きいと思う。
ゴミを捨てない、町をきれいに、など、その意味を知りながら具体的に実践できない大人が増えている。
先日、郵便局に通信の用件あって、局内に駐車したところ、帰る時にさっきはなかったと思うコンビニの大きなビニール袋いっぱいの食べカスが捨ててあった。
おそらく郵便局に来て、用件の途中に投棄したものと思う。
このような一瞬の出来事が山のようにあっちこっちでふくらんでいるのだと思う。
捨てる側は捨てられる側のことを考えない。時に田んぼや畑の中に危険ゴミ、ビン、ガラスまで見ることもある。
ドライブ移動中、旅先、散歩中に目に入ってくる各地域のたたずまいを見ると、その地域の暮しの様子、人間模様が感じ取れる。
先日は、農業用の水路がゴミで流れないどころか、ゴミ袋などで水の流れが見えない地域を通り抜けた時にふと思った。
この道路沿いの人たちの暮らしぶりは、きっと家の中ではオール電化など快適に暮らしているかもしれない。
以上が先生の文でした。
最近、先生と電話でお話ししていても、この文と同じようなことが話題になります。
たぶん、上記文章は20年以上前のものだと思われるので、世間の状況はまったく変わっていない・・というか、ますます悪くなっているな、と思いました。
公園のベンチや、電車ホームのベンチで飲物を飲んでいた人が、飲み終えると(・・終えていない場合もある)、すぐ30㎝横にビン・缶を捨てるカゴがあるのに、そこいらの地面に置いていってしまいます。
駅のトイレなどにも、洗面台や小の便器の上の部分などにビン・缶・コンビニ袋に食べ残したものなどを置きっ放しにしているのを見かけます。
自分の部屋でなければ、どこにでもゴミを捨てるのでしょう。
そんな人が多すぎる。でも、注意したら殺されてしまうかもしれない・・。
先生のゴミのお話から、私もいろいろ現在の状況について考えました。
十数年前に作っていたホームページ“Modern Jazz喫茶『 頑 固 堂 』”のブログ版復刻です。
取り上げているのは、ジョン・コルトレーンのアルバム、「セルフレスネス」です。
再度聞き直して、追記も行いました。
John Coltrane/ss,ts
McCoy Tyner/p
Jimmy Garrison/b
Roy Haynes/ds
----------------------
John Coltrane/ts
Pharoah Sanders/ts
Donald Garrett/bcl,b
Elvin Jones/ds
Frank Butler/ds,perc
Juno Lewis/perc
①My Favorite Things
②I Want To Talk About You
③Selflessness
アルバムタイトルは“セルフレスネス”です。これを早口で3回言ってみると「セルフれふれふ」になってしまうという冗談はさておき、コルトレーンは一曲目の“マイ・フェイバリット・シングス”をレコーディングされたものだけでも10回以上はやっていて、初期のゆっくりとした、確かめながら吹くようなものから、このアルバムのようにどこまでも自由にプロウしまくるものまで、変遷に変遷を重ねています。
ここでは、マイ・フェイバリット・・・は最高の状態で聞くことができます。肉体も魂もすべて音楽に投入しているかのような捨て身のソプラノ・サックスは、命さえも投げ打ってしまったようです。
まさに音楽という大海に身を投げてしまったと言えるかもしれません。
片足をあの世に突っ込んだまま吹ききるコルトレーンのこのアルバムをBGMとして聞いたり、お酒を飲みながら聞くなんてことはできません。命がけの演奏をするコルトレーンに失礼な気がして、今でもいい加減な気持ちでこのアルバムをかけることはできません。
このマイ・フェイバリット・・・はドラムがレギュラーのエルビンではなくて、ロイ・ヘインズですが、徹底してコルトレーンを煽り続けるかのようなドラムはエルビンとはまた異なるもので、このアルバムに関しては大成功ではないかと思います。
3曲目ではエルビンのドラムを聞くことができますが、粘るようなうねるようなエルビンのドラムはまた別の魅力を引き出しています。両者互角の戦いと言っていいかもしれません。
その中間にある2曲目は1曲目と同じメンバーですが、ここでは少し心を休めることができるような演奏です。
コルトレーンのバラードを聞くことができます。
途中からフリーキーなソロが入ったりもしますが。
それにしてもこのアルバムは身を切り裂かれる思いでいつも聞くのですが、確かに名演であり、名作であると言えます。
コルトレーンの初期を聞いて馴れてきたら、このアルバムに突入するとよいかと思います。
魂の音楽が眼前に拡がります。
〈追記〉2022/07/01
上記文は、十数年前にホームページ上に書いたものですが、あらためて聞いてみました。
このアルバムのメインは「マイ・フェイバリット・シングス」の17分半に及ぶ熱の入った演奏です。
エルビン・ジョーンズではなく、ロイ・ヘインズがドラムを叩いているのですが、スネアの音が乾ききっていて、それが絶え間なく鳴っていて、この曲の無限の世界に“いざなわれる”ようです。永久に演奏が終わらないんじゃないか・・そんな気になります。
もともとは「サウンド・オブ・ミュージック」というミュージカルで歌われていたこの曲の不思議で怪しいような部分に気づいたコルトレーンの感性はあらためてすごいものだと感じます。
「そうだ、京都へ行こう」のCMに使われている曲の雰囲気は、コルトレーンが感じ取ったものに近いと思います。
コルトレーンに、皆、気づかされた、そんな曲だと思います。
2曲目もあらためて聞いてみました。
バラードですが、でも今聞いてみると、コルトレーンはメロディアスに吹きながら、何か「どう料理してやろうか」と探りながら演奏しているようにも感じます。
なので途中から、この曲調からは逸脱していないものの、自由でどんどん派生していくようなアドリブ・ソロを吹いています。バックもそれに心地よくついていく感じ。
最後は、コルトレーンひとりになって、孤高の境地みたいな演奏になっていく・・。
3曲目も再度聞き直してみました。
ジャム・セッション風に曲が始まるのですが、この曲はドラムがエルビン・ジョーンズで、こういう、とことんそれぞれのミュージシャンが“駆け引き”をしながら音の渦をつくるように演奏するような曲の場合、エルビン独特のリズムがものを言います。
どうやって叩いているのかわからないくらい複雑なリズムパターンのうねりに、全員が突入していくような感じ。
マッコイ・タイナーのピアノも冴えにさえています。
1曲目もいい演奏ですが、こちらもエネルギッシュな演奏で、初めてこのアルバムを聞いたときの「すごい熱量だな」と思ったときの感覚がよみがえりました。
コルトレーンのアルバムでは、私が一番好きなアルバムだな、とあらためて感じました。
『一日一言 -人類の智恵-/桑原武夫編(岩波新書)』を読みました。
これまた、ブックオフにて“100円+税”で、手に入れました。
この本は、人類の歴史上、偉大な行為をした人々の「英知」に輝く言葉、名言を偉人の生没日にあわせ、一年366日に配列し、略伝・肖像を付したものです。
ほんとうに、いろいろな偉人の様々な名言などが網羅されていて、人類の歴史をなぞっていくような感じで読みました。
今の私に響いた言葉をあげてみます。
【壮士】
人為で天下を治めようとするのは、海や河を歩いて渡ろうとし、蚊に山を負わせようとするものである。
・・・民は自然のままに放任するのが一番よいのである。
聖人はこの放任と自由をしっかりとつかんでゆく。
【墨子】
一人を殺せば、不義の行為として、かならず死罪にされる。
この論法でゆくと、十人を殺すものは、十不義を重ねたのであり、十倍の死罪にしなければならず、百人を殺すものは、百不義を重ねたのであり、百倍の死罪にしなければならない。
・・・しかし、大きく不義を犯してひとの国を攻めると、非難しないで、名誉とし、正義とする。
それが不義であることを全然ご存じない。
・・・天下の君子は、義と不義の乱れを見わけなければならないものである。
【トレーズ】
戦争、それは破滅した家庭であり、雨露しのぐ屋根もなく、パンもなく、金銭もなく、仕事もなく、路上をさまよう生活であり・・憲兵であった。
・・・そして私は誓うのだった、私の一切の力をもって、この憎むべき元兇と、戦争と、戦うことを、それを準備しそれで生活している者どもと戦うことを、戦争の永遠のギセイ者である人民を防衛することを!
かなり端折ってご紹介していますが、現在の戦争の状況を見て、とても重い言葉を過去に残していたんだな、と思いました。
なぜ、人類は、何度も戦争をして、結局、市民が犠牲になり、反省をして、そのときに残された言葉があるにも関わらず、そして後々にはその反省の言葉には目もくれず、また戦争に突入していくのだろうかと思います。
今回の戦争がなんらかの形で終結しても、また人類はもっともらしい理由を見つけてきて戦争を始めるんでしょうね。
人類は、地球上でも意外と下等な部類の生き物かもしれません。
『寂聴随想 無常を生きる/瀬戸内寂聴著(講談社文庫)』を読みました。
1996年に刊行されたものの文庫化です。いつものとおりブックオフにて“100円プラス税”で手に入れました。
この本は、随筆ながら、当時の世相、事件なども取り上げ、“怒り”の寂聴さんの姿も屡々登場いたしました。
薬害エイズに対する国や製薬業界の対応、オウム真理教の事件について、阪神淡路大震災のときのさまざまな出来事に対して、など、感情を露わにするような場面も多々ありました。
私が今まで読んできた寂聴さんの本の中でも一番上記のような印象が強い本となりました。
これを書いたときの寂聴さんが、まだ70歳を越えたばかりであった、ということもあるのかもしれませんが。
「こんなに腐りきった日本は、二十一世紀を迎えられるのだろうかと案じている」などと、書かれていたところもありました。
寂聴さんの本を読んで、いつも思うことは、自分は世間や社会の理不尽な出来事について憤っているのに、“誰か”に遠慮して、そのトーンを下げていやしないか?!ということです。
ほんとうにそれはよくないことだ、と思っていても、遠慮会釈なく物の本質に突っ込んでいかない自分に気づいてしまいます…σ(^_^;)それじゃいけないんだけど。
だから、皆、寂聴さんの本を読んだり、法話を聞いたりして、自分も本当はそう思っているんだ、と力づけられていたのかもしれません。
寂聴さんがいなくなってしまった今、もうこれから起こる事件・出来事について、寂聴さんの歯に衣着せぬ発言を聞くことは出来ません。
だから、意を決して、もっと自分の思うところを前に出して進んでいかなければならない・・そう、あらためて思うこととなった「随想」でした。
力強い本でした。
『ロシア点描 -まちかどから見たプーチン帝国の素顔-/小泉悠著(PHP研究所)』という本を読みました。
私、不勉強で著者の小泉悠さん(東大先端科学技術研究センター専任講師)を存知上げなかったのですが、ラジオでこの方のお話を聞いて、とてもわかりやすく、おもしろいお話をされる方だと思ったのです。
書店でこの「ロシア点描」を見つけたので、さっそく読んでみることにしました。
過去、ロシア科学アカデミーなどにも在籍していた小泉さんは、ロシアにも住まれたことがあり、しかも奥様はロシア人ということで、ロシアの日常の様子などが(今までニュースやその他報道では見聞きすることが出来ないような身近な話題)、そのまま書かれていて、とても面白かった。
スーパーでの買物の仕方、レジがどんな様子か、どんなものが売っているのか。
帝国からソ連、さらに現在のロシアに至るまでの一般の人達の住居の変遷、商売の仕方なども過去の建物などを壊して改築しようとすると、その痕跡が現われて「ああ、昔はこんなことをしていたのだ」などと驚く様子も書かれていました。
この部分を読むだけでも、とても興味深く、ロシアの人達の生き方、物の考え方が今までの知識だけでは想像できなかったところまでわかるような気がしました。
また、元外交官でロシアと関わってきた、あの佐藤優さんが現役時代のロシア人とのやり取りについて書かれた書籍を過去に読んだことがあるのですが、そのときとはロシアの役人達のやり方も、かなり変化を見せていることがわかりました。
とんでもない量の「酒」を飲んで信頼を得た後に、やっと相手との信頼関係が出来るというようなことも、近年はあまり無くなっているようだということがわかりました。
ただし、変わっていないと思ったのは、一度信頼関係を築き上げたあとは、かなりの親密な人間関係となり、意外なほど深いところまで情報を得ることが出来たり、便宜を図ってもらえる・・というのは、変わっていないようでした。
それから、ロシアの地下鉄というものは、かつてドイツとの戦争の時に防空壕的な意味での発展をしていて、地下 70~80メートルくらいに展開されていたこともあり、その名残りがまだある。
また、かつてはロシア政府用の第二地下鉄網が、通常の地下鉄とは別にあったとか、国の重要な大学の地下には政府が地下で運営できるようなものが作られていたとか、地下にはまだまだ謎というか、未知の部分があるようです。
このご時世、そんなことを調べようとしたら、怖いことになるかも・・。
そして、その防空壕として使われる地下鉄の駅・・というと、今現在のウクライナの戦争報道で再現されているのです。
今になって、こんなことになるとは、誰も想像していなかったのではないでしょうか。
余談ですが、私が東京勤務時、国会議事堂や議員会館など、地下道で繋がっていることを仕事上の使用で知りました。
一般人は入ることが出来ませんが、あの大きな地下施設は、まだまだいろいろなところに繋がっているんじゃないかということは想像に難くありません。
日本も何か戦時や戦後にいろいろ考え、地下の戦略的世界があるのかも・・と思いました。
最後に、ロシア人って、ちょっと近寄りがたくて、こわい感じがしていたのですが、実はちょっと仲良くなると、“おせっかい”なくらいに、いろいろ面倒を見てくれたり、心配してくれたり、良くしてくれる人達なのだ、ということもわかりました。
わかりやすくて、読みやすく、今まで知らなかったことがたくさん書いてあり、著者の人柄までわかる、楽しい本でした。
『打たれ強く生きる/城山三郎著(新潮文庫)』を読みました。
いつもながらブックオフにて格安購入。昭和58年、日経流通新聞に掲載されたエッセイを再構成したものだそうです。
読んでいると、かつての有名人が続々と登場してきたりして、城山さんの交際範囲の広さに驚きましたが、本田技研の本田宗一郎さんの自宅でのパーティーに呼ばれた時の話には驚きました。
通常、ホテルでのパーティーなどでは、おいしいものといっても、だいたい同じようなものが並んで、だいたいが通り一遍の形をしたものですが、本田宗一郎さんは、自宅庭に川を引き、流れをつくり、そこに鮎の稚魚を放ち、育った頃にパーティーを開催!集まった皆さんにそれを釣ってもらい、その場で焼いて食べてもらうという・・( ̄O ̄;)・・すっごい話でした。
とにかく、お客さんに喜んでもらうために、いろいろ工夫をされていたとのこと。
仕事でも、本田さんの様々な工夫は私たちの知るところです。
城山さんのこういうエッセイや、小説を読んで、いつも感じるのですが、城山さんの物事に対する真摯な対峙の仕方、真面目に丁寧に考えて、実直な文を書く、その姿にはいつも感服します。
文章もとても読みやすいのです。
見習いたいなあ、と、毎度のことですが、思いつつ読了いたしました。
アメリカ公演から帰ってきて、おみやげとして持ち帰ったリッケンバッカー12弦ギターをジョージが早速弾いています。
この曲は完奏したテイクが4テイクで、しかも間に合わせにシングル“キャント・バイ・ミー・ラブ”のB面として録音され、このアルバムではB面最後から2曲目という最も目立たない位置に置き去り状態です。
なのに、なのに、ビートルズのジョンが作った曲の中でも屈指の名曲なのです。
あまりにヤクザなジョンの歌いっぷりがまたかっこよく、ポールとジョージがサビで絡んでくる部分などは、これ以上の愉悦感はないというほどのものを与えてくれます。
おまけに間奏のジョンのリード?ギターはリズムだかリードだかわからないようなワイルドさで、殴る蹴るのかっこよさです。後にもこの手の演奏は“ホワイトアルバム”の「ヤー・ブルース」や“アビーロード”の「ジ・エンド」でのギター合戦、トロントでのクラプトンを従えてのライブでも聞くことができますが、ワイルドなリードギターはジョンの独擅場です。
そして、忘れてならない、ブレイクでのリンゴのフィル・インはロック史上に残るものです。
リンゴはボンゴも叩いています、ポールはカウベルで応援、この頃のビートルズは才能が洪水のように溢れていて(特にジョン)、こんな名曲を目立たない場所に置いていても全く影響無しというおそろしい状態でした。
ビートルズ・ファンならこの曲を知らない人はいませんが、そうでない人もぜひこの曲をご堪能いただきたいと思います。
近年発売された米盤の「セカンド・アルバム」ではデュオ・フォニック(疑似ステレオ)版も聞くことができます。お風呂で歌っているようなエコーが効いてしまっていますが、なかなか迫力を感じました。
〈追記〉2022/06/22
時は流れ、いろいろな録音を今現在聞くことが出来ますので、聞いてみました。
アンソロジー1に入っているテイク。
ジョンの「ワン・ツー・スリー・フォウワッ」っていうカウントで始まります。
ポールのベースがけっこうパワフル。
ジョン独特のギター・ソロはまだ未完成で、ちょっと間が空き、迷っているような部分もあります。
ジョンのボーカルは手応えを感じつつ自信満々に歌っている感じ。
米キャピトル盤「セカンド・アルバム」に入っているもの。
疑似ステレオになっていて、缶の中に入って演奏しているような響きが気になります。
でも、いつも感じるのですが、米盤は“わくわく”するような盛り上がり感があります。
2009年リマスターのオリジナル・ステレオ盤は、安定のミックス。
ジョンのボーカルもはっきり聞こえ、過剰なエコーもなし。
ギター同士のバランスもとても良い。
バックのコーラスの音量・ミックス具合も“丁度いい”d(^_^o)
オデオンのレッドワックス・テスト・プレスもあったので、聞いてみました。
こちらは、バンド感がより出ていると感じました。
ギターのソロ時の高音部も“攻めて”いる録音のように感じました。
全体のまとまりも良いです。
2009年リマスターのオリジナル・モノラル盤。
こちらは、ジョンのボーカルもコーラス隊も非常に情緒豊かに感じます。不思議なことですが、“気持ちがよく乗っている”と感じるのです。ギターもそんな感じ・・。
1964年のハリウッド・ボウル・ライブの録音も聞いてみました。
ジョージのギターのつま弾きが素敵!
ジョンのギター・ソロもワイルドでなかなか良い。
ジョンもポールも興奮気味のボーカルが、臨場感がありとても良い。
上記と同じライブのモノラル録音。
ジョンのボーカルも演奏も前にグイグイ出てくる感じ。ギター・ソロも過激と感じるくらいのミックスで入っています。
BBCライブのボリューム2に入っているもの。
最初に司会者の曲紹介入り。演奏は、割と“一発録り”の雑な感じ。ボーカルも細かいことは気にしないで、どんどん進んで行きます。
正規版の「ライブ・アット・ハリウッド・ボウル」も聞いてみました。
全体に適度なリヴァーブもかかり、ベースの音もちょっとオーバー・ロード気味にミックスされています。
ジョンのギター・ソロはややジョージの奥にいる感じでのミックス。
米キャピトル盤のモノラルもあったので、聞いてみました。こちらは“ど迫力”。
ジョンがガンガン、グイグイとバンドを引っ張っている様子が伝わってきます。
リンゴのドラムもとてもパワフルで、さらにバンドをドライブさせます。
ジョンのギター・ソロは、音が割れても知らんっ!っていうくらいの力の入り具合いがわかる録音です。
『青豆とうふ/安西水丸・和田誠《絵・文》(中公文庫)』を読みました。
安西さん、和田さんという二人のイラストレーターが、互いの文章の話題を“しりとり”形式に受取り、また次ぎの話題を最後に持ってくるという、[面白文章リレー]になっていました。
しかも、安西さんが文を書いたときには、和田さんがイラストをいれる。和田さんが文を書いたときには安西さんがイラストを描くという・・楽しくも夢みたいな構成となっていました。実に面白かった(*^_^*)
また、この本のタイトルは、安西さんが村上春樹さんと居酒屋で一杯やっているときに、この本の話になり、村上さんに「タイトルを考えてくれないか」と所望したとのこと。
で、そのときに村上さんがつまみとして食べていた「青豆とうふ」がいいということになったんだそうです(^_^;)これまたおもしろいエピソードです。
おふたりの話題は豊富で、安西さんが鳥取県倉吉市にある打吹山・長谷寺に行ったときの話は怖かった。
次席家老・荒尾氏の墓地があるということで、雨の中、山をのぼっていると鐘撞櫓があり、誰かが鐘をついたと思うと、そこから白い着物を着た若い女が現われたんだそうです。
怖くて顔を確認せず、そのまますれ違い、雨でかなり厳しい道を滑りながら目指す墓地にたどり着き、そしたらさっきすれ違った女性が白い着物のまま墓地の前でしゃがんでいたんだそうです。
女がゆっくり振り向こうとした時、安西さんは脱兎のごとく駆けだしたんだそうです。
この話題の時の和田さんのイラストもなんだか怖いです・・。
また、和田さんの文で、いろいろなイラストの仕事を和田さんのところに持ち込む人がいて、作品を渡しても支払いがなく、次の仕事を持ち込んで来て、「前の仕事はあと少しで終了するので、その後支払う」みたいなことを言う・・ようするにサギというか、インチキな男の話が面白かった。
このエピソードは和田さんの文なので、安西さんがイラスト担当なのですが、いやもう、そのインチキな男の絵がいかにも“インチキくさく”て笑えました(^_^)
文と絵のバトンタッチが交互に行なわれたこの本、とても楽しめました。
映画『エリザベス 女王陛下の微笑み/2021年 イギリス 監督:ロジャー・ミッシェル 出演:エリザベス二世他』という映画を見ました。
英国君主エリザベス2世の在位70周年の祝福の年に公開されるべく製作されたドキュメンタリー映画でした。
内容は、1930年代からこの2020年代までのアーカイブ映像を、パッチワークのようにつなぐことによって作られている「大全」的な映像作品で、女王が若くて美しい時代ももちろん、現在に至るまでの映像は、私も見たことの無いものがたくさんあって、「皇室アルバム」的な見方をすれば、ある程度楽しめるんじゃないかと思いました。
舞台裏的な映像もありましたので、ふだんのエリザベス女王の人間的な魅力なども随所に感じることができました。
ただ、英国王室にとって苦難、試練の時期が何度も在位期間にあったと思うのですが、その部分についての掘り下げ方というか、ほとんど掘り下げていないという印象でした。
たとえばダイアナ妃とチャールズ皇太子のご成婚時の国民の歓喜の様子なども、時間としては、ほんとうに“通りすがる”程度の取り上げ方だったし、ダイアナ妃が亡くなったときの国民の前に姿を現わす女王陛下の様子なども、かなり時間が絞られていて、突っ込んでその部分にふれているということはありませんでした。
なので、90分という、近年では割と短い上映時間でしたが、それでもニュース映像をずっと見ているような感じで、ちょっと退屈してしまいました、私は。
あと、私個人が“おっ”と思ったのは、ビートルズがMBE勲章を授かった当時の映像と、ポールマッカートニーが若い頃に感じた女王陛下の印象、さらに最後の最後に流れたビートルズというか、ポールマッカートニーが歌う「ハー・マジェスティ」です。
この曲はビートルズが最後に製作したアルバム(※最後に販売したのが「レット・イット・ビー」です、因みに)「アビー・ロード」のラストに入っているものです。
当時、レコーディング・スタッフがポールから「とりあえず録音したものは、クズでもとっておけ」と言われて、アルバムのテープ最後部に残しておいた、ポールがちょっと“おふざけ”で作った曲で、だからいきなり前の曲のエンディング音が残っていたり、お尻は録音が切れていたりのものでした。
プレイバックしたときにそれを聞いたポールが「おもしろいからそのままにしてリリースしよう」となった不思議な曲ですが・・。
で、話を元に戻して、映画のラストで流れる「ハー・マジェスティ」は“完全版”でした。
近年発売された「アニバサリー・エディション」に入っていたテイクに、さらに冒頭、ビートルズ達の会話や、イントロのやり直しなども入っていました。
・・この映画の趣旨とは離れるけど、ビートルズ・ファンにしたら、絶対に聞いておいた方がいい!というパージョンでしたd( ̄  ̄)
以上、ちょっと横道にそれましたが、映画「エリザベス 女王陛下の微笑み」の感想でした。
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