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2020/08/04

【南先生の玉手箱_0021_魅力ある学校とは】

20200804_minami_data001

私の中学時代の担任で美術の先生の昔の文書掘り起こし、今回の資料には日付が書かれておらず、たぶん平成16~17年頃のものではないかと思われます。
「魅力ある学校とは」という一文です。


以下、先生の文章です。

『魅力ある学校とは』

昭和44年の春から、あれから春が、また秋が流れて、三十数年月日は流れたが、自分という人間も学校に通ってくる児童生徒、そして地域も環境も、見ため姿は大きく変わったようでも本質は変わっていない。

どんな思いで教師を続けてきたか、それぞれの職場で何を学び、感動したか。

昭和44年春、時は3億円事件のあと、当時、ちょうど事件のあった国分寺方面、鷹の台と言うところに下宿をしていたこともあって警察の取り調べがあった頃。
自分は学校卒業後はアルバイトのサンドイッチマンを続けながら東京で絵を描き続けたいと考えていたところ、教員採用合格と親の意見もあって、千葉市でスタートした。

千葉でも田舎の学校(誉田中)で、上司、仲間、そして地域の方々に支えられて、美術教師として楽しく過すことができた。
新卒の頃、3年もやっている先輩を見る時、よく長いこと続けているなあと、まるでいつも明日はやめてもいいような気分で自分のやりたいことを中心に活動させてもらったことが、今ふりかえる時、ありがたく、何かの折に発想の原点になっている。

美術室がないところ、学校の廊下をふさいで準備室にしたり、空き教室、ボロ校舎に生徒を集めてグループ制作など、大きな仕事もとりくんだ。

放課後は、日が暮れるまで美術室で制作の続きをやる生徒がいた。

自分の美術の時間と、道徳、学活、他の先生の時間ももらって、春や秋は外に散歩に行く。
クラス全員、時間を忘れて昼すぎて学校に帰って給食のあとしまつに迷惑をかける。
そんなことのあとも担任としてひどく叱られた記憶はない。
考えてみるに、その時の校長、主任の先生などには心配をかけたことと思う。
今は思ってもなかなかできないように思う。

正月には急な話しで、初日の出を見ようと大網街道を海岸まで夜中いっぱい歩いたこともある。
今そんなことをやれば大変なことになる。

学級や部活動でよく合宿など楽しみの会をよくやった。

学年主任のうしろ姿から、魅力ある教師の一面を学んだ。
主任のクラスの自習時間に顔を出していた時、途中でその先生が出張から帰ってきて、生徒が大拍手。その時、自分自身が小さく思えた。
とても同じような人格にはなれそうもなく、今だ足もとにもおよばないが、時々思い出しては、教師の魅力、子どもから見える教師の姿のあるべき大切な部分を考える時、その先生の言動が思い出されます。

授業でも行事でも、教師自身が嬉々としてとりくんでいる姿・・。


以上が先生の文でした。

この文の中で語られている、先生が教師としてスタートした“田舎の学校”が、私の母校です(^_^;)
先生はそのとき、学校を卒業して数年、若かったのですが、私には40歳くらいに見えました。長髪であやしい雰囲気、ゆっくりと下から湧き上がってくるようなしゃべり方、(^^;)、“ただ者じゃない”と感じたものでした。
まさか、先生が70代半ばになっても生徒としておつき合いし、楽しいやりとりをするなんて思いもしませんでしたが。

きょうはこのくらいにしておきます。
おやすみなさい。

 

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