サインもいいけど印鑑もね。
内閣が変わり、大臣も変わって、最近目に付いた話題としては、婚姻届などの戸籍届出に押印不要とすることで作業を開始したということ。
要するに署名すれば足りるということになるようです。
今現在の状態で言うと、例えば婚姻届に「押印」するとき、・・なんらかの決意のようなものを感じる人が多いのではないかと私は思います。
それはもちろん「離婚届」についても同じであろうと思われます。
押した瞬間に何か運命の帰路に立っていて、そこからの人生の方向が変わる・・そんな決断をすることの象徴のようでもあると、私は思うのです。
『決意』のようなものがそこに生まれているのではないでしょうか。
ハンコがなくなると様々なことが簡略化されて、コロナ感染拡大の中、電子決裁等が進み、ハンコはそれへの支障になる、などという意見が跋扈(ばっこ)し始めましたが、ハンコってたぶん元々は「簡略化」のために存在したのではないかと思います。
歴史上、偉い人達は文書決裁するときに、『花押』を描いていたわけですが、膨大な書類を前に、いちいちそれは面倒だし、時間が掛かる、だから「押印」することにして【効率化】したんですよね。
今、サインしたり、電子決裁したりして「効率化」することで“支障”となっている押印を廃止するのだっ・・って鼻息荒く、得意気に言っている人に、もともとはハンコは効率化の先方だったのだ、とひと言は申し上げておきたいと思いますよ。
それに、電子決裁などまだまだ先のこととなっている中小の会社や商店、あるいは田舎の方でハンコが様々なシチュエーションで役立っていることは多々あると思います。
ハンコが生きて行く場面はまだまだあって、それはそれで便利なものとして利用していくことも併せて考えることが大事だと私は思います。
なぜ、ハンコを押すのか。
それは『意志の担保』ということが簡単にできるということだと思います。
それがサインでも、電子決裁でも、場面によっていろいろ選択肢があるということで、“ハンコ憎し”みたいな人が増えるのはあまりにも短絡的です。
もうひとつ、ハンコは[コミュニケーション・ツール]であるということも言えると思います。
おもしろいデザインのハンコがたくさん創り出されているのを目にしたことのある方もいらっしゃると思いますが、それが自分の“アイデンティティ”の表現になったりして楽しいこと、そして人との関係を潤いのあるものにしてくれるということもあると思います。
SNSだなんだ、という社会ですが、そこにそんなツールとしてのハンコの存在は“ゆるく”楽しい関係性をもたらしてくれるように思います。
というわけで、ハンコを突然“悪者扱い”し始めた世間の様子に対し、私なりにちょっと書いてみました。
コミュニケーション・ツールとしての最高なものとして、私の中学時代の担任の先生が私に作ってくれた「おもしろハンコ」の写真を掲載しておきます。
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