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2021/05/30

【南先生の玉手箱_0029_或る人の書いた本から 】

20210530_minami_data001

私の中学時代の担任で美術の先生の昔の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
前回、前々回と、このコーナーでご紹介した、平成10年の「家庭教育学級・資料 -家庭における進路指導のありかた-(私自身をふりかえって)」という冊子からの一文です。

今回は「或る人の書いた本から」というタイトルの文を追いかけてみました。


以下、先生の文章です。

『ある人の書いた本から』

〈できる子はいい子?〉

人間の能力には、知的能力、運動能力など、さまざまな能力があるにもかかわらず、人間としての価値を学力「テストの成績」というひとつの尺度で見るようになってしまった現実がある。
「あの子は頭がいい」とか「できる子」という言葉に代表されるように、テストの成績の良い子は「いい子」だとする見方を大人も子どもも無意識のうちにするようになってしまったのではないでしょうか。
しかし、学校のテストの結果として示される知的能力の高いことが必ずしも人間として優れていることにはならないことは、誰もが知っていることです。

〈他の人と同じでないと気がすまない〉

子供たちもまたテストの点数を上げ、できるようになることが学習だと思い込んでいるふしがあります。
しかも、その「できる」という到達の基準をできる子と同じところに置いて、そこから自分のできる、できないを判定して、できなければ放棄する傾向があるようです。
あくまでも、他との比較の上に立っての学習なのです。
それも、必要なことに違いはありませんが、私たちの手や足の指一本一本が形も能力も異なってこそ役立っているように、子供達の資質、能力も速い子があり、遅い子があり・・・千差万別です。
他と同じようにできないからあきらめてしまうのではなく、自分は自分のいる状態を知り、それを一歩でも高め、前進させようと努力していくようにならなければいけません。
基準は自分・その子なのです。

〈投げつけられっ放し〉

他人から受ける教育は、野球にたとえれば、子供達は、学校でも家庭でも、先生や親から「ああしなさい」「これは大事」「よく勉強しておきなさい」「覚えなさい」などというボールの投球ずくめで、それを必死になってキャッチしなければならなかったということも言えるでしょう。
キャッチするというのは、ただ受けていれば良いのではない。投げられる球がストライクの直球ばかりなら良いけれども、中には暴球もあり、変化球あり、剛球ありと、さまざまです。
それをキャッチしなければならないのですから、ミスが出るのはあたりまえです。
むしろ、力の弱い子は、ほとんどキャッチできないで、こぼしてばかりだったのかも知れません。

「他人から与える教育」に力を入れるあまり「自らが自らに与える教育」をおろそかにしてきてしまったのではないかと思われます。
その結果として、登校拒否など現在問われている弊害が出てきたように思われます。

◎あたりまえのことなんでしょうが、学ぶ側が主体であって、自ら育つことが教育であり、それを支えるのが学校や家庭だと思います。


以上が先生の文でした。

当時先生は51歳。
先生が考える学校や家庭での教育へ思いが語られていると思いました。それもわかりやすく。
こういうことに思いを馳せながら学校現場に立ち向かっていたのだ・・と、あらためて生徒だった者として読んで、感慨深いものがあります。

 

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