【南先生の玉手箱_0031_生まれて51年 7回シリーズ[7の1] 】
私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
このところ数回に渡り、このコーナーでご紹介した、平成10年の「家庭教育学級・資料 -家庭における進路指導のありかた-(私自身をふりかえって)」という冊子から、「生まれて51年」という文を長編なので、7回に分けてご紹介いたします。
それでは、7回中の第1回目です。
以下、先生の文章です。
今ここに、自分が存在していることは、良くも悪くも、私自身の人生、とりかえしもやりなおしもできない。生きてきた進路の途中結果である。
誰もがみんなひとりとして同じ生き方はできないもので、この広い宇宙に二つとない大切な命です。
そんなことはあたりまえなのだが、自分の人生、時に立ち止まって自分らしく生きていきたいと思いながら、はじめて記憶の中で自分の生い立ちをふりかえってみました。
中学生の進路のために、直接参考となるものではないかと思いますが、自分とはちがった他人の生き方や感性に対して異文化に触れたつもりで読んでみてください。
お互いに時代も家庭環境もちがう中で、それぞれの人生を生きています。
他人のことは、理解できないことが多くてあたりまえだと思いますが、人として何かひとつでも感じることや認められることがあれば、ひとつのきっかけ、出会いがプラスになるかもしれません。
今回は、ひとつの偶然の出会いと思います。
親も子も共に自分らしく、望ましい進路について、お互いに考えてみたいものです。
1947.S22.3.11生まれ
終戦のあと、現在は東京タワーのある港区、芝を離れ、私の母親が育った千葉県八日市場に小さな百姓として定住することになり、そこで妹と二人兄弟の長男として生まれた。
家族は終戦の頃、疎開をしていた様子で、もし東京にいれば今の私の存在もない。
命ひとつ考えてみる時に、いつも不思議に思うのだが、それこそ何十億分の一、これまた偶然の確立である。
この夏、学校ちかくの住職さんのお話しの中にあった「神様からせっかくいただいたこの命、大切に生きようよ」を思い出した。
現在もそうだが、私は自分のルーツについて無関心なタイプである。家と言うものにこだわりをもたず、小さい頃から自分が長男である意識も特になかった。
自分の育ち方はもちろん親の育て方が大きくかかわっているのだろうが、その子育てについても特別に自分独自の子育て論を持っていない。
男の子が二人いるが、進路については、本人任せであり、親として相談されたこともなかった。
頼りにならなかったのか、その必要がなかったのか、深く考えたことはない。
現在のところ、自分の子どもの生き方については、他人様に迷惑をかけない暮らしをしてもらいたいと思う他に特別な期待はしない。
自分の子どもに限らず、人はみんな、その人らしく、人として自分の生き方に自信を持って暮らしていくことを願っている。
私自身、自分はどのように生きてきたのだろうか。又、生かされてきたのだろうか。
以上が先生の文でした。
冒頭、1頁目の活字化です。今後、6回に分けて、この続きを活字文章化していこうと思います。
けっこう長編になるので、南先生をご存知の方、かつて生徒だった方もご覧いただいているようなので、どうかお楽しみに。
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