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2021/07/31

「おかわりもういっぱい -おなかがすいたハラペコだ②-/椎名誠」を読みました。

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『おかわりもういっぱい -おなかがすいたハラペコだ②-/椎名誠著(集英社文庫)』を読みました。

あいかわらずの“椎名節”でした(*^_^*)

特に今回の本は、麺にこだわった文が多かったのですが、ソーメンについて「日本のソーメン界」はどうなっとんのだ!と息も荒い!(^^;)

たしかに「ソーメン専門店」などというのを椎名さんも私も見たことがない。
夏の一時期、ソバ屋などには「申しわけ」程度にソーメンが品書きに載り、でも椎名さんがいうとおり、なんだか量も少なく、缶詰のミカンが一個乗せられているだけで、つゆもおざなりだということで、それそのとおり・・と、感じます。

椎名さんはソーメン好きで、ソーメンのたれの作り方から、薬味のネギ、タンザクにした海苔、ニンジンやしいたけなどを細切りにして薄い醤油で煮たもの、卵を薄焼きにしてタンザクに切ったもの、アブラアゲをタンザクに切ったもの、などなどを美味しそうに挙げていて、読みながら「ソーメン食いたいっ!」と思ってしまいました(*^^*)

ラストの方で、海外に居る娘さんが日本に寄ったときに、お孫さん二人の誕生日祝いに、ソーメン・パーティーを大人5人、子ども3人の久しぶり再会家族で行う様子が書かれ、すっかりおじいさん扱いされている椎名さんが、ほんとうに幸せな時間だと言っているのが、うれしくなりました。

「しあわせ」って、こんなひとときのことを言うんだろうな、と、学生時代から椎名さんの「本の雑誌」から始まった、さまざまなエッセイや小説、冒険記などを読んできた私は思ったのでした。

我が家もいつまでも、そうでありたい・・、ひそかにそう願いました。

 

【「インターネット上での広報へのアドバイスに?!」のお話/過去に会った人、過去にあった出来事について振り返る №13】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ。
いろいろ前後しますが、今回は、東京勤務を終えて地元に戻ってきて最初の職場でのお話です。

東京で作った facebook page は、“幻”となり、公にはなりませんでしたが、地元最初の職場で、上司から「あなたに facebook page っていうもの、私はそれ、知らないんだけど、やらせるといいよと、ある人から話を聞いたので、なんだかわからないけど、それやってみて。」ということになり、今度は最初っから公に出来ることになり、私ひとりに任されたのでやってみることになりました。もちろん、そのほかにも仕事はその何百倍もありながらの話です。

地元に帰り、職場は市全体ではなく、区という特定の地域が相手なので、広報的なネタは細部に渡り様々なものがあり、やり甲斐がありました。

取材もどんどんして、どんな些細なことでも心に留め、あらゆることをネタに出来るという気持ちで作りました。
おかげさまで、アクセス数は上がり、一日で6,000アクセス以上いくような時もあり、更新も1日~2日おきです。
だって、書きたいことはいくらでもあるのですから。

でも、地元に戻って最初の職場では、二年間に二人の直属上司を経験しましたが、二人ともにまったく同じインターネット上の広報についてのアドバイスをもらいました。
ほとんど同じ文言だったので、驚いてよく覚えているのです。

それを要約すると↓

あなたが作るものは、写真も自分で必ず撮り、情報を熱心に取り、調べて、いろいろな人の話も聞いてきているし、初めて聞くことや、目にした人には面白い情報も入っている。
だけど、あまり“利口”なやり方じゃない。

インターネットで広報するときの“コツ”は、まず「楽(らく)」すること。
その記事に対するよく出来たホームページを見つけて、リンクを張る。
リンクのところには、そのページにあった良く撮られた写真を貼り付けておく。

そうすると、いかにもよく出来たページに見えるようになる。しかもまるで自分が作ったように見える。

[私の意見]→ それでは、元々のホームページに載っている内容だけになってしまい、そもそもアクセスする人には既存の情報を見ることになってしまい、新しいことや、見て来た人の感想などもわからない。
また、いくらリンク集みたいなものにしても、facebook はタイムライン形式なので、どんどん流れて行って見えなくなってしまう。

さらに上司のアドバイスの続き↓

見ている人の評価を意識するんじゃないんだ。自分の上にいる人達を意識すること。
そのページを見て評価する上司を意識するんだよ。
だから、“見てくれ”がうまく出来ていれば、内容云々ではない。一見してよく出来たものに見えればいいんだ、よく覚えておいた方がいいよ。これが仕事というものだよ。
あなたのやっていることは自分の評価を上げるためには非常に効率の悪いことをしている。
誰もがあなたを見てそう思っていると思うよ。「もっと要領よくやれ」って。

ということでした。

せっかくのアドバイスでしたが、私は東京にいたときに、上記のようなことは既に感じていました。
「仕事」というものをどう考えるか、ということが問題です。
これからのこのブログでも書こうと思っていますが、東京から帰る時に、もう仕事に対する「絶望」を感じていたので、「自分の持ち味を大切にして静かに生きる」という決心をしていました。

素直にアドバイスに従うことは、「自分」を捨てることになると思いましたので、「自分」を残すことにしました。
なので、東京から帰ってきた最初の職場では自分の出来ることを最大限、真摯に取り組みました。
それは遡れば、今でも見ることが出来ます。

私がその職場を去ってからは、1~2日おきの更新は、年に数回になっていました。

 

「ねにもつタイプ」岸本佐知子著を読みました。

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『ねにもつタイプ/岸本佐知子著(ちくま文庫)』を読みました、というか途中で脱落しました。
前回の三浦しをんさんの「極め道」に続いて連続の脱落です。

エッセイ集って書いてあったけど、日々の出来事の中から妄想を広げていって、どんどん異世界に著者が行ってしまい、私は“おいてけぼり”にされた・・という感じでした。

引っ越してきて、スーパーで買った卵の黄身が元気なく、他の店で買ったらどれもこれも双子の黄身で不気味さを感じ、そういえば町には子供が少ない、駅から吐き出される人びとには生気がない、と思い始めてこの町はゾンビ化した住民の住むところだ・・などと話は展開するのですが、私には何も感じませんでした。

どの話題もついて行けなくて、半分もいくと脱落・・。

最近のコロナ過で、自分自身が疲れているのか、まるで“ノって”こない。

途中でこの本を手にして読んでいるのか、ぼぉっとしているのかわからなくなり、無気力になった自分を発見し、脱落することにしました。

よっぽど体調が良くて、気力充実期にしか読めそうにありませんでした。
今回はごめんなさい。

 

2021/07/30

【The Beatles 研究室・復刻版】Please Please Me[A-2]Misery

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2004年から2008年にかけて作成したホームページ「The Beatles 研究室」・・2009年リマスター発売後の一部追記も含めてのブログにての復刻版です。ほぼ当時のまま、そして復刻後追記も付しております。
今回は、デビューアルバム「Please Please Me」から「ミズリー」を取り上げます。
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驚くべきは、デビューアルバムで、自分たちのことで精一杯のはずなのに、この曲は一緒にツアーをしていた16歳の女性歌手“ヘレン・シャピロ”のために書かれたものだということです。

残念ながら、この曲の歌詞が暗いという理由(たぶん)で、この曲の受け取りは拒否されてしまったようですが。きっとあとからものすごい後悔をすることになったと思いますけど・・・。なんたって世界最高のコンポーザー・コンビ、“レノン/マッカートニー”の作品を断ってしまったのですから。

そうそう、もうひとつ驚くのは、この作詞/作曲者名のクレジットが『 McCartney/Lennon 』になっていることです。そう、ポールが先になっているのです。きっとあとでジョンに丸め込まれて後に順番を逆にされてしまったのだと思います。
後年、ポールが元に戻そうとしたときに、このクレジットのことを知らずにけっこうポールはひどい中傷を受けましたが、最初はこういうクレジットだったのだから、ポールの主張もあながちひどいものではなかったのです。

さて、曲の方はミズリー・・・“惨め”な状態を歌った曲を作ったのですが、それは若い人達が惨めだと言っている状態を逆に大げさに表現して逆説的に批判するようなジョンの歌いっぷりになっています。

さらに、この曲は驚くことにポールも一緒に歌っていて、けっこう気づかない人が多いと思います。
まるで、双子が歌っているようで、ジョンのオーバーダビングだと思っている人が多く、ビートルズの研究本でも間違っている記述がけっこうあります。
間違いなく、ジョンとポールが歌っているのです。特に初期にはこのような曲があり、私も中学生の頃には判別がつきませんでした。

ほとんどあまり気にとめられないような曲なのですが、よく聞くと上記の二人のボーカルを始め、その一見素直に聞こえる演奏も16テイクも録り直している背景があり、苦労した平凡さが光る曲です。


〈追記〉2021/07/30

2009年リマスター・ステレオ版をまずは聞いてみました。
ギターのストロークがとてもはっきり聞き取れます。
エレクトリックと共に、アコースティックギターも入っているのですが、このステレオ版では、アコースティックギターの音も割とよく聞こえます。
右側からボーカルが聞こえるのですが、ジョンとポールの声もよくわかります。ちょっと艶のある感じに録音されていると感じました。

2009年モノ・マスター版で聞くと、エレクトリックの方のギターのリズムカッティングがステレオ版よりもはっきりと聞こえます。
ボーカルのジョンとポールの声は、このモノラル版の方がより明瞭であると思います。逆にリバーブのような処理は、ステレオ版よりも感じられず、ナチュラルな声を聞くことができました。

ついでにBBCのライブ盤に入っているものも聞いてみました。
これは、ポールのベースがとてもよく入っていて、ちょっと“丸み”のある音色まではっきりと聞こえ、フレーズも全部聞き取れます。ギターはあちこちでミスっていますが、ライブですから楽しくていいです。

 

「極め道 -爆裂エッセイ-/三浦しをん」を読みました。

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『極め道 -爆裂エッセイ-/三浦しをん著(光文社文庫)』を読みました。

1998年11月から毎週一回の連載でボイルドエッグズ・オンラインというウェブマガジンに発表したものに手を加えたものなんだそうです。

著者本人がさしたるコンセプトもなくダラダラと書いたと言っているのですが、内容は“そのとおり”なもので、若い三浦さんが友達と電話などでお喋りしているようなものをそのまま文にしているような感じでした。

たぶん22歳くらいだったのではないかと思います。
話題も若い女性が友達とよくするようなものが多く、私にはどうでもいいことばかりが書かれていました。
でも、そのウェブマガジンの読者にはピッタリなものだったのだと思います。

読んでも、読んでも、私には面白くない。

とうとう途中で投げ出しました。

文章自体もダラダラと、そして延々と、お喋り口調で続き、降参です。

三浦さんの小説などは何度か読んで、とても面白かったのですが、この若い頃のダラダラ文にはお手上げでした。

これ以上書くことがなくなりました。

 

2021/07/29

【「眼圧検査でジタバタした男」のお話/過去に会った人、過去にあった出来事について振り返る №12】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ、続いてます。
今回は、以前この「過去にあった出来事シリーズ」で登場していただいた「忌引きだけ出して仕事して」の係長がまた登場です。三回目d( ̄  ̄)

同じ職場だったその係長、私と同じ日に健康診断だったか、VDT検診だったかで、眼圧検査の列に並びました。

先に係長、次の順番が私でした。

眼圧検査って、機械にアゴをのせて、眼を開けている時に「フッ」っと空気が出て来て、はい検査終わり・・という簡単なものでした。

で、係長。

医師:「はいアゴをのせて、いいですか、ちょっとの間だけ眼を開けていてくださいね、“フッ”と空気が出ますよ」

係長:「こわいです、こわいよ、いやだぁ、こわいよぉ~」

看護師A:「なんてことないですよ、こわくないし、痛くもないです。安心して。」

係長:「いやだぁ~、どうしよう。帰りたいですう~。」

私:肩をふるわせて、笑いをこらえるのに必死(^_^;)

看護師B:「ほんの瞬間ですよ。大丈夫。」

係長:「だいじょうぶじゃなぁい!どうしたらいいのっ!」

看護師AB:互いに目配せし、うなずきあった・・と思ったら。

看護師Aが係長を羽交い締め(プロレス技でいえば「フルネルソン」)し、係長を機械に固定。

すかさず、看護師Bがそのうしろから“二人羽織り”状態で、係長の両目を左右の親指と人差し指で開いて固定。

係長:「うわぁん、いやだ、たすけてぇ~~っ!!」

医師:「いきますっ!!」『ぷしゅっ』・・「はい、おわりでぇ~す。」

看護師AB:すぐに係長を解放。

係長:「えっ、もう終わったの?何も感じなかった・・。」

私:笑いを悟られぬよう、目を閉じて体がふるえないようにしています。

というわけで、まるでコントを目の前で見せてもらったようでした。あ~、可笑しかった(*^_^*)

 

「わたしの小さな古本屋/田中美穂」を読みました。

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『わたしの小さな古本屋/田中美穂著(ちくま文庫)』を読みました。

著者の田中さんが、21歳のときにアルバイトを辞めさせられて、これからどうしようと思い、その日に古本屋をやろうと決め、物件を探し出し、倉敷の美観地区の外れに「蟲文庫」という古書店を開きます。
・・でも、この本を読むと、後に本人が書いた日記を見て「その日のうち」に決めたことを本人自身が驚いています。その日のことを忘れてしまうくらいな状態で行動したのでしょう。

古書店経営の知識も、しかも予算もほとんどないのに開店し、奮闘する著者の様子は、読んでいてどんどん引き込まれました。
そして、「人と人のつながり」というものがこの人の大切なキーワードになると思うのですが、思いもよらぬ人から声がかかり、音楽イベントなども狭い店内で開かれるようになったりします。

さらに、著者が偏愛する『苔(こけ)』も店内に並び(^_^;)、『苔』の本まで書くに至ります。

小さな古書店を一人の若い女性が始める話が、とてもおもしろくて豊かな物語になっていて、しかも著者の文体は、ゆるく、自然で、力が入っていなくて、読みやすくもあり、教訓じみた堅苦しさもない。

あっという間に読み終えました。

調べたら、蟲文庫は今も健在!
ツイッターも発見しましたので、フォロワーになりました(*^^*)

コロナ騒ぎがおさまったら、倉敷にぜひ行って蟲文庫を訪ねたいと思っています。

 

2021/07/28

【「メモはむずかしいよ」というお話/過去に会った人、過去にあった出来事について振り返る №11】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ、続いてます。
今回も、またまた東京勤務時代のお話です。

今回の主人公は、前々回に「鶏料理が苦手だ」というお客様に対して「比内地鶏の店」に電話を掛けて予約を取った上司、再登場です。“輝け・やらかし大賞”って感じでしょうか(^^;)

ある日の勤務終了間際、本庁から電話連絡が“地鶏・上司”に入り、国から重要な地方への施策に対しての説明があるというのです。
夜、聞き取りに来てほしいということなので、うちの事務所から出席して聞いてきてほしいということでした。
“まさにウチの仕事”そのものです。

電話を終えると、“困ったなあ”という表情をしていて、電話の相手方に上司本人が直接お願いされてしまったのでしょう。
帰ろうとしていたのに、というのと同時に、聞き取ってから、再び事務所に帰り、文書化して本庁にメールで送らなければならないのです。

“地鶏上司”は、いかにもパソコンを打つときは、両手を広げてうまそうに打つのですが、見ていると、結局使っているのは“右手人差し指一本”で、「目にも留まらぬ“遅さ”」で打つのです。A4一枚でも一時間以上かかるでしょう、「ご愁傷様」と思っていたら、私に声が掛かりました。

地鶏上司:「電話、だいたい聞いてただろう、一緒に行くぞ、私もメモするが、あんたも補助でメモしてくれるか。」

私:「はい、わかりました。(私の心の中 → 結局帰って来てからの文書化も私にやらせるだろうな)」

で、大きな会場に行き、二人で聞いてきました。

私は、こういうときのために自腹で買っておいた、キングジムの「ポメラ」という折りたたみ式のキーボードに小さな液晶画面がついている「テキスト入力専用事務機」を持参し、説明者が話しているのを同時に打ち、その場で活字化していきました。

上司もノートを持って行き、何やら書いているようでしたので、少し安心していました。

で、帰ってきてすぐに私は自分が入力したものをプリントアウト。
もう、ほぼ出来上がっています。

でも、それを見た上司が

地鶏上司:「語尾がまちまちだぞ、何やってんだ。漢字変換のミスがあるぞ、しっかりしろ」

などと、怒濤の注意。

私:「今から直すんですよ。(心の中 → こちとら説明者が話すのと同時に入力して、A4で10枚分ほどの文書を作ったんだよ、しゃべるのと同時入力で「である」と「です」が混同しているだとか、変換ミスがあるだとか、・・あとで直すからすっ飛ばして打ってたんだよ)」

地鶏上司:「ニュアンス的に違っていそうな部分もあるぞ。よく聞いていたのか。」

私:「副〇長もノートに書き込まれていたと思うので、私の文と“突合”しましょう!」

地鶏上司:「あ、・・うん、えぇとね。」

私:「見せてくださいよ」とノートを取り上げて見てみると・・。

そこには、1ページ目に、三行ほどの書き込みが・・、しかもその三行は単語が三つ、三段に書かれていただけでした・・。

私:「(心の中 → さっきあれほど私をののしっておいて、あんた“コレ”かよ)あの、語尾とか変換ミスの部分を鉛筆ででも印をつけてください。それを直して、メールで本庁に送りますよ。それでいいですよね。」

地鶏上司:「いいかも・・。」

さすが“輝け・やらかし大賞”受賞者、やるときはやってくれます( ̄O ̄;)

 

2021/07/27

泡坂妻夫さんの「しあわせの書 -迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術-」を読みました。

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『しあわせの書 -迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術-/泡坂妻夫著(新潮文庫)』という本を読みました。

この本は例によってブックオフにて格安で手に入れたのですが、私、恥ずかしながら著者・泡坂妻夫さんの本をまだ一度も読んだことがありませんでした。

で、読んで見たら・・面白いんです。

巨大新興宗教団体の後継者問題がストーリーの大きな“筋”なのですが、失踪した人や亡くなったことがニュースに出た人が、なぜか街中で見かけられたりする謎や、教祖や弟子のうち幹部にあたる者の超能力の逸話などを行きがけ上追いかける主人公にあたる三人組。

その三人組がシリアスに問題を解いていくのかと思うと、なぜかちょっと“ゆるかった”り、愉快で間抜けな行動をしたりで、エンターテインメント的にも面白く読めたのでした。

それからあとで気付く、巧妙に仕組まれた“からくり”は、「そうだったのか、気付かなかった」という、なんだかスッキリするくらいの爽快感がありました。

今まで読んでこなかったけど、また泡坂さんの本を見つけたら、読んで見たいと思いました。

 

【南先生の玉手箱_0035_生まれて51年 7回シリーズ[7の5] 】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
平成10年の「家庭教育学級・資料 -家庭における進路指導のありかた-(私自身をふりかえって)」という冊子から、「生まれて51年」という文を長編なので、7回に分けてのご紹介。
今回は、7回中の第4回目ですが、前回にも書きましたが、7回分の原稿のうち、2回目分にあたる部分と3回目にあたる部分をページがくっついてしまっていて、飛ばして4回目分を先に3回目分としてご紹介してしまっていたことに気付きました。

前回、正しい3回目分をご紹介しましたので、今回は正しい4回目分を掲載いたします。


以下、先生の文章です。

小学校では、運動会、学芸会など、楽しい思い出があった。
運動会では自分はリレーの選手を見て、俺もなりたいなあ、かっこいいなあって思いながら、みんな一緒になって毎日走る練習をしたりして、早くもないのにどうしてか楽しみな行事であった。

又、劇の練習中にうんこをしてしまって、家へ逃げるようにして帰ったあと、しばらくうんこのあいつって言われたことなど覚えている。
それにちかいことで、ちょっとしたいやがらせや、いじめをしたりされたりしたことも思い出す。

低学年の頃は、それこそ毎日学校に石盤と石墨を持って通ったと思う。
今考えてみると、珍しいと言うよりも、本当にノートや鉛筆がなかったのだと思う。
消しゴムなどなくしたりするともう買ってもらえなかった。

学校前のお店に学用品はあまり置いてなかった。
貧しかったのかどうか、自分のうちだけが貧乏であったわけでもないだろうし、何か自分が持っていないことは、それほどみじめなことではなく、あたりまえのことと思っていた。

家には畳がなくて、むしろの上での生活もあったし、壁のすき間からは星が見えたのも覚えている。
冬なんか、えらく寒く、雨の時などあっちこっちで雨水のたれる音を耳にしながら寝ていたことも思い出す。

ごちそうと言えば、家に帰って大きなにぎりめし、あれひとつが本当に楽しみだった。
又、近所でお互いに遊びに行くと、食事時になって、その家のものをご馳走になった味も忘れられない。
よその家の味もうまく、今思えば懐かしい思い出だ。

小学校時代は、体も小さいのに(130cm 位)、王、長嶋のような野球選手になれるような気分で毎日草野球をやっていた。
もちろん、その頃遊んでいた畑は今見ると狭くて、よくもあそこでと思うところであった。

使っていたバットなど、自分で木をけずって何とか形にしたものであり、バットやグローブを持っている子はほとんどいなかった。

グローブを買ってもらった時などうれしくて、毎日ふとんの中で持ったまま寝ていた。
高学年の頃だったか、近所に植木屋さんが多かったこともあってか、植木職人っていいなあ、樹をつくっていく仕事に子どもなりに夢を持って良く見ていたものだった。

自分ではよく覚えていないのだが、4~5年生の頃、図工の時間にみんなが木を緑色で描いていた時に私が赤いような絵を描いていて、先生がみんなの前で何か話していたと、友だちが今でも覚えているとか。
今の自分の生き方の何か原点があったのかも知れない。

自分は何も覚えていないが、その時の先生のひとことが何か私の人生に良い意味で刺激を与えてくれたのかも知れない。
先生に会えるのならば、その頃のこと、少しでも知りたいと思う。


以上が先生の文でした。

野球の道具の話や、家の様子など、時代がしのばれますが、でもそれっていい思い出であって、“しあわせ”を感じながら思い出せるものなんですよね。

そして、図工の時間に樹を「赤」で描いたのは先生らしい話ですが、たぶんそれを皆の前でほめたであろう“先生の先生”もいい影響を子どもに与えてくれた人だったのですね。
私自身も子どもの頃を思い出すお話でした。

 

2021/07/26

【「マニフェストく~ださいっ!」のお話/過去に会った人、過去にあった出来事について振り返る №10】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ、続いてます。
今回も、東京勤務時代のお話です。

東京勤務一年目、当時総選挙があり、「政権交代」が起きました。
選挙前、自〇党本部前の歩道には警察の車や、警察官が厳重警戒でものすごい動員でしたが、選挙後はその歩道は閑散・・。

そして、憲政記念館から坂道を下ったところにあった民〇党本部前が今度は厳重警戒に。

私の東京一年目の上司は、私が大好きで尊敬する方でしたが、「おい、とりあえず民〇党のマニフェストをもらって来い。読み込む必要があるし、本庁でも希望があるかもしれない。」

と、上司から言われ、民〇党本部へ。

厳重なセキュリティを身分確認してもらいながらくぐり抜け、エレベーターに乗って受付階へ。

ドアが開き、受付カウンターには、受付嬢・・・ん?キャバ嬢??という感じの女性が二人。

受付嬢AB:「こんにちは~~っ!!」

私:「こんにちは。」

受付嬢A「ご用件はなんでしょう~♪」

私:「(※心の中 → この人たちはたぶん民〇党の人が通っていたキャバクラからアルバイトということで連れてきた人たちかも)あの、マニフェストの残部がありましたらいただきたいのですが。」

受付嬢B:「えっ、なんだろうそれ。」

受付嬢A:「あっ、さっき来た人が持っていったパンフレットみたいなやつじゃない?」

受付嬢B:「あれか!でも、残り少ないからもう渡しちゃだめだって、さっき怒られたばかりなの。」

受付嬢A:「そうだ、あのね、渡しちゃだめだって! これなんですけどね。」

と、手に二部ほど取って見せてくれる、受付Aの方。

私:「わかりました。残り少ないんですね。たぶん、私と同業他社の人達が今後何人も同じ用件で来ると思いますので、私から“行っても、もう無いよ”と伝えておきましょう。」

受付嬢AB:「わあ、ありがとう!」

私:「なので、私だけその二部をいただけるとうれしいです。他の人達には、無いと必ず伝えますので。」

受付嬢A:「そうかぁ~、じゃあげる!」

私:「ありがとうございます!」

というわけで、まんまと二部手に入れて事務所に帰還。

(良い)上司:「おおっ、手に入れてきたのか。今、他の事務所に聞いたらもらえなかったって言ってたから、心配してたんだよ。どうやって手に入れた?」

私:「それは内緒です(#^.^#)」

(良い)上司:「わかった。じゃ、読んでみるか。それと何部かコピーしておこうな。」

私:「了解ですっ!」

・・この頃は全てがうまく回っていた・・。

 

「父 吉田茂 (麻生和子著)」を読みました。

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『父 吉田茂/麻生和子著(新潮文庫)』を読みました。
著者、麻生和子氏は、戦後激動の時代に首相だった吉田茂の三女で、現在の財務大臣で元首相の麻生太郎氏の母です。

父の吉田茂首相とはサンフランシスコ講和条約締結会議にも同行するなど、多くの時間を共にしています。
なので、首相側近のふだんの様子や、政敵とのやり取り、重要な決断をするときの表情、短気ですぐに雷を落とす様子、その雷の犠牲者になった人の様子(^_^;)、また人情味もある側面なども、事細かに書かれていました。

それらの記述が貴重な記録であると共に、著者、麻生和子さんの文章の“うまさ”は特筆ものでした。
それに、和子さんその人の人柄もとても魅力ある方だと思いました。

吉田茂が駐英大使だった時にも同行し、週末に田舎にお屋敷をもっている人たちから泊まりにくるように誘われて、郊外の広大な領地と、まるでお城のような邸宅で過す和子さんの様子が描かれていました。
私には、想像もつかない、貴族のような人たちとの優雅でのんびりとした空気が流れている生活、それを書く筆致も見事でした。

また、駐英大使だった時のほか、海外の要人との当時の吉田茂大使のやり取りも、ドイツと近づきたい本国と、英米との関係を大事にしたい吉田との“じりじり”とした駆け引きのようなものが書かれていて、これも貴重な記述だと思いました。

さらに、和子さんの祖父、牧野伸顕氏が二・二六事件のときに襲撃され、運悪く心配事の相談に来ていた和子さんは巻き込まれました。
明け方、銃声が聞こえ出てみると、護衛の警官が倒れている。
寝間着のまま一家は裏山に這い上り、下の道路からは鉄砲で撃ってくるという状況。
弾は、和子さんの髪の毛を擦っていったと書かれています。
このような緊迫した場面も、そのまま書かれていて、たいへん驚きました。

吉田茂が首相になってからは、第五次まであった内閣のそれぞれの時期の吉田首相自身の苦労話、そしてそれを見ていて、また手伝っていた和子さん(やがて和子さんの夫も政治家になり、金銭的にもバックアップに回る)の子育ても含めた八面六臂の活躍についても書かれていて、読み応えがありました。

吉田首相、引退後の穏やかな日々も書かれていて、それもほっとしながら読みました。

しみじみと政治の裏側について振り返っている和子さんの言葉

「どんな社会でもありがちなことだとは思いますが、政界というところはいやな世界で、今日の友は明日の敵といったことがしばしば起こります。」

「それというのも、男の人にとっては、やはり権力というものがよっぽど魅力なのでしょう。自分の思ったとおりにできる権力をえるために、常に得になるほうへと身を処していく。常に得なほうへとつくということが、ためらいもなくできてしまう場合があるようです。」

と、書かれています。

私のような小さな世界で仕事をしていた人間にも大小の差こそあれ、上記と同様なことは、しょっちゅう起こっていました。

重くて、深くて、優しい本でした。

 

2021/07/25

【「鶏が苦手?よし、あそこに電話するぞ」という話/過去に会った人、過去にあった出来事について振り返る №9】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ、続いてます。
今回は、また東京勤務時代に戻ります。
既に登場したことのある、私が他の人に頼んで文章を書いてもらっていると疑った上司の話です。

とある政党本部の、議員ではなく党の事務をされている職員さんで、長くウチの事務所と懇意にしていただき、便宜を図ってくださる方がいらして、その方には私が例の上司と、もうひとつ上の上司を年度初めに紹介し、私も本部に資料等を入手に伺った際には挨拶を欠かさないようにしていました。

で、ある日

職員さん:「4月に紹介してくれた、上司の方お二人、あのあと全くおいでにならないけど、どうしてる?」

私:「失礼しました。ここはセキュリティが厳しいので、東京一年目の上司には入りずらかったのかもしれません。よく言っておきます。(※心の中 → なんだよ、出かけてくるっ言って、ここにはあれから一回も来てないのか)」

職員さん:「昨年、政権から退いたから、もう用が無いと思っているのかと、気にしちゃったよ。」

私:「そんなことないですよ。・・どうでしょう、上司二人も含めて懇親会などやりましょう(※咄嗟の思いつき)。
空いている日付を伺って調整します。いい場所を上司に探してもらいますよ。あと、召し上がれないものがあったら教えておいていただければ。(※心の中 → まずい、完全に信頼を失っている・・)」

職員さん:「〇月〇日と〇日が空いているけど。それと、申し訳ないけど鶏料理が苦手なんだ。」

というわけで、日付を聞いて、事務所に帰ってから上司にそのことを話しました。

あわてた上司二人。上の上司Aから、下の上司Bに会場を急ぎ決めるように指示が出て・・。

上司B:「まかせてください。いい店知っています。」

と、名刺をあれこれ探していると

上司B:「あった、あった“比内地鶏”のお店。さっそく電話しよう。」

私&部屋の他の職員:「!!!!!」

私:「ちょっと・・まずいですよ。鶏料理が苦手とおっしゃっているんですよ。それは・・。」

上司B:「うるさいなぁ、日本の名酒が取り揃えられて、私のお気に入りの店なんだよ。鶏を出させなければいいだろう!」

私:「はあ・・・・。」

上司B:「ああ、もしもし、宴会の予約です。〇人で、〇月〇日の〇時から、で、鶏はいっさい出さないでね。」

お店の方:※音声を大きくしているので聞こえている「えっ、鶏を出せないんですか?!! 鴨料理はどうでしょうか。」

上司B:「鴨は“鳥”だろうがっ! 何言ってんだあんたっ。(※私の心の中 → あんたこそ何言ってんだ)」

困り果てている店員さんに

上司B:「鳥以外で、何か見繕って出せばいいんだよ。わかった?!」と、強引に予約。

当日は、職員さんは店の看板を見つつ、不思議な感じでお店に入り、納得出来ないような表情で、鶏料理屋さんで、魚の刺身を食べ、各地の名酒が自慢の店だと日本酒がいろいろ席に運ばれて来ました。

で、私もその各地の名だたる名酒にクチをつけてみましたが、どうやら瓶だけ本物で、中身は安い別のお酒が入っているようでした。値段表が安すぎると思っていたのです。

だてに上司より一年先に東京に来て、あちこちの懇親会に出ていたわけではないので、東京に出てくるまではお酒などほとんど飲まなかったのに「お酒の味」はわかるようになっていたのです。

結局、お呼び立てしたのに、最後まで“不可解”な表情をされたまま、不完全燃焼で懇親会はお開きに。

翌朝、私は、すぐさま職員さんのところに行ってお詫びしました。
そして、「今度は私が場所等すべて決めますので、ぜひもう一度機会をいただきたいです。」
と、お話して、今度は間を空けずに、ステーキで、そして日本酒は懲りたようなので、ウイスキーとワインで場を設け、なんとかご機嫌を取り戻し、事なきをえた・・というお話でした。

以上ですが、毎度・まいど、こちらの想像を超えてやってくれるので大変でした。

小林秀雄氏の言葉で向田邦子さんが感心したお言葉、「事件は人を選んでやって来る」。
また私が選ばれたみたいでした・・。

 

2021/07/24

オリンピックが開催されて

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東京オリンピックが7月23日に開催され、開会式も行われ、競技も始まっています。

今までこのブログでもいろいろ書いてきましたし、その度に「こいつは何言ってんだ」と思われていた方も多かったと思います。

現在の状況下でも一度は書いておかねばならないと思い、ブログにアップすることにしました。

最初にことわっておきますが、私はどの政党の支持者でもありません。
また、あの人が言ったから正しい、などという感覚でものを書いたりもしません。
自分が今、思い、感じ、考えたことを書いているのです。

まず、東京オリンピックは開催が決定する前から反対でした。

当初、「復興五輪」として開催すると言っていましたが、当時も今も「復興」はまだ道半ばであり、開催予算があるなら復興に当ててほしいと思ったのです。

さらに、「福島の原子力発電所はアンダーコントロール状態にある」という当時の安倍首相の説明を聞いて、「ウソつけ」と思ったからです。
全く制御下になっていないのは誰にも明らかなことであり、そうでないと言う人は誰かに言わされているか、自分の利得になるから言っているのです。

そして、過剰な設備を求めたり、放映権料獲得のため、競技者にとっては過酷な日本の真夏に開催して平気なIOCの存在そのものに不信感を持つからです。
これは、今回の開催間近になってもさらにバッハ会長が「状況によっては有観客に出来ないか」という、まったく現在の日本のコロナ感染状況について知らないと言ってもいいくらいの無頓着さに呆れる発言でその感をさらに深めました。

そして、今やプロもアマも混然となり、大会そのものの意義にも疑問を感じています。

さらに、東京開催が決定してからも、熊本での大地震や、その他大きな水害、台風被害など、次から次へと災害があったにもかかわらず、オリンピック開催にばかり目を向けている為政者、開催組織にも呆れたからです。
復興五輪を目指したが、さらなる災害禍で、その復興に力を入れるので開催は致しません、と言っても世界でそれを止めるのはIOCだけじゃなかったかと思います。

競技場の設計・建築も白紙に、大会ロゴも盗作問題発生、そして森氏の女性蔑視発言、さらに開幕間近になり、どんどん出てくる関係者の不祥事。

それもこれも、正々堂々、大きな志を持ち、太陽のように明るく突き進む人が大会関係者にいないからに他なりません。

さらに、大会延期の原因となったコロナ感染拡大。

ここでまた、「コロナに打ち勝った証しとしての大会」と言っておきながら、感染は拡大する一方の中、緊急事態宣言が出ているのにもかかわらず、強引に開催する。

強引に開催する理由を尋ねても、

安心・安全な大会にする

なぜ、安心で安全になるのかと尋ねても

安心・安全な大会にする

感染者がどのくらいの数になったら中止や延期を考えるのかと尋ねても

安全・安心な大会にする

あの1964年の東京五輪の感動をもう一度国民に感じてもらいたいというが、感染者が拡大する虞があるのに開催する理由は、と尋ねても

安全・安心な大会にする

と答える、無能で、実際は情熱ではなく、利害関係と自らの政治生命のために開催する為政者にも絶望しました。

7月24日、大会一日目での五輪関係者のコロナ感染者数は、すでに127人に達しています。
どこが、安全で安心なんですか。「危険」で「不安」がいっぱいです。

国民の我慢・忍耐だって限界です。特に飲食業、お酒を提供する職業の方々。
これだけの生活もままならないくらいの強い要請をしておいて、オリンピックに対しては“ゆるゆる”です。
ここはオリンピックも我慢して、感染拡大を抑制し、国民の健康と生命を守ることが一番大切だと私は考えました。
医療関係者だって、もう、一年半、緊張状態を保ち続けて感染に立ち向かうのも限界、限度があるんじゃないでしょうか。

報道によると、IOCと他にも電通、パソナなど特定の人の利益もかなりなものであるということですが、その利益をコロナ感染拡大防止の基金にしてはいかがですか。お金の亡者には出来ないかと思いますが・・。

というわけで、私、開会式もまったく見ていないし、もともとテレビは見ないのですが、ラジオでもオリンピック速報みたいなものが入ったら消しています。
競技者の方には申し訳ないけど、見たくもないし、聞きたくもない。

開会式は、選手が入場して、関係者が挨拶し、開会宣言と選手の宣誓のようなものがあれば、それだけで充分ではありませんか。
ショーみたいなものなどやらなくてもいいと思います。スポーツの大会なんですから。

以上が、ものすごく簡単にではありますが、今、私が感じ、考えている五輪の状況です。

 

【The Beatles 研究室・復刻版】The Beatles (White Album)[A-5]Wild Honey Pie

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2004年から2008年にかけて作成したホームページ「The Beatles 研究室」・・2009年リマスター発売後の一部追記も含めてのブログにての復刻版です。ほぼ当時のまま、そして復刻後追記も付しております。
今回は通称「ホワイト・アルバム」から「ワイルド・ハニー・パイ」を取り上げてみます。
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ビーチボーイズの「ワイルド・ハニー」という曲に触発されてポールが作ったと言われています。
ただ、私はそのビーチボーイズの曲を知らなくてコメントのしようがないのですが、どうやらかなりアバンギャルドな曲らしいです。その点からいくと、このポールの曲も、ある意味アバンギャルドな感じがしますが。

わずか52秒の曲で、完全にポールのみの録音になっています。ドラムも叩いているらしいのですが、主な打楽器の音はギターのボディーを叩いている音なのではないかと推測します。それにエコーなどの処理をしているのではないかと。あと、アコースティック・ギターも、もちろんポールです。

ドラムはたぶんバスドラムだけだと思います。
簡単にスタジオで録ったものと推測される曲なので、ひょっとすると、ポールはギター・プレイなり、ギターのボディーを打楽器として叩いているなりしながら同時にバスドラムを踏んでいるかもしれません。
同じアルバムのブラックバードでも、ギターを弾きながらパタパタと足踏みしている音がしているので、そのくらいやりそうです。
当時は4トラックのレコーダーだったので、こういう曲を録るならきっとそういうふうにやっていたんじゃないかと思います。

さて、この曲を解説しようとしても・・・何と言っていいか、ちょっとスタジオでギターを爪弾いていたときに軽く曲風なものを遊んでプレイしただけのものだと思うのです。
でも、曲と曲を繋ぐにはもってこいな感じだったのだと・・・。

ジョージ・マーティンがホワイトアルバムには駄作が半分あると言っていた、まさにその曲でもあると思うのですが、不思議と繋ぎの効果は確実にあって、見事に次のバンガロービルのアコースティック・ギターの早弾きのイントロにベスト・マッチなのです。

結果オーライのビートルズらしい、またまた結果的にはそれが正解になっているという具合です。

「パティ(当時、ジョージの奥さん)が気に入っていたから入れたよ」なんてポールのコメントも残されているようですが、丁度良い言い訳に使ったに過ぎないと思います。

曲は駄作だが、アルバム構成曲としては成功、という珍しい曲だと思います。


〈追記〉2021/07/22

2009年リマスター・ステレオ・バージョンを聞いてみました。
アコースティック・ギターの音が、とても“生々しい”です。
私は、もともとステレオのアナログで聞いていた曲なので、馴染がある感じです。

2009年モノ・マスター・バージョンも聞いてみました。
バスドラムの音が“こもり”気味で、ボーカルもややぼやけているように感じます。
ギターの音はエコーなどが控え目になっていて、あまりエフェクトも強く掛かっていません。
ボーカルも素朴な音質でした。

そして2018年の50周年記念盤も聞いてみました。これはジャイルズ・マーティンがミックスしたものです。
アコースティック・ギターの音はとてもクリアで、たぶんエフェクトが掛かっていると思われる“揺れる”ようなトレモロのような感じが、オリジナルよりもかなり“きつめ”に処理されています。
ギターのボディを叩く音も、バスドラの音もアタック音が強調されています。
ボーカルだけでなく、ちょっと入っている声もかなり生音ではっきり聞こえます。

 

2021/07/23

向田邦子さんの言葉を集めた「少しぐらいの嘘は大目に 向田邦子の言葉」を読みました。

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『少しぐらいの嘘は大目に 向田邦子の言葉/向田邦子・碓井広義編(新潮文庫)』を読みました。

この本は、高校教師の職から、テレビ制作に関わりたくてテレビマンユニオンの試験を受けて転職、数々のテレビ番組を製作後、現在はメディア評論家、上智大教授を務めている碓井広義さんが編纂して向田邦子さんの様々な脚本、著書から「名言・名ゼリフ」を集めたものです。

この本については、先週の日曜日。ラジオの文化放送でやっている「浜美枝のいつかあなたと」という番組にこの本を編んだ碓井広義さんが出演され、内容についてお話されていて、浜美枝さんもたいへんな感心を持たれていたので興味を持ち、すぐさまその午後に探してきたものです。

向田さんが飛行機事故で亡くなられたのは、まだ私が学生時代だったかもしれません。
でも、「寺内貫太郎一家」や「時間ですよ(※向田さんが何編か担当)」などのテレビ・ドラマで作品は拝見していました。

その中で、私が気になった向田さんの言葉をいくつか・・。

「お父さん。オレね、今晩いろいろなこと考えさせられたよ。サラリーマンになったら出世しなくちゃなンない。小さい家よかでかい家に住みたい。背広も高い方がいい。品のいい言葉使ってしゃべる人間のこと上等だ、そう思ってやってきたよ。でもねえ、生き方、暮し方ってのは、色々あるんだよなあ・・・」

「食いたいもの食って、見たいもの見て、楽しんで、そして安らかにねむる、そういう見栄はらない暮しも人間らしくていいなあ。オレ、本当にそう思ったよ」」

-だいこんの花-

私がそれこそここ十年くらいにやっと思ったことが書かれていました。
こういう見栄をはらない暮しがいちばんいい、・・と、今は思います。

ちょっと昔を思い出したのは・・。

記憶の中で「愛」を探すと、夜更けに叩き起こされて、無理に食べさせられた折詰が目に浮かぶ。

-子供たちの夜・父の詫び状-

私も兄弟一同深夜に起こされて、父が千葉の「金寿司」から持ち帰った折詰を食べたことを思い出します(^_^;)・・でも、あれ、うまかった。

その他ドラマ中のセリフなどがたくさん載っていたのですが、私の記憶にある、例えば「寺内貫太郎一家」でも、爆笑のシーンや、一家のにぎやかな食事シーンのほかに、何か暗くて人間の業を感じさせるような場面が必ず楔を打つようにあったような気がします。
そんな向田さんの「陰」と「陽」で言えば、「陰」の側面を写し出した言葉、セリフがたくさんありました。

男女の複雑な関係をあらわす言葉や、夫婦の微妙な立ち位置を示すような言葉も。

読めば読むほど、深くて、唸ってしまうのでした。

辛辣な言辞を吐くことで知られる山本夏彦氏が評した「突然あらわれてほとんど名人」と言わしめた向田さん。
そして、突然亡くなられしまったのです。

 

2021/07/22

【「そうだ、いい方法がある」と言われた話/過去に会った人、過去にあった出来事について振り返る №8】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ、まだまだ続きます。

今、向田邦子さんの様々な脚本、著書から『名言・名セリフ』を集めた本を読んでいるのですが(これについては、またこのブログでご紹介します)、そこに【人間はその個性に合った事件に出逢うものだ】という小林秀雄の言葉に感心する向田さんの文章が紹介されています。


『私は、出逢った事件が、個性というかその人間をつくり上げてゆくものだと思っていたが、そうではないのである。事件の方が、人間を選ぶのである。』と書かれていました。

そうか、事件が私を選んでいたのだ…σ(^_^;)と、目からウロコの大発見でした。

さて、「事件」(^^;) のネタは泉のように湧き出てくるのですが(^^;)、前回、何度も言っておいたのに、「突然休むなんてこと言われても困るんだよなあ」と言った人の話、続編です。・・思い出しちゃったんだよ。

その係長。

当時、私の義父が若くして60代で亡くなり、忌引(特別休暇)を出したときの話です。

係長:「困っちゃうなあ、明日は予算書提出の日なんだから、いてもらわなくちゃ。」

私:「(※私の心の中 → なに言ってんの、この人) 大丈夫ですよ。予算書は私が作り終えて、5回見直しして、きょう係長が全部点検してOKだったじゃないですか。」

係長:「でも、明日修正が出たりしたら、どうするの!」

私:「課内調整で、他の係とのやり取りで数万円くらい動くだけでしょう。数字の部分だけ書き替えればいいんです。」

係長:「私はパソコンがまるで出来ないんだよ、そんな私を残して行ってしまうなんて、あまりにもひどいんじゃないの。」

(※当時はWindows95が普及しだした頃、予算書はなんとワープロの「一太郎」で作っていた。だから逆に数字のところを上書きして修正するだけだった。それにしても、まったくパソコンがさわれないなんて自慢することではないと思う。)

私:「妻の実家は、義父が若くして亡くなり、義母と20代の義弟、義妹の三人で葬儀をせねばならないので、私が行ってあれこれ手伝いたいんです。」

係長:「あっ、そうだ、いい方法がある!」(※私の心の中 → 無視かよ!)

私:「なんですか。」

係長:「忌引はとりあえず出してよ。ハンコは押すから。で、出勤して仕事をやってもらう。」

私:「ど、どういうことですか。(※私の心の中 → 何言ってんだこいつ)」

係長:「あなたは忌引を出すことが出来た。私は安心して仕事を任せることが出来る。両方にとって良いことでしょう。」

私:「(※私の心の中 → なんだってぇ・・忌引を書類上だけ成立させて、実際は職場に来て仕事をしろってのか?!)」

係長:「頼むよ、それしかないよ。」

私:「まったく意味がわかりませんが、とりあえず出勤してきて、様子を見て帰らせてくださいよ。斎場は遠いんです。午後も仕事してたら通夜にも間に合わない。」

係長:「お願いだよ、なるべく長くいてもらいたい。」

というわけで、忌引なのに出勤し、予算書の修正がないか見守り、午後に帰ろうとしても「もうちょっとお願い」と言われ、午後三時頃の通夜にぎりぎり間に合う時間で帰りました。

・・なんつう忌引だ・・。

っていうお話でした。

係長に・・「ほんとうに、ご愁傷さま」。

 

2021/07/21

内館牧子さんの「女盛りは腹立ち盛り」を読みました。

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『女盛りは腹立ち盛り/内館牧子著(幻冬舎文庫)』を読みました。
ブックオフにて格安入手。

書かれた年代としては、朝青龍の引退騒動が何度も話題に上がっているので、その頃です。

気になったところでは、

当時、日本水泳連盟名誉会長だった古橋廣之進さんとの対談で、アトランタ・オリンピックの女子水泳選手が「楽しんできます」とコメントしたことに対し、古橋さんが「楽しむというのは違う」と発言したことについて「よく言った」と内舘さんが話している部分でした。

古橋さんも、内舘さんも、この当時、「若い人は天真爛漫でいい」という世間の評価からかけ離れていたため、さんざん叩かれたようです。
でも、「国費を使って行くわけですから、その自覚が必要です」という古橋さんの発言は別に非難されるほどのことではないと思うし、まっとうなことだと私も思います。

その文の中で、内舘さんはリリー・フランキーさんが書いていた「ひたむきさがなくなれば、人は下品になる」という言葉を思い出しています。
そういうことなんじゃないだろうか、と思いました。
「ひたむきさ」のない人は、下品なことをどんどんします。
今の大臣の方々のお顔が思い浮かべられました・・。

もうひとつ気になったところでは

「かな」という言葉がカンにさわる、という部分でした。

当時の短命に終わった内閣の大臣が言った「始めたばかりでこれからだったので、正直、ちょっと残念だった“かな”と思っています。」
というのを例に挙げていましたが、「得点にからめるようなプレイができればいい“かな”と思う」とか、「ひとつひとつ丁寧にこなした“かな”と思う」などという表現も例示していました。

なぜ、「かな」がいるのだ。断定するのに誰に遠慮がいる。往生際の悪いことよ。
というわけです。

たしかに。と思いました。

かつての「語尾上げ」は、ほぼ死に絶えましたが、「かな」は、今現在も生き残っていると思います。
なんだろうね、この「かな」ってのはさぁ!


【Now Playing】 Milestones / Miles Davis ( Jazz )

 

2021/07/20

【「年休の申請、いつ出せばいいの」という話/過去に会った人、過去にあった出来事について振り返る №7】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ。
この回顧文を書いていて気付いたことは、一定の役職など“偉く”なった人は、自分が素晴しい人間だから、人格だから、その地位に就いたと錯覚し始めるのではないか、ということです。
挙げ句には、“いじめ”のようなケチなことを平気でするようになります。
これって、世の中の永遠の“ループ”のようになっているんじゃないかと思ったのです。

今回の話はかなり前のことでした。
歳は上だけど、私と同期の者が自分の係長として異動してきた職場での話です。

私、当時、ひどい偏頭痛が続いたので脳神経科に行くと、当時はまだ市内に2箇所しかなかったMRIのある病院で写真を撮って来るようにと言われ、撮影後の後日、その先生に見せると、脳内にピンポン球大の脳胞があるとわかり、手術等の必要性については大学病院に紹介状を出すので診てもらってくれ、ということになってしまいました。

大学病院にもMRIが導入されることを先生から教わり、導入後に出かけて診察、手術の必要性については、今後毎月MRI撮影をして、慎重に見守る・・ということになり、即、翌月の検査・診察の予約をして帰ってきました。

で、翌日出勤すると、その旨を同期の係長に話し、来月の何日に予約してきたので年休をいただきたい、と話をしました。そしてホワイトボードの予定表に診察日の年休予定を書き入れました。

そしたら

係長:「そんな先のことなんか、一々まだ言わなくていいんだよ。ホワイトボードも消して!」と言ったのです。

そうですか、とホワイトボードの予定は消しました。

で、二週間が経ち、また

私:「前にもお話しましたが、二週間後に大学病院で検査・診察がありますので年休の取得をあらかじめお願いします。」

というと、

係長:「そのときも言ったよねぇ、一々先のことを言わなくていいって!なんのつもりだよ。」

私:「はぁ・・、でも事前に伝えておかないと、係の皆も用事があると思うので・・。」

係長:「オレの言っていることがわからないの!」

で、またもここで終わり。

もういいだろうということで、三日前に

私:「何度かお願いしましたが、三日前になりますので年休をお願いします。」

そしたら

係長:「いったい何度言ったらわかるんだっ! 一々何日も前から言うなって言ってんだろう!!」と怒り出しました。

何日か前じゃだめなんだ、と思い二日前はやめて、いよいよ検査前日に年休届を持ってお願いに

係長:「えぇっ?! 突然休むなんてこと言われても困るんだよなぁ・・。」

だって・・。

この男がどういう人間かわかったので、

私:「わかりました。」と、年休届は引っ込め、終業時間になったので、そのまま帰りました。

帰路、私の携帯電話が何度も係長から鳴らされていましたが、上に通報でもされるのが怖くなって掛けてきたのだろうと思い、無視しました。

翌日、病院には行けない旨、連絡をし、また翌月の予約をして、その日は出勤。
次は一週間前に先にホワイトボードに書き込み、お願いなどをクチにせずに、年休届を黙って出したら認められていました。

係長は、あのとき、私の「わかりました。」と、すぐ引き下がり、終業と同時に無言で帰宅した意外な展開に驚いていたようですが、困り果てた私を見てから「仕方ないなぁ」などと年休を与えるつもりだったのでしょう。けち臭くて、底意地の悪い、小さい男だと、今でも思っています。

あっ、脳胞については、5年後に不思議なことに検査の結果、消失していました。いまだに謎です。それと同時に偏頭痛もなくなったのです。病院の先生も驚いていました。
何度もMRIの写真が人違いではないかと確認していたくらいです。

以前、作曲家で雅楽演奏家の東儀秀樹さんがインタビューで語られていたのですが、高校生の頃、脚に悪性腫瘍が見つかり、余命宣告までされたのに、やがて全て消滅してしまったという話を聞きました。そういうことってあるみたいです。

 

2021/07/19

【南先生の玉手箱_0034_生まれて51年 7回シリーズ[7の4] 】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
平成10年の「家庭教育学級・資料 -家庭における進路指導のありかた-(私自身をふりかえって)」という冊子から、「生まれて51年」という文を長編なので、7回に分けてのご紹介。
今回は、7回中の第4回目ですが、実はこの7回分の原稿のうち、2回目分にあたる部分と3回目にあたる部分をページがくっついてしまっていて(>_<)飛ばして4回目分を先に3回目分としてご紹介してしまっていたことに気付きました。

あらためて正しい3回目分をここに、そして次回は正しい4回目分を掲載したいと思います。
ごめんなさい<(_ _)>


以下、先生の文章です。

※1回目分の「私自身どのように生きてきたのだろうか、又、生かされてきたのだろうか」という文の続きから始まります。では、続きを以下に。

もちろん生かされるのはいやであるが、小さい頃のことはほとんど記憶にない。しかし、この記憶にない年頃の育て方が人生を大きく左右するなんて、良く耳にするので、幼い子どもたちを見るにつけ、その子らしさや感性を大切に見守ってあげたいものです。

幼い頃は自分の存在そのものが、わがままと言うか、気のむくままに勝手に思うことを表現していたのではないかと思う。今は、遠くに記憶に残っていなくても、身のまわりの大人たちに大切に育てられたのだと思っている。

良く覚えてはいないが、自分のそばにはいつも、ばあちゃんがいたように思う。ヨチヨチ歩きの頃、よくばちゃんが散歩に連れていってくれたように思う。

家が百姓であったことで、思い出は田んぼや畑でよく畑のすみっこで、竹籠の中で畑仕事が終わるのを待っていたような気がする。
おなかがすいた時などは、きっと大きな声で泣いていたんだと思う・・・。

小学校に入る前だったか、親がよく私に女の子の着物を着せていた。私自身それほどいやな気分じゃなかった。きっと親戚に同じ年頃の女の子が多かったからだと思うが、親が女の子ほしさに人形のように着せていたのかも知れない。

近所の人たちには、ぼうやちゃんなんて呼ばれていた。これと言って反抗もせずに、おとなしいタイプだったのかも知れない。

淋しがりやで、暗いところなどでよく泣いたのを思い出す。怖い話しを聞くのが好きで、そのくせ泣き虫だったと思う。

私たちの子ども時代は、夜(夕方)になれば、まっ暗でまわりは田んぼに畑だけであった。ネオンひとつなかったので、良くお化けも出たし、ランプの生活もあって、太陽の動きと同じペースで生活をしていたと思う。

この頃家の中には、はだか電球がひとつぶらさがっていたと思うが、電気製品はほとんどなく、夜はおっかない思いをした。

小学校に入るまでは、毎日雨の日も何か工夫して遊んでいた。家の仕事があれば親と一緒にリヤカーに乗って畑で遊んでいた。
そんな時、菜の花畑の花は大きく、畑は広く、麦の畑で迷子になったりした。
土や草の匂いは思い出として今も心に残っている。

朝早く起きて、親と一緒にリヤカーで牛や馬の糞を拾い歩いたのも懐かしい。
もちろん肥料にするためであった。

東京生まれでデザイナーくずれの親がいろいろと農業の苦労をしていたことが思い出される。
地域には、お金持ちとか、貧乏とかあったと思うけれども、どこの子もみんな集まって遊んだ思い出は懐かしい。

学校って言えば、小学校一年がはじめてで、入学のあと、何日かして自分のなまえを書けてうれしかったことを覚えている。
自分は、書くことが少し遅かったからかも知れない。
幼稚園はなかったので、きちんとした勉強のはじまりは小学校であった。ランドセルしょって元気良く通っていたと思う。


以上が先生の文でした。

幼い頃の先生の記憶がたどられていて、畑のすみの籠の中にいた・・なんてシーンは、今の人たちにはあまり想像がつかないかもしれません。

次回は、先生が小学校で、運動会、学芸会などを経験した話が書かれています。
近いうちに、また活字化してご紹介します(^-^)/

 

2021/07/18

【「ひとの親切はすなおに聞いた方がいい」という話/過去に会った人、過去にあった出来事について振り返る №6】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ。
自分が思っていたよりも好評な(^_^;)このシリーズ、今回は東京時代の話はまだまだあるけど、いったん別の職場での話。
東京から帰ってきて最初の職場での話題です。

その職場では、いわゆる指定管理者制度を用いて、とある大きなセンターの運営もしていてました。事業を契約者に任せているんだけれど、その運営内容の審査は、弁護士や会計士、地域の代表や利用者の代表などの審査委員に年に一度は報告し、さまざまな質問などを受けて審議される形になっていました。

その審査を受ける日、私と部下は大きなケースに関係資料を詰め込み、ライトバンで出かける用意をしていました。
そこでの上司は、さらにその上の上司を別の乗用車に乗せて、会場のセンターに向かう段取りになっておりました。

私の部下が、資料詰め込みの最中に上司が通りかかったので、「審査後の帰り道は、速度違反の取り締まりをしょっちゅうやっているので注意した方がいいです。」と声をかけました。

そしたら、その上司「いちいち人の心配なんかしてるんじゃねぇ、これからの審査をどうやって乗り切るか自分の心配をしろ、余計なお世話だっ!」と怒鳴りました。

シュンとなった部下に私は「気にしなくていいよ。ああいう人なんだ。4月に来てよくわかったんだ。でも、言って差し上げただけいいことしたよ。」となぐさめました。

で、現地に到着してからは、非常に厳しい質問、議論等が白熱しましたが、なんとか、どうにかこうにか終えることが出来ました。
ほっとして、私と部下は資料をまたライトバンに積み込み、帰る準備をしていました。

そこにあの上司が通りかかりましたが、何の声も掛けず、その上の上司をクルマに乗せて“ばびゅーん”と帰って行きました。

私:「“なんとか終わったね、ご苦労さん”くらい声をかけてくれてもいいのにねぇ」と部下に話しながら積み込み完了。

二人でクルマで帰路につきました。

そして、一直線の大通りを走っていると・・・

やってました、「速度違反取り締まり」!!

あっ、いました、いました、私の上司と、送ってもらっていたその上の上司。
お巡りさんに連れて行かれております。

自分の上司を送っている最中に引っ張られてしまうという「痛恨のミス」。
表情はよくわかりませんでしたが、後悔しているのか、それとも逆ギレしているのか、想像もつきません。

職場に帰ってくると、「捕まっちまった」と投げつけるように一言。

私の部下:「もうちょっと、真剣に忠告しておいた方がよかったんでしょうか。」

私:「いや、こんな形になった方が勉強になったからよかったと思うよ、いろいろな面で。」

当の捕まった上司は、悔しさを言葉にすることも出来ず「ウ~~ん」と、ずっと唸っておりました。
誰にも当たることが出来ないもんねぇ、お気の毒。

部下の言うことはよく聞いた方がいいという教訓でした。

 

2021/07/17

「その言葉、もう使われていませんよ/日本語倶楽部(編)」を読みました。

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『その言葉、もう使われていませんよ/日本語倶楽部・編(KAWADE夢文庫)』という本を読みました。

そういえば、最近聞かなくなったなという言葉から、えっ、もう使われていないの!っていう言葉など、たくさん載っていて、びっくりしたことが多かった本でした。

私が少し気になったものを挙げてみると

①ウェーティングサークル → ネクスト・バッターズ・サークル

野球で打席に立つ者の次の打順の選手が控えている丸く白線が書かれたサークルのことです。
私が子供の頃は、もちろんウェーティングサークルと呼んでいました。
幼い頃に後楽園球場で見た巨人軍の長嶋茂雄選手がサークルに入り、片ひざをついて、バットのグリップエンドに手を掛けて打順を待つ姿はまさにウェーティングサークルでのお手本のような“カッコよさ”でした。
サークルに入っただけで、大歓声がしたことを記憶しています。

②アベック → カップル

ためしに、ウチの子らに「“アベック”って知ってる?」と聞いてみたら、「なんだそれ?」と言われました(^^;)

③ビフテキ → ステーキ

私が小さい頃に、漫画を読むと(特に藤子不二雄先生の)、「ビフテキ」ってよく出てきました。
ステーキとは違うもので「ビフテキ」という特殊な食べ物があるのだと、ずっと思っていました。
大人になってからビフテキ イコール ステーキだと知ったのでした…σ(^_^;)

④アタッシュケース → アタッシェケース

これは私が自分の勤め先の職員が使うPCのシステムを作っている部署にいたときに初めて「アタッシ“ェ”ケース」が正しいのだと知りました。
ファイルに暗号をかけるのに、フリーソフトを探していて「アタッシェケース」という名のソフトを見つけたときです。
意外と皆、アタッシュケースと呼んでいるかと思います。

⑤はだ色 → うすだいだい、ペールオレンジ

今どきの色鉛筆などを買うと、「はだ色」なんて無いんだそうです。これも最近知ったのです。
人種問題的な観点から不適切だと判断されたんですって。

まだまだたくさん載っていて、「もう、自分でそれを変換できないよ」とあきらめたくなるくらいたくさんありました。
少しずつ覚えましょうかねぇ・・。

 

2021/07/16

【「水が出て、お茶が出て、ヤクルトが出たあと」の話/過去に会った人、過去にあった出来事について振り返る №5】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ。
前回、当時の上司から教わった、とても大事な先生を訪ねたときの心得について書きました。
上司からの教えどおり頑張って、「水」→「お茶」→「ヤクルト」の順に徐々に信頼を得た私…σ(^_^;)

時は進んで、それを教えてくれた上司は退職され、新しい上司が二人やって来たのですが、その二人が以前ここで書いた「正直に言えっ!」「本来のバカに戻っていいよ」と私に言った上司です。

私は、残された立場なので、新しい上司を、最初は“顔つなぎ”として型どおり議員会館に行って秘書さんに紹介しました。

でもね、私が議員会館に行ったときには「土産話」として新しい情報などを持ち帰るのですが、二人は何もなく、すぐに帰ってくるのがわかりました。

ふたりとも「ベルを押しても、5センチくらいしかドアを開けてくれないんだよ。何?って聞かれて、広報紙を持って来たというとそれをドアの隙間からスッと取って、バタンと閉めてしまうんだ。」というわけです。

そして、今度は私が行く日になると、例によってソファでお話し、お茶が出て、ヤクルトが出て・・。
ある日、秘書さんが忙しそうにパソコンを叩いているので、「どうしましたか」と、聞いたら、「システムが導入されて、今までのPCからアドレス等を移行しろってことになって、大変なんだよ。」と。

「あっ、一人ずつアドレスなどを入力しているんですね。セキュリティもありますから、後ろで見守っていていただければ、CSVに落として、一括で移行できますよ。」
というと、「えっ、そんなことできるの?!」と。よろこんでやらせてもらいました。

それを見ていた秘書さん、「最近フェイスブックとか、SNSとか、耳にするんだけど、ツイッターまでは何となくわかったけど、どういうものか色々教えてくれるかな?」と。

まかせてくださいと、タイムラインのことや、双方向性があること、特に本人の人柄が出やすくなることなど丁寧に説明しました。

その後また訪ねたときには、「きょうは部屋に代議士がいるから一緒にちょっと地元の各施策などがどう進められているか、聞きたい」と言われ、緊張しつつお二人に説明。
質問も受けていると

「珈琲を淹れようかね」

・・み・み・未知のゾオォォ~~ンっ!!'(*゚▽゚*)'珈琲は前の上司からも聞いていなかった。

素敵なカップに珈琲を淹れていただき、「ケーキもあるんだよ」と。

・・ケ・ケ・ケ~~~キっ!!!*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

説明も終わり、うれしい気持ちで部屋を出ようとすると、「ちょっと待って、これを職場の皆さんでどうぞ」と、手渡されたのが『鳩サブレ詰合わせ』でした。
体がふるえるくらい嬉しかったのを覚えています。

ドアを閉めようとすると、「ああ、それから」と秘書さん。

私:「なんでしょう」

秘書さん:「あの二人にはそれを渡さなくていいよ。あんたの上司だよ、悪いけど。」

「あんたに言うのは申し訳ないけど、あの二人は挨拶もろくに出来ない。礼儀もわきまえていない。それなりの役職に付いているんだろうにね。」

「だからここに来てもあの人達には話をしないんだ。ごめんね。でも、あんたはあの二人の下でさぞかしつらい思いをしているだろう。頑張るんだよ、東京勤務は一二年、長くても三年くらいでしょう?最後まで今のように頑張って・・。」

とおっしゃったのです。

「ありがとうございます。」と、深々と頭を下げて部屋を出ました。

帰り道は、なぜかスキップするくらいの軽い足取りになりました。

 

「怠惰の美徳/梅崎春生」を読みました。

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『怠惰の美徳/梅崎春生著・荻原魚雷編(中公文庫)』を読みました。

梅崎は、戦後派を代表する作家、怠け者のまま如何に生きてきたかを綴った随筆と短編小説が収録されていました。(※荻原魚雷・編)

大学にはほとんど出席もせず、新聞社を志望したがどこも全滅で入れず、やむなく役所に勤めるが毎日ぼんやりと過して給料を受け取るだけ。
一日12時間は眠りたいと言い、できればずっと蒲団にいたい・・ (・_・;という強者です。

読んでいて、いちいち理屈っぽく怠惰なので、こっちもイヤになり、読むのが面倒くさくてうしろにひっくり返って昼寝することばかりの読書になってしまいました。
まあ、作者の作風にぴったりなので、これでいいや、という感じでした。

そんな私が、読んでいてガバッと起きて気になった部分をいくつか抜き出してみると、

終戦の日を海軍部隊の通信下士官として鹿児島で迎えた日の記述で・・

「あの日の開放感を、今も私はなつかしく思い出すのだが、も一度現実に味わいたいとは思わない。床上げの日が嬉しかったからと言って、もういっぺん大病にかかりたい、と思わないのと同じだ。もう病気にかかってはならぬ。」

ちょっと不思議で妙な感覚だけど、なんだかよくわかるような気がしました。

次に気になったのは、戦後の闇市に一切行かず、毅然として拒んだだめに栄養失調で死んだ教授のようになりたくない、という記述でした。

「まず生きることが第一義だということは、私のみならずすべての人が此の戦争を通じて克ち得た考えに違いないのだ。」

と、書かれています。“まず生きることが第一”、今の世の中でもこれはとても大切なことだと特に近年感じます。コロナ過でも、オリンピックが無理やり開催されても、緊急事態宣言でいろいろ締め付けられても、経済的に困難になっても、職場でいろいろなことを言われても、悩んでも、悔やんでも、ひとりぼっちだと思っても、もういやだと思っても・・・生きていくことが大事だと・・・。

もうひとつ、あげておきます。

戦後すぐの時代に書かれたもので、

「官僚というものの非人間的なつめたさ。中にひそむいやな立身主義などの一因は、その構成分子の役人たちが、学生時代に凄惨な競争をしてきたからではないのか。勝つためには相手をおとしいれるのも辞さぬという、あまりにも非人間的な競争の場に、若い時からしょっちゅう臨んできたからではないか、と私は思っている。」

ということを言っています。
まるで、今現在のことを言っているよう。(・・西村大臣もこんな道を歩んできたクチだよねぇ・・)

以上、今でも忘れてはならないことが、そっと書かれていたと思います。

 

2021/07/15

【「ヤクルトが出たら本物だぞ」の話/過去に会った人、過去にあった出来事について振り返る №4】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ。
前回、前々回はちょっとイヤな話でしたが、今回はそのイヤな上司に代わる直前の上司から教わった“イイ話”です。

十数年前、初めての東京での仕事。
その時の上司は、前回、前々回登場した上司とは異なり、厳しく、やさしく、“アツい”、尊敬できる上司でした。

着任してすぐに事前に言われていた名刺200枚を持って挨拶回りに連れて行ってくれました。
同業他社の事務所もほとんど回り、各省庁ほとんどの関係者に紹介していただき、さらに国会議員さんも訪ね、会館回り。

ラストの議員さんの部屋の前で

「いいか、ここが一番大事なところだ。多くの情報を貰えたり、様々な場面で力になってくれる人だ。いくぞっ。」

ということで、私を紹介してもらい、そのあと上司と二人で帰るときに

「一応、広報紙の出る二週間に一回のペースで“ご機嫌伺い”に行くんだけど、自分を覚えてもらい、“関係をつくる”のが難しいんだ。」

①ウチの組織の者だと覚えてもらえると、まず「水」が出てくる。
 私:「み・・水ですね」

②組織の人間というだけでなく、個人として認識してもらえると、「お茶」が出るぞ。
 私:「お茶が出たら、私個人を覚えてもらえた・・ってことですね。」

③そしてだなぁ、お茶をいただいたあとに、「ヤクルトはどうだい?」と言われたら、心を許してくれたということになるんだ。ここまで来るのは大変なことだぞ。
 私:「ヤクルト・・ですね、覚えておきます。ヤクルト目指しますっ!」

④ただし、そうなるための方法は特に無いんだ。オレもいろいろやって、辿り着いた。いいか、自分でその方法を見つけるんだ。
 私:「わかりましたっ!頑張ります。」

ということになりまして…σ(^_^;)

用も無いのに、チラシや広報紙、資料などを持って何度も出かけました。
とにかく挨拶はていねいに、「国会図書館前の桜がきれいに咲いてますね」などとなるべくお話をしてみようと努力しました。
秘書さんも、「ああ、あんたか」と段々覚え始めてくれたように感じるような状況になり、

秘書さん:「あちこち回って大変だね。水を飲みなさいよ」
私:「おおっ、担当者であるという認識は持っていただいているな。」と、第一段階によろこぶ私。

ある日、秘書さんから地元の状況などについて質問を受けたので、必死に答えていると、
秘書さん:「もっといろいろ聞きたいから掛けてお茶でも飲んでいきなさい。」'(*゚▽゚*)'と。
私は、聞かれたこと以外にも、「地元でこんなイベントがあります。」などと、とにかくお話をすることに努めました。

そしてまたある日

いつものようにお茶をごちそうになり、「そろそろおいとま致します。」と腰を上げると、

秘書さん:「まだいいだろう、『ヤクルト』でもの飲むかい?」と!!!

来たあぁぁぁぁぁ*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

ついにここまで来たのか(T_T)と感無量になりました。
「所長の言っていたことは本当だったんだ。」と、あらためてしみじみと思い返したのでした。

そして、事態はさらに進展していくのでありますが、ここでお時間となりました。
続きは【 衝撃・笑劇 】(^^;)の次回まで!

次も読んでね。

 

2021/07/14

【前回からの続編「本来のバカに戻っていいよ」と言われた話/過去にあった人、過去にあった出来事について振り返る №3】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ。
前回の『「正直に言えっ!」と言われた話』の反響が大きく、驚いたり、“せいせい”したりでしたが、その続編に突入いたします。

前回で、私の作った facebook page がゴーストライターではなく、私本人が作ったものだと認めた上司。
それからは、更新状況をよくチェックしていたようでした。

アクセス数も日々上がり、まだ一般的には、 facebook 自体が珍しかった時だったので地元本庁で議員さん達に facebook page がどういうものか説明会を開いたらしく、その際に、私の facebook page をスクリーンに投影して、サンプルにしたのだということを知りました。局長が東京を訪れたときに「事後承諾で申し訳ないけど」と私に直接お話がありました。
これもうれしいニュースでした。公式でなくとも、知っている人は知っていたということです。

さらに、私が省庁周りで部屋を不在にしていた時に、電子行政関係ではおなじみの有名な先生が事務所を訪ねてきてくださり、私の上司に、私の文章能力について褒めていただいた上に、「もっと、その力を生かしてあげてください」とのお話があったと、あとで上司から聞きました。
上司は“狐につままれた”ような表情で私にそれを伝えました。
職業柄、その先生のことは当然存知上げていなければならなかったのに、どなたかよくわからぬまま対応していたようです。失礼な話だ。

で、だんだん年度末が近づいてきたら、上司から呼ばれ、「来年度から正式なページにするので、いいよね。準備しておいて。」と言われました。
「もちろんOKです!」と胸を張って答えた私。

そして3月に入り、人事異動の内示が出て、私は地元に帰ることになってしまいました。

そしたら、また例の会議室に呼ばれたんですよ、また後ろ手にドアを閉めて私を導き入れました。

上司:「あのね、facebook page の内容を落としてもらいたいんだ。」

私:「“落とす”ってなんですか?」

上司:「4月からあなた無しでやらなければならなくなったでしょ。4月に入って突然“質”が落ちたように感じられると困るんだよね。」

私:「それって・・どういうこと・・。」

上司:「だからさ、あんた本来の実力を発揮して、もともとそうだったんだから“本来のバカに戻った”文章を書けばいいわけ!」

私:「本来の実力が今の書きぶりですよ。そんな言い方はおかしくありませんか。(※私の心の中→じゃ、お前が書けば丁度いいおバカな文章になるんじゃないの?!)」

上司:「あんたには人の心が無いのかね。新しく来て引き継ぐ人の気持ちはどうなると思う。いきなりいいものを書かなきゃならないなんて、ひどい仕打ちをあんたはするのかね。」

私:「おっしゃっている意味が皆目わかりませんよ。(※私の心の中→いきなり船から作って航行したのが私で、もう船が出来ているところに乗っかって自分なりの航海をするだけなのに、お膳立てが出来ているのに、そんなこと言うんかい。)」

上司:「わかったの??!!いいからやってよ。」

私:「私がバカで誰でも作れる文章を書けというなら、誰でもいいから他の人が書いてみたらどうですか。私は自分でわざとレベルを落として文章を書くなんてことは、どうしても出来ません。」

上司:「もう頼まない、わかったよっ!!人の心がわからないヤツだな。」

と、捨て台詞を残して上司は会議室を出て行きました。

結局、4月にパスワードをよこせ、よこせと再三の催促が私の新しい職場に来たのですが、私だって一年かけて一生懸命つくりあげたページだったので

「引き継ぎ後、第一回目の原稿を見せてください。それを見させてもらってからパスワードをお渡しします。」と返答しました。

それから何週間経っても原稿を作ることも出来ず、「もらってから原稿を考える。いいからパスワードをよこせ。」と強引な連絡があった後、また数週間・・・

「悪かった、私達には出来ないことがわかった。facebook page については、皆でもう一度勉強してから、自分達で作ってみようと思います。」と最終回答があって、私のページは公式にならずにそのままになり、その後は個人的なこと、お店の紹介などもするようなプライベートページに変更して、細々と書き続けることになったのでした。

長かったけど、以上です。

まだまだ、私の人生、様々な職場で色々な出来事がありました。

今後も“ボチボチ”書いていきます。お楽しみに・・って言ったら変ですが、時々のぞいてみてください。

 

2021/07/13

【The Beatles 研究室・復刻版】With The Beatles[A-4]Don't Bother Me

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2004年から2008年にかけて作成したホームページ「The Beatles 研究室」・・2009年リマスター発売後の一部追記も含めてのブログにての復刻版です。ほぼ当時のまま、そして復刻後追記も付しております。
今回は、ジョージ初めてのオリジナル曲が登場した、アルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」の「ドント・バザー・ミー」です。
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アルバム二枚目にして初めてのジョージ・オリジナル曲です。
フォー・セイルまでの四枚のアルバムでジョージ・オリジナル曲はこの一曲のみでした。

アルバム・ヘルプの「アイ・ニード・ユー」までは、ジョージの曲はジョンとポールには認められなかったということなのか・・・。
でもその間にジョージは、ジョンとポールの曲づくりから多くのことを学んだのだと思います。
アルバム・リボルバーの「タックスマン」以降はどんどんジョージの曲が取り上げられていくことになるわけですから。

そして、最終的にはジョンにもポールにもひけを取らないコンポーザーとしての実力も見せることになるのです。
ビートルズ解散後、最初に見事な成功を収めたのはジョンでもポールでもなく「オールシングス・マスト・パス」という大作を引っさげたジョージでした。

と、ジョージ・ストーリー的な話はここで終わりにして、この曲です。
けっこう「ジョージの駄目な曲でもそろそろ一曲取り上げてやるか」的な形でアルバムに入ったのでは・・という書き方をしているビートルズ本が多いです。

でも、私が聞くと、当時のビートルズらしいビートルズの曲のような感じがしますし、悪い曲ではないと思います。
名曲ではありませんが、途中のちょっと怪しい雰囲気の部分や、ジョン、ポール、リンゴの三人で生み出しているパーカッションのリズムも上記の雰囲気にさらにいい味を付加しているように思います。
さらにそれに合わせた、トレモロの効いたジョージのギターも面白い味を出しています。

聞いたところによると、コンサート・ツアー中に体調をくずしたジョージがホテルの部屋で一人書き上げた曲らしいのですが、「体調が悪いんだから、オレのことはほっておいてくれっ」という当時の気分も感じられます。
ジョンとポールの数々の名曲が自分の見ている目の前で紡ぎ出されるのを見ていて、「ほっておいてくれ」となったのかもしれませんが・・・。

結局、このアルバムの中でもビートルズ的雰囲気を醸成させる役割を担う、まあまあいい曲っていうところかな?ジョージ・ファンの人ゴメンm(_ _)m


〈追記〉2021/07/13

ここでは、ホームページ作成後に手に入った音源を聞いてみての印象をそれぞれにまとめてみます。

米・キャピトル・ステレオ盤では、他のアメリカ編集盤よりも“おとなし”い感じの音に感じます。
ジョージのダブルトラック・ボーカルは、被らずに、かなりはっきりと聞き取れます。
とてもオーソドックスな感じです。

米・キャピトル・モノラル盤は、ジョージのメイン・ボーカルの音がとても強調されています。
AMラジオ向けにはとてもいいミックスだと思います。
強調されるべき部分をはっきりとさせ、初めて聞いた人にも曲の良さがよくわかるようになっていると思います。

2009年リマスター・ステレオ盤は、米キャピトル盤ほどダブルトラック・ボーカルのジョージが分離されて聞こえません。
“おとなしい”印象は変わりませんが、全体に英国らしいしっとりとしたサウンドだと思います。

2009年モノ・マスター盤は、とても聞きやすく、音も一番破たんなく落ち着いていると感じました。
エコーやリバーブ、トレモロなどの残響音的な仕上げも“ほどほど”で、良い仕上がりだと思います。

英・アナログ・モノラル盤は、割とシャキッとしてクリアで気持ちいい音です。
ジョージのダブルトラック・ボーカルの音も米盤ほど分離されていず、心地よい感じのミックスだと思います。

英・アナログ・ステレオ・テスト盤は、ギターの音がとても生々しい感じです。
アンプで起こしているらしいトレモロの音もポワワ~ンと艶やかでいいです。

 

2021/07/12

【「正直に言えっ!」と言われた話/過去にあった人、過去にあった出来事について振り返る №2】

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過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ。
もう、仕事もやめたので、気が楽になり、いろいろと思い出すことがあります。
前回、意外と反応が大きかったので、この「過去にあった人、過去にあった出来事について振り返るシリーズ」さらに続けていきます。
今回の「正直に言えっ!」は、話がその後も続きますが、まずは取っ掛かりの出来事から書いてみようと思います。

十数年前の人事異動で、職場が地元から離れた東京に変わりました。
そこでの仕事のひとつは、地元から離れた東京で、“地元のPR”をすることでもありました。
東京の職場では上司が一年で全て交代となり、その交代で来た人との話です。

年に一度、職場の上司に「今年は何にチャレンジするかシートを提出して、年内に何度か進捗状況を報告し、評価をもらうということになっていて、当時 facebook が日本で少しずつ認知され始めていた頃でした。

なので、地元の様々な施設、行事、名所・旧跡、さらに様々な地元にまつわるエピソードの紹介をするような facebook page を作ってPRにつとめたい、ということを書いて提出しました。

「あんたみたいな人には作れないよ」と言われ、「能力が無いから出来ないでしょ」とも言われましたが(※ひどいと思う)、「このシートは、自分にはかなり高いハードルとなるようなものを書いてチャレンジしろ」と説明文にあるのだから、やらせてくださいとお願いし、渋々了承を得ました。

でも、「あんたが作るようなものは、ウチの恥になるから、正式なものでなくて、個人的にいったん作り、もし・・もしもだよ、いいものだったら、来年度から正式な page にすることにする。

という話になったのです。

で、次の週から土日に個人的にあちこち出かけて行って取材を片っ端からしましたよ。

日本最古の鉄筋コンクリート建築物や、歴史上に残る人物が住まっていたところ、石碑に刻まれた文言から過去を訪ねていくこと、さらにコスプレの聖地となっている海岸近くの公園に出かけ、撮影とコスプレイヤーの皆さんへのインタビュー、日本でも一、二のどんな姓の印鑑もあるハンコ屋さんで社長に文献・資料を見せてもらいつつのインタビュー、当時あった地元ユースホステルが企画した“ねるとん”パーティーでピザを男女が生地から手作りし、石窯で焼き、カップルが出来上がるまでの一日がかりの取材など・・。

もうガンガンにやって、週に一回のペースでアップしていくと、アクセス数は上がる上がる!(*゚▽゚)ノ

それをチェックもせずにいる上司達。

「どんな“ぶざま”なものを作っているのか見せてみろ」と言われたので、iPad を使って見せると、そんなことを言っていた直属の上司と、その上の上司の顔色がスーッと変り、「・・いいねぇ・・。」と言ったきり、黙ってしまい、iPadを返してきました。

家に帰ってからもPCなどで、私の作った facebook page を遡って見てみたようで、次の日からも二人の顔色は悪い。

で、翌週。

週明けにいきなり、「こっちに入れ」と言われ、会議室に呼ばれ、私が入ると、ドアを後ろ手に閉められました。

奥に座った私に向かって

上司:「正直に言え。誰に書いてもらっている!」

私:「誰って、私に決まっているでしょう。」

上司:「ふざけるな、あんな面白くていい文章、あんたみたいなバカに書けるわけないだろう。」

私:「“あんな面白くていい文章”、ってのはたいへんうれしいですが、そのあとの“あんたみたいなバカ”はうれしくないです。」

上司:「おかしいだろう。貝塚遺跡のことについて詳しく書かれていたり、問題点なども指摘していたり、ジャンルがバラバラなのに、みないい文章になっている。それぞれ頼み込んで別々の人間に書いてもらっているのか。」

私:「毎週、土日に個人的に取材に出かけて、関係者の話も聞いているし、自分でも感じたことを書いているだけです。しかも「100」聞いてきたうちの「2」くらいしか書いていないのです。それがコツなんですよ、おもしろくする。」

上司:「とにかく白状するまでは、この部屋から出さない。」

私:「じゃあわかりました。今、あなたがテーマを出してください。目の前で15分もあればA4二枚の原稿を書いてみせます。テーマは私が書けそうもなくて、あなたが得意な分野のことでもいい。そのかわり、あなたも一時間差し上げますから、文章を同じテーマで書いてください。書き終えたら、部屋の皆んなに名前を隠して読んでもらいましょう。そして、どちらの文章がいいものか、聞いてみましょう。はっきり言って自信があります。」

上司:「もういいっ!」

と叫んで、私は会議室から解放されたというわけです。

さらにこの話は続きますので、気になった方はまたお読みくださいね。

 

2021/07/11

「常識は凡人のもの」を読みました。

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『常識は凡人のもの 管見妄語/藤原正彦著(新潮文庫)』という本を読みました。
ブックオフにて安価購入。
週刊新潮の人気コラムをまとめたものということで、平成30年に新潮社から刊行されたものの文庫化版です。

なので、話題はちょっと古く、そんなこともあったなぁ、と思い出す話題も多々ありました。

トランプ氏が大統領選で勝利したときの、メディアの狼狽ぶりについてもふれられていました。
それ以前、20年間あまりは世界を牽引してきたのはグローバリズム(ヒト、カネ、モノが自由に国境を越える。そのための小さな政府、規制撤廃、自由競争など)だったが、それを推進してきたエスタブリッシュメント、利得者とも言える政官財、それに寄り添い恩顧を得ようとしていたメディア、御用学者、評論家などが慌てたんだ!という主旨のことが書かれていました。

そんな感じでした、あの頃。
そして世界的にも、けっこう“独裁的”に国、人を引っ張る人が台頭してきた、と私のような一般人も感じました。
世界中がその場をぐるぐる回っているだけで、結局何も進まなかったような気もします。

それから、「指導者」と呼ばれる人は、国民・市民が想像しているほど気高かかったり、立派であったりもしていないと気付き始めた頃だったという気もします。

自分や、自分の属する組織、利害関係者のためばかりに夢中になって物事を進める人が、それに“コバンザメ”のように寄生しているヤツらにもてはやされ、さらにその事態に気付かず、“うかれて”それらについて行っていってしまう人もたくさんいるのだということも知りました。
それが今も続いているのだと思います。

それから少し気になったところでいうと、
「カタカナ語を格好いいと考える人が多い」と書かれていた部分でした。

コミットメント(約束、関与)、キャパ(収容能力)、ペンディング(保留)、アジェンダ(議題)、エビデンス(証拠)、アサイン(割り当てる)、などを挙げていました。
もう何年も前から言われていたんですね。
なんか“カタカタ語を使うヤツはあやしい”っていうのは、私もいつも今でも感じています。

この頃の小池都知事についても書かれていました。
「目標はサステイナブルな首都東京を創り上げること・・・セーフシティ、ダイバーシティ、スマートシティの三つのシティの実現に取り組みます」
「ハード面のレガシーだけでなく、ソフト面のレガシーを構築・・・コンプライアンス・・・ガバナンス・・・」

・・ああ、そうですか・・。っていう感じです。今も変わりませんね。

藤原さんの本は今までほとんど読んだことがなかったのですが、興味の対象があちこち、どんどん飛んで行き、頭の回転も早いのでしょう、自分で納得して、ぐいぐい進んで行ってしまい、私には何のことやらわからぬうちに話が終わっていることも多々有り、ついて行けない話題もたくさんありました。
また、私がまったく興味を持てないものも、いくつもありまして、結果的に言うと、よくわからないところがほとんででしたが、それでも上記のように私の未熟な頭脳にも引っかかってくる部分はありました。

まだ何冊か藤原さんの本をブックオフで購入してあるのですが、読んで見て、読後感を今後も載せようと思っております。

 

2021/07/10

【南先生の玉手箱_0033_生まれて51年 7回シリーズ[7の3] 】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
平成10年の「家庭教育学級・資料 -家庭における進路指導のありかた-(私自身をふりかえって)」という冊子から、「生まれて51年」という文を長編なので、7回に分けてのご紹介。
今回は、7回中の第3回目です。


以下、先生の文章です。

中学ではチビのくせに野球部に入りたくて、すぐ入部。
2~3年生が大きく見えて個人的にはかわいがってもらった思い出がある。チビだったことが理由ではないと思うが、体もそんなに強くなかったせいか、じきにやめてしまった。

残念だったが、学校まで8㎞以上、いろんな面でしかたがなかったと今では思っている。
担任の先生がお前体が弱いんだから運動やんないかって美術部に入りながら陸上競技の活動にもかけもちで参加していた。

早くもないのに高とびだけ、補欠選手になったのを覚えている。
家の庭を掘りまくって、高とびの練習をした思い出がある。
自分の好きなことには意欲を持って、興味があれば頑張るものだと思っている。

友だちと好きなことに精いっぱいとりくんだ年頃だった。
この時代もひとつの青春時代で、異性には興味のある年頃だったと思う。
特にどうってことはないと思うが、クラスにも又年下、年上にも何故か好きな娘がいたりして、気が多かったのかも知れないが、結婚したらどうなるのか考えたり、人生のひとコマ、みんな同じような思い出があるのではないだろうか。

中学生で女の先生のクツ箱の中ににソーっとラブレターのようなものを入れていた生徒がいたのも思い出します。
何とも精神的に不安定な年頃だったと思う。又その頃は友だち、親友など今でも親しくしている仲間が人生の宝物であった。

私たちの頃は金の玉子と言われ、級長も東京の会社に就職して社内の学校に行き、親しくしていた仲間のほとんどが東京方面に就職をしたこともあって何回も東京、秋葉原方面に見送りに行ったのを覚えている。

私は自分の進路面で、これと言った強い希望もなく、みんなが行くからと言う気分で一番近い学校に行った。

◎当時は入試に落ちたら就職も多く、みんながバラバラに分かれていく状況で淋しかった。
全員にちかい子どもが進学をする状況は考えられなかった時代で、私のクラスは6割ちかく就職だったような気がする。
地域性もあったとは思うが、進路とはいつの時代でも人それぞれちがってあたりまえで進学することばかりが進路ではないと思います。

進路の壁を乗り越える力は自分自身だと言うことを長い人生においてみんな何度も体験してきことと思う。

子どもたちのために我々教師や大人側はできるだけたくさんの進路にかかわるメニューを持っていなければいけないと思います。
その子の特性、その子らしさがどんな方向にむいているのか、良き相談役でありたいものです。

よく自分のことが分らないと言いますが、基本は自分です。
自分のことについて本気になれば必ず方向が見えてきます。
他人との比較ではなく、自分をみつめるところをスタートラインとして、自分の進路に全力投球させたいものです。
人生一度しかないけれども、自分に素直に考えていけば、いくらでもやり直しもできると思います。


以上が先生の文でした。

先生の中学時代。
私自身が先生に教わったのが中学生だっのですが、ここに書かれている時代とはやはり少し異なった部分があります。
中学を卒業して就職、という友達はたぶんいなかったと思います。
でも、結局先生のようにずっと大人になってからも友達として存在している同級生はほとんどいないですね。生徒同士の結び付きは先生の時代の方が、かえって強かったんでしょうね。

逆に、先生が女の子に憧れたりしている部分については、私の時代の方がやや進んでいたかもしれません。
彼がいて、彼女がいて、っていう同級生はけっこう多かったと思います。かくいう私も。

先生の文章を読んでいて、私も自分の中学時代のことを思い出しました。

 

2021/07/09

伊集院静さんの「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」を読みました。

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『愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない/伊集院静著(集英社文庫)』を読みました。

以前、このブログでも読後感をご紹介したことのある「いねむり先生」の続編というか、表裏一体という感じの自伝的小説でした。

「いねむり先生」が、“いねむり先生”のモデルとなっている色川武大さんと伊集院さんとの師弟関係的で、親子関係的で、ギャンブル仲間的な関係を中心に繰り広げられる、どちらかといえば“穏やか”な物語でしたが、今回の「愚者よ・・・」は、まっとうに生きようとすればするほど、社会の枠から外される人々、そしてそれにおそれを抱きつつも執着してしまう伊集院さんの思いがひしひしと伝わってくる物語でした。

上記のような、社会の枠から外れた、ある意味“愚か者”に、いとおしいと心の底で思っている伊集院さんが、その愚か者と「危険な生き方」を共有していくというストーリーは“危な過ぎ”て、ハラハラするよりも、もっとスリリングなものになっていました。

でも、そんな伊集院さんと周囲に何人も登場してくる“愚かな男たち”の生き方に、なぜかとても男として魅力を感じてしまいました。

伊集院さんと、愚かだけど魅力ある生き方をする人たちは、やがて人生ギリギリの状態に追い詰められ、悲劇的な結末を迎えて、その状況にただ茫然とし、胸を切り裂かれるような思いをする伊集院さん。

やがて、伊集院さんの夢や幻想の中に、亡くなってしまった弟さんやあの美人女優だった奥さん、そして色川先生も現われて、生きて残ってしまったような形となった伊集院さんの複雑で哀しい心境が著わされることになっていたこの物語。

読んでいるこちらも、そんな伊集院さんの心の中に入り込んで生きているような気持ちになり、この400頁にも渡る長編が私自身の現実のように感じられたのでした。

そんな中で生きて行く伊集院さんの力強さも感じましたが、人生の厳しさ、哀しさも強く感じました。
決意のようなものを、あらかじめ持って読まねばならないような本でした。

 

2021/07/08

【日経新聞を買え/過去にあった人、過去にあった出来事について振り返る №1】

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人生長いことやっていると、いろいろな人と出会い、いろいろな出来事に出くわします。
私も、昨年末から今年始めにかけて入院するようなこととなり、退院後は身体のことを考えて仕事を辞めることにしました。
今のところ時間もできて、人生を振り返るようなことをしてもいいのではないか、と考えて、今まで生きてきた中で、出会った人や起こった出来事を振り返ってみようと思いました。

思いつくまま、このブログ中でシリーズ化して(カテゴリーも設けました)書いていこうと思います。

まずは、今回のタイトルにもある「日経新聞を買え!」と言われた友人の話を思い出したので、それを。

その友人(男)は、小学校、中学校の同級生。
別々の高校に行ってからも、よく遊ぶことがありました。
私の家に来るときには、きれいな彼女や、可愛い彼女など、いつもいろいろなガールフレンドを連れて来ました。
ようするに“モテる”のです。

大学、そして互いに就職してからも草野球チームをつくったりして、そこでも仲良くしていました。

社交性もあり、仕事もよく出来ると思われた彼は、ヘッドハンティングで転職し、その後も仕事は順調のようでした。

ある日、東京で働いている彼から電話があり、「俺、昇進して今の会社で〇〇部長になったんだ。日経新聞に載ったから見てよ。」とのことでした。

「そうか、おめでとう!」と言って電話を切りましたが、その後メールが来て「日経新聞買った?!見てくれたの」と・・。

「いや、買ってはいないんだけど」と返信すると、さらに返信メールで「これが掲載された部分の画像だ」とPDFを添付して送ってきたのです。

「すごいね、良かった。ほんとうにおめでとう」と返信すると、「俺が日経新聞に載ったのがうれしくないのか、ちゃんと買えよ」と、またメールが。

「PDFの画像で確認できたから大丈夫だよ、送ってくれてありがとう」とさらに返信。

「ちゃんと記念に買って、とっておけよ」と、またメールが来て (・_・;

正直言うと、自分のことでも人のことでも、あまり昇進、昇格って興味がなかったのです。
そんなことばかり考えていると、自分の人生が台無しになってしまうような気になっていたところだったのです。
今も、その気持ちはさらにつよくなり、仕事を辞めてからも確信しました。

なんだか自分とちがう世界に行ったんだな彼は、と思ったという過去のお話でした。

 

2021/07/07

なつかしい高嶋秀武さんの本「しゃべり上手で差をつけよう」を読みました。

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『しゃべり上手で差をつけよう/高嶋秀武著(PHP文庫)』を読みました。
例によってブックオフにて安価購入。

著者の高嶋秀武さんは、1942年生まれ。ニッポン放送のアナウンサーで、ナイターの実況中継からニュース、芸能の分野にも一時司会者として進出、オールナイトニッポン、「大入りダイヤルまだ宵のくち」などでも活躍されていました。

私がよく覚えているのは、早朝の番組「お早よう!中年探偵団」のパーソナリティの高嶋さんです。

この本は、その高嶋さんが1996年に刊行した本の2003年文庫化版です。

最近もニッポン放送の短い番組などでお声を聞くこともありますが、あの頃とちっとも変わらない張りのある声で番組パーソナリティをつとめられています。

とにかく、書かれたときの時代がファミコン登場の頃であり、その話題や、Windows95が登場し、ノートパソコンを買って、“できる男”を気取った話など時代がしのばれます。

時代もバブル全盛から、はじけたあとの社会の急降下の様子、会社のお金の使い方もどんどん萎んでいく様子がわかりました。

もう、あの頃を知っている人も少なくなりました。

高嶋さんは、ラジオでもいわゆる“持ちネタ”的な話題が多く、この本でもたくさん“ほんとうにそんなことあるの”っていうエピソードを紹介してくれます。
これって、私もいつも思っているのですが、“事が起きたとき”に、「これは面白い、あとで話題にできるぞ」と脳内記憶装置にインプットしておかないと、すぐに忘れてしまうのです。

あれほど面白かったこと、びっくりしたこと、感動したことも、ウチに帰ると記憶から消し去られていて、仮にその日に覚えていても、一週間もすると完全に忘れてしまうのです。

だから、常にアンテナを張っておくことも大事なのですが、そのアンテナで受信した“おもしろエピソード”は、必ず再度記憶装置に叩き込むように覚えさせねばなりません。

よく、私は、「〇〇さん、そんなにたくさんの面白エピソードが〇〇さんの周りで起こるはずがありません、“盛ってる”でしょう」と言われるのですが、全部本当なんです。
私でなくとも、きっと誰もが持っているはずなのですが、その時、その現場で再記憶させないから覚えていないだけなのです。

というわけで、このブログでも数々の面白い出来事を紹介してきたのですが、ほんとに全部実際に起こったことなのです。

これからも、高嶋さんほどではありませんが、信じられないが、本当に起こった出来事も、このブログに書いていこうと思いますd(^_^o)・・信じてね、ほんとうなんだから。

 

2021/07/06

どこに行ったのか?いやもともと無いんだ。

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新型コロナウイルスのワクチン接種、アメリカでは若者がなかなか接種しないだとか、接種に急ブレーキが掛かったり、インドネシアでは感染が急拡大して医療崩壊のおそれがあるなど、世界での感染状況は日々変化しています。

日本では、自治体や、企業がワクチン接種に向けて急ピッチで準備をしたものの、なんとワクチン接種担当大臣が「ワクチンが足りない」という・・記者会見をしました。
どういうことだろう?!と少しばかり考えてみました。
また、ラジオ等の報道も聞いてみました。

今までの報道や、政府からの発表だと、ファイザーのワクチンは、1億回接種分の調達が出来ているとのことでした。

そして、高齢者3600万人と、医療関係者等500万人の合計4100人分の接種は二回の接種をするとして、8200万回分を接種してもまだ《1800万回分余っている》はずです。

さらにモデルナのワクチンが4000万回接種分を調達したと言っていた。
ファイザーと併せると、合計1億4000万回分調達が出来ていたはずです。

で、現在すでに4747万回の接種が終了したとの発表もありました。
残っているはずのワクチンを“引き算”してみると66%の量がどこかにあることになります。

政府は自治体が滞留させていると言っているが、専用の冷凍庫が無いと保存できないものなのに(-20℃でも2週間しかもたない)、ストックなんかするはずもなく、市民からの要望が強いからきちんと準備して、きちんとワクチンの配送を申請しているはずです。
だって、ズルするよりもきちんとした方が整然と物事が進むことはわかっているのです。

職域接種が報告されていないものがあるのでは、と、政府がまた言い出したが、あんた何千万回分も報告なしにほったらかしにするわけないでしょ、それにそんなにたくさん接種したなんて報道もないのです。

ここで誰がどう考えてみても1億4千万回分の3分の1しか接種が行われていないのです。

・・本当は、発表どおり調達されていないんじゃないの。
半分以下しか調達出来ていないのを“隠蔽”しているのではないのか、と疑わざるをえないです。

ワクチンの会社との契約がどうなっているのか、開示請求を野党がしても契約書内に秘密保持についてうたわれているので開示できないという (・_・;ことにしているらしいですよ。
正確なワクチンの接種回数も公表されておらず、ますますあやしい。

でもって、“オリンピックに突入”するのです。
ワクチンがあるから安全・安心だなんて言っていたのはどこのどいつでしょうか。

「危険で不安」なまま、私たち国民は為す術もありません。
ワクチンも打たせてもらえない。

 

2021/07/05

日本は災害から逃れられない国だから

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この休みに、記録的な大雨になるという予報が出ていて、大きな災害が起こらなければよいが、と思っていたのですが、ご存知のように熱海で大きな災害が発生しました。
映像を見ても信じられない光景で、胸が締め付けられるようでした。

すでに不確定情報ですが、事件現場のさらに山の上の方で、メガソーラー設置のために大きく樹木が伐採され、土がむき出しだった場所があり、その部分からは雨水等が地面に直接吸収され、現地方向に流れていたのかも・・という話も出ています。
開発で土が大量に盛られていたという報道もあります。

地形、樹木など環境を大きく変える開発等がこうした災害を生んできたことは、従来から知られ、言われてきたことです。
今回のケースも絶対に今後に生かさねばならないと思います。

さて、こんなことになり、前々からこのブログでも書いているように、日本は災害から逃れることは出来ない国で、「復興五輪」なんて当初言っていたことはどこかに行ってしまいましたが、福島のあとにも、熊本でも大きな地震があり、その後も豪雨での水害などが後を絶ちませんでした。

国民のため、災害復旧に国は全力をあげた方がいいのではありませんか。
あの土石流の映像を見れば、世界中が「それは大変だ、オリンピックどころではありませんね」と言ってくれます。言わないのはIOCだけでしょう。

 

 

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「コロナに打ち勝った証し」として五輪を行うってのも、どこかに行ってしまいましたね。
「コロナに“打ち勝つ”証し」と、小狡くそぉっと訂正したりもしていましたが、姑息な人間のやるようなことです。

オリンピック開催には、「ワクチンが最終手段だ」と息巻き、自治体に接種券を配れ、会場や医師を準備しろ、企業には職域接種やるぞぉ、急いで準備しろ、と言っておきながら、「あれ?!ワクチンなくなっちゃいました」って、なんのための大臣なんだっ!

この大臣、自分の仕事は世間を騒がせることだと思っているらしいが、いい加減仕事をきちんとやれっ、と言いたい。
町内会長にやらせたって、在庫管理をきちんとして、命令系統もしっかりできると思うが、それ以下だと思いました。

とっとと、オリンピックをやめて、あの地獄絵のような災害地の復旧、また、今までの被災地の復旧に全力でお金を掛けて取り組んで欲しいと思います。
もちろん、オリンピックが無くなって感染拡大のスピードが落ちてくると思われるコロナウイルス対策にも万全に取り組んで欲しい。そのときこそ「安全・安心です」と、やっと言えると思いますよ。

 

2021/07/04

五木寛之さんの「他力」を読みました。

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『他力/五木寛之著(講談社文庫)』を読みました。
1998年に刊行され、2000年に単行本化されたものです。

20年以上も前の本ではありますが、いくつも私の心に響く部分がありましたので、それらを列挙してみたいと思います。

《非常時》
非常時とは、国家的、国際的に重大な危機に面した時、と捉えることができると思いますが、国家や社会の危機だけではなく、自殺、離婚、自己破産、失業、犯罪、汚職など、私たちの“魂の非常時”も非常時であると書かれています。
つまり、今、私たちは外側からも内側からも二重の“非常時”に直面しているのだ、と。
現状のウイルス感染拡大や、今回の豪雨による被害・災害など、常に私たちが直面しているこの“非常時”についての考え方が従来の考え方だけではいけないのではないか、ということが書かれていたのです。

《自分を信じ、自分を愛することからはじめる》
世界では各地で内戦が起こり、地球規模の環境破壊も起きている。世界が末期的症状にあえいでいる。
ひとりひとりの人間が「自分はどう生きるのか」を問われている、とおっしゃっていました。
それに対して「自分を信じ、自分を愛することから始めるしかないのではないか」と。
一生に誇るべきことをなしとげた人は、謙虚に感謝すればよく、もしできなくても恥じることはなく、生きることそのものが大変なことなのだから、それだけでほめられてもいい、ということでした。
どんな人生でも、それなりに一生懸命、必死で生き続けてきたことに違いはない、とおっしゃっています。
私にも心のささえになる言葉でした。

《人生は自分で放り出すほどにはひどくない》
空気も水も、ミカンでさえも陽射しをたっぷり吸収して金色に輝いていたミカンではなくなっていて、自然の中で生きている実感が、若い人には伝わりにくいのではないか、ということも書かれていました。
今の中高生に、「人生は喜びと希望に満ちている」と言っても、たぶん届かない。
むしろ、「人生は自分で放り出すほどにはひどくない」という言い方のほうがましかもしれないと。

《人生をどう制御して減速していくのか》
五木さんが若い頃は、クルマにスピードを求めていたが、今は、ブレーキを踏んだときに、グウッーと後ろから襟首をつかまれるような心地よい快感があって、それからビロードの布の上をすべりながら徐々にスピードを落としていくような感じ、ブレーキングの優れたクルマがいいとおっしゃっています。
ようするに「減速の美学」が大切な時代なのではないかと。
自分の人生をどう制御して減速していくか、という方向に注目すべきだとおっしゃっていて、私も同感しました。今、まさにそういう時期に私自身があるのです。

《民衆は愚かなものなのか》
戦中、戦後のこの国の指導者たちばかりが愚かで、民衆はその被害者である、というふうに言い切るわけにはいかないという考え方でした。
あのころの私たちは(おそらく戦時下のこと)、たしかに主体性がなく、ほとんど自明の状況を判断する知力すら欠けていたと認めざるをえないでしょう、ともおっしゃっていて、これは今現在の状況についても言えるのではないでしょうか。
「国がやるって言ってるんだから、大丈夫でしょう」ではなく、私たちが自ら考えて、危機意識を持って現状を考えることが、国の方向を変えることにつながるのではないでしょうか。
・・だから、微力だけど、ほんとうは書きたくないけど、私も自分の考えたことを、このブログで書いているのです。

 

2021/07/03

いま、やらねばならないことがわからない人

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千葉県八街市で起きた、飲酒運転の男による交通事故。小学生が亡くなり、また重傷を負いました。
報道によると、その現場に首相が行ったそうですが、なんだかイヤな気分になりませんでしたか。
亡くなられたお子さんに対する気持ちは大切だと思いますが、首相のやるべきことは、現場道路の構造見直しや全国の危険地域の洗い出しの指示だけでなく、飲酒の上運転してしまう人間が後を絶たない現状の改善をいかにして行うかの指示をすることではないかと思います。
すっかり支持率の落ちた自分をよく見せようとして行ったんじゃないか、と思ってしまうのは私だけでなく多くの人だったと思います。
今、やることがあるだろう、ということです。

新型コロナウイルス感染により亡くなった人は、今現在で1万4千8百人を超えています。
日々亡くなっているコロナウイルス感染患者のご自宅に行って、その家族に感染拡大を阻止する決意を述べることができるのでしょうか。

「死者は現状よりも間違いなく増えてしまいますし、感染も拡大すると思いますが、私はオリンピックを見事に成功させます。」と、言えるものなら言ってみろ、とこの人に言いたい。

自分で自分のすることが、どういうふうに国民の目に映るのか、どう思われるのか、想像力がつくづく足りないと思います。

報道を聞き、「またこんなことやっているのか」と思い、書きました。

 

2021/07/02

半藤一利氏の「日本史はこんなに面白い」を読みました。

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『日本史はこんなに面白い/半藤一利・編著(文春文庫)』を読みました。
著者、半藤さんは、ジャーナリストで、戦史研究家、そして近現代史にも詳しい方、ということまでは今年お亡くなりになったときの報道等で知りました。

私、半藤さんの著書を今まで読んでおりませんで、今回、対談形式になっているこの本を読んでみようと思ったのです。書店には、半藤さんの本がたくさん並んでいました。

内容は聖徳太子から蝦夷のリーダー「アテルイ」、平家物語、織田信長、芭蕉、昭和天皇、戦後憲法、など多岐に渡り、対談相手も中西進、高橋克彦、安野光雅、井沢元彦、嵐山光三郎、原武史、北康利・・さらに様々な分野の方と“深い”話をされています。

あまりに内容が深部に入り込み、研究家、専門家でなければ知らないようなことが基本にあるので、多くのところで私には“チンプンカンプン”…σ(^_^;)ということになりました。

対談相手が専門家であっても、「ああ、あのとき〇〇はこう言ってましたからね」などと、対応する半藤さん。この人、なんでも知っているのか、それに知識という程度ではなく、研究者としての自身の説も持たれているのです。

どの対談も、初めて知ることばかりでしたが、嵐山光三郎さんとの「芭蕉」についての対談では、門下の弟子たちが、裏切り者あり、斬殺犯あり、獄中俳人ありという一筋縄ではいかない、危険な者ばかりであった、というのも初めて知りました。

芭蕉は、自らの「芭門」を、上記のような者達も含め、うまく扱いプロデュースし、芭蕉の世界を生み出し、さらに後世に継がれていくような形にもしていたことがわかりました。

とにかく、信長にしても、ヒトラーにしても、一般的に理解されているようなものではなく、「そうか、そんなことがあったのか」という事実と、推定される事柄が話され、書かれていて、驚くばかりでした。

ブックオフで手に入れたのですが、「内容充実」な一冊でした。
また、別の半藤さんの本、読んでみたいと思います。

 

2021/07/01

【南先生の玉手箱_0032_生まれて51年 7回シリーズ[7の2] 】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
平成10年の「家庭教育学級・資料 -家庭における進路指導のありかた-(私自身をふりかえって)」という冊子から、「生まれて51年」という文を長編なので、7回に分けてのご紹介。
今回は、7回中の第2回目です。


以下、先生の文章です。

小学生の頃は、みんな表現することや、らくがきが好きであたりまえだと思うのですが、その気分がず~~っと続いてきたのかも知れない。

いつも私はうまく描きたいとか、もっと手習いをしたいと思わなかった。
つまり勝手に自分のスタイルで表現するのが好きだったのか、でもそれは誰でも同じことが言えると思う。
あまり変に習いすぎると自分がなくなってしまう気がする。

今、子どもたちと学校で表現活動にかかわっていると、特に低学年の子どもたちは、みんな芸術家だと思う。
人は誰もが感性の宝庫を自分の心の中に持っている。
でも、残念なことに、歌でも絵でもその表現において人は年と共にかかわりが少なくなっていくように思う。

その気になれば、誰もが芸術家になれます。
このことは、私自身、毎日子どもたちを見ていて自信を持って言うことができます。

特別に学校に行かず、絵の手習いもせず、自分の子どものクレヨンや水彩など、いらなくなったえのぐや筆を使って、画用紙もありあわせの紙で、すばらしい作品を描いている人をたくさん知っています。(この学校に行かなければとか、これを習わなければ基本が身につかないなんて言うことはありません)

表現することの基本は自分にあります。
逆にまちがった勉強や習いものをするとダメになることが多いと思います。

誰でもその気になりさえすれば、その道の一流になれると思います。
二流、三流など比較すべきことではなく、自分の評価が一番正しいのです。
よく、人やものを何かにつけて比較評価する人がいますが、人生人それぞれみんな一流を目標に生きているのです。
人の生き方についてランクつけをすることは全くナンセンスです。

どうでもいいことかと思うが、小学生、低学年と高学年で2回若い女の先生だったからか、妙に好きな感情を覚えたことが思い出される。
自分だけの先生であればいいと思っていたのかも知れない。

その先生のちかくに行くとドキドキしたり、変な子どもだったのか。
3年生の頃には好きな子がいた。高学年ではクラスで姉さんのような大きな子が好きだった。
私はいつも一番のチビで、いつも先頭か一番うしろで、中学になるまで前ならえができなかった。

中学校に入る前、丸坊主になるのがいやだった。
何で丸刈りにならなければいけないのか、いろんな意味で反抗が出て来たのもこの頃だったと思う。

大人のやることに興味があって、何ともうまそうに吸うタバコやお酒を夜中に盗み飲みしてみたスリル。
はじめての酒とタバコの味、不思議にどちらも妙にうまい味だったのを覚えている。

どちらも高校生活ではみつかってしまって、バイクの無免許運転など、いろいろ叱られたことは良く覚えている。
そんな時、いつでも全てが親の責任であることなど、今思えば勉強になったと思う。


以上が先生の文でした。

私にとって、先生は、私の先生だったときの姿しか思い浮かばないのですが、小学生の子どもの頃に担任の女性教師にドキドキしたり、小3で好きな子がいたりと(^_^;)けっこう早熟な子どもの様子がうかがえて面白く読みました。

また、高校生活はけっこう“ヤンチャ”だったこともわかり、少し意外でした。

7回に分けてご紹介している先生の文章。
次回は先生の中学時代のことを中心に活字化していきます。

 

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