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2021/10/04

【ここ二年間に二度死にかけて/過去に会った人、過去にあった出来事について振り返る №58】

20211004_note_001

過去に会った人、あった出来事についての回顧文シリーズ。
おかげさまでというか、この「過去に会った人、あった出来事」についての回顧文は、アクセス数が多く、書いてよかったのかも、とあらためて思っています。

書き始めた一番の要因は、今回のタイトルにもあるとおり、この“二年間に二度死にかけて”仕事をこのまま続けたら“死にかけ”三度目になってしまう、いや“死んでしまうかも”ということで、ここでいったん身体も心も休ませようと思い、家族とも相談して仕事を辞め、そして今までの主に仕事を中心にした人生を振り返ることにしたからです。

もう57回に渡り回顧文を書きました。
これで自分自身の今までについて整理が出来、これからどう生きようか、と考えられるようになりました。

そこで、きっかけとなった「二度死にかけた」時のこと、あらためて自身で再確認しておこうと思います。

一度目は、いったん退職し、再任用で勤め始めた平成31年度(令和元年)でした。
退職時の業務内容と同じ職場への配属だったので、ある程度安心していたのですが、4月の繁忙期から始まった新しい勤務は最初から厳しいものでした。

ものすごい混み具合の窓口なのに、誰も指示を出す者がいない。
うまく回す方法はいくらでもあるのに、“行き当たりばったり”で仕事が進められ、職員が昼食を取れるのは午後4時過ぎだったりする毎日でした。
自分が今まで長として職場でしていたことが出来れば、と思ったのですが、それは所属長がいるのに僭越な行為です。“ヒラ”に戻った今は我慢せねばと、ただ耐えて過していました。

何度か具合が悪くなり、数日間休むことがあったのですが、夏に入って倒れ、朝起きても歩くこともできない。妻と長女に支えられてクルマに乗せてもらい、かかりつけの医者に。

そのとき、庭の草花などが“きらきらと光って見えました”この世の光景とは思えず、極楽浄土のように見えたのをはっきりと覚えています。
そして医者で検査しているうちに先生が救急車を呼び、大きな病院に搬送されました。

到着した病院で、先生からは「死ぬぎりぎりのところだ」と、状態が大変なことになっていたことを聞かされました。
極楽のように見えた庭は、もうあの世の入り口に来ていたからだったのかもしれません。

二度目の入院時のとき。
昨年2月頃。コロナウイルス感染が始まり、私は職場ではマスクをつけましょうと、マスクをしない職員(所属長までつけていなかった)がいる中で、所属長に言ったのですが、「健康な人は感染しない」という何の根拠もない説得で実施に至らず。

ラジオ局のスタジオなどでアクリル板を使って感染防止を図っているのを見聞きし、提案しましたが、「お客様に失礼だ」と、これまた否定されました。

でも、どんどん拡大する感染を見て、カウンターでお客様と向き合い、わずか50~60センチくらいの距離で話をする危険性は見過ごせず、自分でアクリル板を買い、カウンターに何箇所か設置しました。

喜んでくれた職員もいたし、困惑している職員もいましたが、私は間違っていないと確信していました。
それから4ヶ月後、やっと上がアクリル板を設置し、マスクも必ずして、毎日体温を計るところまで来ましたが、もう私はこの職場に“あきらめ”を感じ始め、体力は落ち、ついに年末に倒れ、今年正月から入院。

病室では具合はどんどん悪くなり、「退院はいつ頃できますか?」と聞いても、先生も看護師さんもうつむいて目を合せてくれず「がんばりましょう」と言うだけでした。

ベッドから起き上がることもままならなくなり、何か部屋の中に“死神”が入って来た感覚がありました。
看護師さんにノートとペンを買って来てもらい、家族に言い残すことを書き始めました。
それも今見ると力なく、よれよれの字で読めない感じでした。

私の病棟とは別の部署にいた集中治療室勤務の女性の方が、もうすぐ自分のところにやって来そうな私のデータを見て治療方法に特殊なものがあり、試してみたいと私の病棟にやって来たのが回復のきっかけとなりました。

私に新しい方法を試したいと説明があった後、病棟の看護師全員に治療方法を私の目の前で教え、毎日看護師の指導に来てくれて、その治療方法をずっと続けてくれました。
その人の背後には後光がさしているように見えるくらいでした。

常に明るく、私に話しかけ、「あきらめちゃだめ。絶対に家に帰るよ。」と毎日病室にやって来て、元気づけてくれました。神様みたいな人でした。退院後にもお礼のお手紙を差し上げました。

ノートの内容は、日々どんな治療をしてどういう状態になってきたか・・というものになり、多くの看護師さんにかけていただいた言葉や、お話してくれたことも書き留めました。
私が回復し始めると、看護師さんからは「そのノートはやがて宝物になりますよ」と言われました。
その内容もこのブログに書きたいところですが、妻から、「もう少し経ってからの方がいいよ」と言われ、本棚にしまってあります。

退院し、帰宅してからも歯磨きする間も立っていることが出来ず、家の階段も昇れないような状況でしたが、今や8割方戻ってきました。

二度に渡って助かった命を大切に、日々生きて行こうと思っています。
やれることも、そうしている中で見つかると思います。

というわけで、そんな今、また回顧文についても続けて行こうと考えています。
楽しかったことも、つらかったことも、自身の人生を振り返りながら。

 

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