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2022/07/31

「トンカチからの伝言/椎名誠」を読みました。

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『トンカチからの伝言/椎名誠著(文藝春秋)』を読みました。
2007年刊行となっていますから、ざっと15年前の本です。これまたブックオフにて購入。

この頃は、椎名さんも、そのお仲間も皆元気!
あっちに釣りに行っては、キャンプして、その夜は“酒盛り”(^_^)
また昼にヒマができると砂浜で野球に興じるd(^_^o)・・でもって、その空き地の管理をしている公務員が出て来て「規則を守れ」と追い出される(^_^;)

マイナス40度の地に出かけてアザラシの肉を食ったりもしているし、まあいつもどおりの本です(*^^*)

私が「おっ」と思ったのは、「中島義道さんという哲学者の新刊が出るとすぐに読む」と書かれた部分でした。
でもって、椎名さん「非常に変わった人で、絶対にお目にかかりたくないのだが、大ファンである」というのです。私とまったく同じ…σ(^_^;)

「私の嫌いな10の人びと」というのを中島さんが挙げていて、椎名さんも負けじと10人の嫌いな人を書いていました。
ついでだから、私も「10の嫌いな人びと」っての、考えてみようと思いました。

①「簡単だよ、やってごらん」と、人をそそのかして自分がやりたくないことをやらせるヤツ。

②「オレだったら、“こう”するな」って言って、自分はやらないヤツ。

③『みんなが“いい”“いい”って言っているのに「サザンは“いけ好かない”から嫌いだ」なんてあなたに言う資格はない』って言ったヤツ。・・なんでだよ。

④「宝塚なんて、あんな“学芸会”みたいなもの見てるなんて、気が知れない」って言ったヤツ。
※でも今は、お前みたいな“アホタレ”が気が知れないって言うくらいだから最高にいいものだと保証されたようなもんだ、と思って安心している。

⑤人が懐かしい歌謡曲の話をしているのに「私はクラッシックしか聞かないので」と言って、話をそこで終わりにしてしまう人・・けっこう多い。

⑥人の話の“腰を折る”人、人の話を“横取り”する人。

⑦バンドで、曲をコピーしようとすると「譜面はないの?」って聞くヤツ。・・そんなもん、ねぇよっ!

⑧「ふれあい」とか「寄り添う」って言葉を使いたがるオヤジ。・・気持ち悪い。

⑨ツイッター、インスタグラム、フェイスブックなど、いち早く始めるが、どれもこれも最初の一回か二回目で更新は途絶え、フェイスブックなどのタイムラインには、“誕生日おめでとう”のコメントがいっぱい並んでいるのに、なんの返信もせず、早や、5年経過しているヤツ。

⑩あんな役職に就いていたのに、あんなに“エラそう”にしていたのに、その立場を降り、SNSなどを始めると、美術館に行っても、舞台を見ても、本を読んでも、美味しいものを食べても、「なかなかいい」とか「よかった」くらいしかコメントを書けないヤツ。
今までみんな人にやらせたり、書かせたりしていたからそんなことになっちゃったんだね。
・・でも、写真だけはいっぱい載せるんだよ(^_^;)ヘタな写真・・。

すいません、書き始めたら私に何か“降りてきた”みたいです…σ(^_^;)
きょうはこのへんでやめときます。

 

2022/07/30

【The Beatles 研究室・復刻版】Please Please Me[A-4]Chains

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2004年から2008年にかけて作成したホームページ「The Beatles 研究室」・・2009年リマスター発売後の一部追記も含めてのブログにての復刻版です。ほぼ当時のまま、そして復刻後追記も付しております。
15年以上前の文なので細部の表現・事実についてはお見逃しください。
今回は、デビュー・アルバム「Please Please Me」から、「チェインズ」を取り上げます。
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ジョージがソロでボーカルを取る、最初の曲となります。
このアルバムで、前の三曲では、ポールとジョンがソロでもデュエットでも遺憾なく実力を発揮し、ジョージにとってはちょっとやりにくかったかもしれません。

でも、生真面目過ぎるほどの丁寧な歌いっぷりに逆に好印象を当時のファンは感じたかも。
ジョンが真ん中、ポールが高音、ジョージが低音を歌うコーラスは、バッチリ決まってます。やっぱりビートルズのコーラスは天下一品だと感じさせてくれます。

この曲は、ビートルズの作曲ではなくて、あのキャロル・キングがまだソング・ライターのみで、歌っていなかった時代の作だそうです。
アメリカでは、黒人女性グループのクッキーズがレコーディングし、17位までいったとのこと。
ビートルズは、当時ガール・グループの曲を取り上げていますが、その中の一曲です。

あまり注目される曲ではありませんが、ジョージの初々しさを感じ、ビートルズ初期の脈動を感じたいときには、どうぞこの曲をご賞味ください。


〈追記〉2022/07/30

手元にあるいくつかの「チェインズ」の音源を聞き直してみました。

先ずは、米国キャピトル盤「アーリー・ビートルズ」に入っているステレオ版。
ジョージのボーカルがジョンみたいに聞こえます。また、かなり“しわがれて”います。
何度かテイクの録り直しがあったせいかと思われます。
左右の分離は、かなり“はっきり”しています。
ギターの音も、とてもクリア。バックのジョンとポールのコーラスもよく聞こえます。

続いて、同じ米国キャピトル盤「アーリー・ビートルズ」のモノラル版。
英国オリジナル・モノラル盤よりもワイルドで、全体に音が歪んでいる感じがします(ギターもボーカルも)。
ジョージのボーカルは歪んだことによって、逆にリアル感が出ているように思います。

次は、アルバム「ライブ・アット・BBC」を聞いてみます。
リズム・ギターが軽い感じでリラックスして弾かれています。ジョンのリズム・ギターって、軽く弾いてもけっこうしっかりとしたカッティングにいつもなっているのです。
ジョージのボーカルはオリジナル本編と異なり、つぶれていなくてやさしい声。
リンゴのドラムは、割と一生懸命に叩かれていて、ハードヒットしている感じです。

そして、いよいよ2009年のステレオ・リマスター盤。
米国盤よりも、全体に落ち着いたミックスです。
アメリカほどギターの音が強調されていません。
ジョンとポールのコーラスも後ろで自然に聞こえています。

最後は、2009年モノラル・リマスター盤。
ジョージのボーカルを明らかに中心にしてミックスされています。
後ろの二人のコーラスは“かたまり”になって聞こえてきます。
リンゴのドラムも歯切れ良く、とてもいい音。
リズム・ギターも曲をよく引っ張っているように聞こえました。

 

2022/07/29

「軽井沢ミカド珈琲物語」を読みました。

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『軽井沢ミカド珈琲物語 -エピソードはアロマがいっぱい-/井上紀明著(文芸社)』という本を読みました。
ブックオフで見つけたのですが、2003年第一刷発行です。

あの軽井沢の旧道沿いにある「ミカド珈琲」の歴史を、当時のお店の様子や、訪れてくる様々な著名人の話、常連さんや、お店と関わりのあった卸しの店舗や関係者の話、どういうふうに珈琲を淹れたか、お店で働いていた人達など、話題に事欠かない「ミカド珈琲」の歴史が実に明快に簡潔に書かれていました。

ミカド珈琲・・記憶では行ったことがあると思われるのですが、何せ二十~三十代の頃だったので、外から見た雰囲気くらいしか覚えていないのです。
でも、この本を読んでみると、夏は「モカソフト」が売れ、たいへんな賑わいだったようです。たしかに、「ここは原宿か」というような混み具合の時もあったように思います。

以前は、下水道もなく、トイレが溢れたなんてこともあったようだし、氷は製氷機もなく、ほんものの氷屋さんが日に何度も運び入れていた、なんてエピソードも書かれていました。

また、当時は冬季は全ての機器の“水抜き”をしてから閉店し、翌年春以降に開店すると、あちこち店が傷んでいて、毎度修理していた、などという話も書かれていて、秋が近づいた頃の軽井沢の寂しいような様子も思い出されました。

ジョン・レノンをはじめとした有名人が訪れたお話もたくさん書かれていましたが、これといったエピソードも“オチ”もなく、ただやって来た・・(^^;)みたいな話ばかりで、ちょっと拍子抜けすることもありました。

いわゆる“旧軽”の、あの雰囲気を読んでいるだけで、いろいろと思い出させてもらいました。
あのときの温度や空気感なども、実感を伴って風のように感じました。
懐かしいなあ・・。

軽井沢に行かなくなってしまったのは、「天国にいちばん近い島」の著作で有名な森村桂さんの「アリスの丘のティールーム」を何度も夫婦で訪ねたのですが、桂さんが当時報道にあったような形で亡くなられてから足が遠のいてしまったからです。

軽井沢に行ったら必ず行っていたのですが・・ショックは大きかった。

アリスの丘の・・でのお話は、このブログに以前書いたので、ここには書きませんが、そろそろまた軽井沢に行ってみてもいいのかな、と、この古い本を読んで、また思ったところです。

軽井沢の雰囲気がよく伝わってくる本でした。

 

2022/07/28

太田和彦さんの「居酒屋と県民性」を読みました。

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『居酒屋と県民性 -47都道府県ごとの風土・歴史・文化-/太田和彦著(朝日文庫)』という本を読みました。

太田さんといえば、全国の居酒屋をめぐり、さまざまな特徴ある居酒屋やバーを、本やテレビ番組などで紹介している“居酒屋の大家”?!ですd(^_^o)

今回の本は、47ある都道府県別に、それぞれの風土・歴史・文化を紹介するとともに、「これは」という居酒屋も紹介してくれるという企画です。
港町、商業の町、城下町、門前町・・などなど、その土地の風景が見えてくるような“書きぶり”に、わくわくしながら楽しみつつ読ませていただきました。

私の住んでいる千葉県についても、もちろん書かれているわけで、ドキドキしつつそのページを見てみると・・。

外房の太平洋、内房が東京湾、そして南端の館山に至る海岸線に小さな漁港が転々と連なる・・ということで、酒の肴には事欠かないというところまでは良いのですが、千葉の人については、「マナーも、礼儀も、公徳心も、政治家の道義もなっていなく、愛郷心もない」・・(T_T)・・と、にべもないのでした。

そうかぁ、ある程度当たっていると言えなくもない(^_^;)

でもね、お隣の茨城県のページをのぞいてみたら・・

室町末期成立の日本各地の風俗・人の性向を記した『人国記』から紐解き、

「ただ盗賊多くして、夜討ち、押し込み、辻斬り等をして、その悪事顕はれ、罪科の行なわるるといへども、恥辱とも曾て思はず、微塵も非義、非礼ということを知らざるやうの風儀にて、ただ肝胆の間、逞しく生まれ付きてかくの如くと見えたり」

・・と、そこまで書くかという感じでした( ̄O ̄;)

“水戸っぽ”は、理屈っぽい、骨っぽい、怒りっぽい、ということらしいのですが、はてさてどうなんでしょうか。

こんな感じで全国の県民性について書かれているのですが、肝心なのは「お酒」と「居酒屋」です。

横須賀の「銀次」、鎌倉の「企久太」、旭川の「独酌三四郎」、東京根岸の「鍵屋」、長崎の「安楽子」、大分の「こつこつ庵」、倉敷の「鬼の厨 しんすけ」、などなど、一度は行ってみたいと思わせる居酒屋がたくさん紹介されていました。

ここで紹介されていた松江の「やまいち」には行ったことがあるのですが、そのときはまだ太田さんのことも知らず、ただ宍道湖沿いの味のある店と思い入ったのです。
太田さんが紹介されるだけのことはある、と、今にして思います。

今まで食べたことのない新鮮な“しめ鯖”や、トビウオの刺身など、絶品でした。

一冊まるごと日本中の風景が目の前に浮かび、そしてその土地独特の肴のある居酒屋がたくさん紹介されているこの本、“呑兵衛”で“旅行好き”の方は手元にひとつ欲しいものです。

 

2022/07/27

【はっPのアナログ探訪_0159: IN THE DARK / TOOTS AND THE MAYTALS ( LP )】

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私がレゲエを少し聞き始めた学生時代に購入したLP盤です。
トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズは、ボブ・マーリーや、ジミー・クリフと並んで“いいな”と当時感じたレゲエ・バンドでした。

アルバム・タイトルと同名の「イン・ザ・ダーク」はメロディもよく、お気に入りで何度も聞いていました。

ボブ・マーリーなどの乾いた感じのリズムと少し異なり、アメリカの黒人音楽のソウルフルな雰囲気も感じさせてくれたメイタルズ、他の曲もいい曲が多いし、演奏もジャマイカのミュージシャンらしく、自らの肉体と同化しているような“心身一体感”を感じさせてくれます。

当時、私はバンドでドラムを叩いていたのですが、レゲエも叩いてみたくなり、散々真似をしたのですが、とうとうこの“感じ”は出ずじまいでした。
簡単そうに見えて、同じ様なグルーブ感は出ない・・。オカズ(フィル・イン)もジャストなタイミングで叩くことが出来ない…σ(^_^;)

 

 

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このアルバムがジャマイカでラジオから流れてきたら最高でしょうね。
大げさなバックの演奏もなく、バンドの音だけで出来ていて、心の底からリラックスして聞くことができるいいアルバムです。

現在のレゲエ・ミュージックがどういうことになっているのか、最近は聞いていないのでわかりませんが、今聞いても、このリズムはカッコイイし、メロディもいいし安心して聞けます。

B面に入ると、「カントリー・ロード」のレゲエ版が流れてきたりして、誰が聞いても楽しめます。
バラエティーに富んでいる感じ。
次々と曲調に変化を与えていて、さあ次の曲はどんなタイプのものなのか、わくわくしながら聞くことができて、最初から最後まで一本調子な現在の音楽とはひと味違います。

久しぶりに聞いてみて、その時代のよさを感じることが出来ました。

 

2022/07/26

「宝塚を食べる!/荷宮和子」を読みました。

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『宝塚を食べる!/荷宮和子著(青弓社)』を読みました。
ブックオフで200円で手に入れたものですが、読み始めて過去に一度読んだことがある・・と思い出しました。
最近そういうことが多々ありますが、なにせ10年以上前に読んだもので、店頭では気づかなかったのです。

なので、再度読んだという形になりました。

2010年に刊行された本で、当時私が読んだのは2011年でした。
当時の私は宝塚観劇を復活させた頃で、まだまだどの組に誰がいるのか、どんな特徴があるのか、二番手・三番手として誰が劇団やファンから期待されているのか、など、ほとんど知識がない状態でした。

この本の大部分が彩吹真央(あやぶき・まお)さん(※当時雪組在籍)のことが、どんなに好きか、彩吹さんが過去に出演した公演で“ここ”に惹かれたということが事細かに書かれていて、宝塚のディープなファンが、ここまで深みに“ハマっている”のだということが実によくわかるのでした。

結局、彩吹さんは雪組の堂々の二番手であったにもかかわらず、トップ・スターにはならなかったということがこの著者にとって、彩吹ファンにとって、底なしの大問題であったわけで、そこのところを書き尽くしている感がありました。

私のこのブログでは、宝塚独特の「愛称」は、ほとんど使わず、使っても必ず括弧書きで芸名を書くようにして、誰が見てもわかるようにしているのですが、この本の文中では、できるだけ「愛称」を使うことをモットーにしている旨が書かれていました。
だから、当時宝塚観劇復帰したばかりの私にとって、どれが誰だか、何がなんだかわからない部分がいっぱいあって、“お手上げ”状態でした。

そのくらいのハードルで踏み込んで来られないヤツは、語る資格なぞありゃあせんっ!という感じです。まさに門前払い。

11年前に読んだときの感想を振り返ってみたのですが、タイトルの「宝塚を食べる」に対して「食べきれませんでした」と降参していました…σ(^_^;)

今にして思えばということで書かせてもらうと、彩吹さんを2年間くらいトップにしてあげても良かったんじゃないかと思います。演技も歌唱も、とても良かったし、にじみ出る人柄も好感が持てる人格者だったんじゃないかと思います。

結局、当時、音月桂(おとづき・けい)さんが水夏希(みず・なつき)さんのあとを受けてトップになったのですが、最初は相手娘役も定まらず、作品にも恵まれず、前途多難な船出でした。
二番手経験もわずかだった音月さんに2年間の経験を積ませてからトップにすれば、音月さんにとっても良かったんじゃないかと思うんですけど・・ねぇ。

そこまで書くか・・という“書きぶり”に当時“おののいた”のですが、今回も同様でした。
さて、荷宮さんは現在も宝塚について文を書かれているのか定かではありませんが、現状の宝塚歌劇をご覧になって、どのような感想を抱かれているのか、聞いてみたくなりました。
あとで、近年に出版された書籍があるのかどうか調べてみたいと思います。

 

2022/07/25

「もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら/工藤美代子」を読みました。

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『もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら/工藤美代子著(メディアファクトリー)』という本を読みました。
ノンフィクション作家である工藤美代子さんが書かれた、十年以上前の本です。タイトルからしていきなりセンセーショナル!

工藤さんご本人は霊感がある、という意識はあまりないようですが、ここに書かれていることは冒頭でご本人が説明していて、すべて事実であり、脚色はいっさいなされていないとのこと。
だから、ここでもう少し話を“盛れ”ば、ストーリー展開的には面白い・・ということもされていないのです。

でも、内容は“もの凄い”ことが書かれていました。
さらに、写真も添えられているのですが、文中で霊として現われたその人の生前の写真や、霊が出現したと書かれていた現場の写真、文中に出て来た物語の中心にあった品物の写真なども掲載されていて、実に“生々しい”!

一番凄い話は、著者が川端康成氏が亡くなられたあと、当時ご健在だった奥さまを訪ねて自宅に伺ったときの話でした。
川端宅をあの三島由紀夫が(もちろん割腹自殺のあと)訪ねてきた話を奥さまから聞いたのですが、あまりにも凄まじい姿だった三島氏の姿が“聞き書き”されていて、この本の最大のメインの部分なので、ぜひとも実際に読んでいただきたい。

その他にも、著者は明日、あるいは数日後に亡くなる人を見るとわかってしまう・・という能力があり、その描写を読んでいると、実は私もそのような能力があるのですが、私とまったく同じような形で見えていることに驚きました。

また、日中でも、現実世界の人通りや、建物の中などで、この世の人ではない人が歩いていたり、いつも同じ場所に同じ時間にこの世のものでない人が現われたりする現象について書かれていました。

これについても、私は今までに何度も経験しています。

身内の人などで亡くなった人が庭を歩いていたり、何かこちらに心配事があるときなど、ふっと現われて何ごとかささやいたり、心配そうな顔でこちらを見つめている、物が動いたり鳴ったりする・・などということも書かれていました。

これも度々経験していたことでした。

著者の工藤さんと共通しているな、と感じたのは、当人はいたって普通の人間だと思っていて、特に能力など有るとは思っておらず、日々淡々と過しているということです。

というわけで、特に霊能力など持っていないという感覚で書かれているだけに、よりリアルに伝わってくる霊との出会いが克明に書かれている本。これは凄い本ですよ、興味のある方は絶対に読んだ方がいいと思います。

 

2022/07/24

「明るい話は深く、重い話は軽く/永六輔」を読みました。

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『明るい話は深く、重い話は軽く/永六輔著(智恵の森文庫 光文社)』という本を読みました。

2003年発行となっていますので、約二十年前のものです。
日本中を旅したり、いろいろな人と出会って得た世の中を和ませる秘訣だとか、永さんの話の集大成みたいな本でした。

おもしろかったですよ(*^^*)、私がちょっと感じるところがあった部分を少しご紹介します。

「パソコンを入れた友達に手紙を書いても、返事をくれなくなりました」という葉書をもらい、“寂しい”と感じる永さん・・。
この寂しさがIT情緒的反対派を中高年に増殖させている、と書かれています。

自分のたちの生活に電話が侵入してきたときは、どうだったのか?電話反対派っていたのか?!などとも書かれていますが、電話と現代のITって、文明としては似ているようで、そうでもないような気がします。

私は、ブログ、ツイッター、インスタグラム、Facebook と、いろいろやっているようでいて、手紙もよく書きます。「返事は期待せずに」ですd( ̄  ̄)
返事を書いてくれる人なんて、まあ、いません(^^;)でも、それでもいいんですよ。
書きたくて書いているんだし、この“紙に直筆”の威力がわかる人にはわかるわけで、伝わっているはずです。

次の話題

「ある年の紅白歌合戦をラジオで聴きながら、心を打つ歌詞が流れてきたらメモしようと、紙と鉛筆を用意しておきました。最後までとうとうメモは白紙。言葉がいかに無力になってしまったか、それを哀しく感じました。」

という一文がありました。
これにも、私は同感しました。
歌詞が流れたら・・って言っても、いまや何を歌っているのか聞き取ることさえできません。
なんとか日本語に聞こえないように、英語みたいに聞こえるように発音しているからです。
・・みっともない、格好悪い、の極致です。

それにどうせ聞き取れたって、自分の周囲、半径2メートルのことだけ自分勝手に歌っているだけで、自分さえよければ、という歌詞ばかりです。
聞くに値せず・・。

最後にもうひとつ

「Eメールや携帯メールを使っているから、ちゃんと言葉で会話している、だなんて思っていませんか。あのメールは言葉ではありません。記号の交換。言葉には表情や身振りがあって、意味を補充している。手紙にも形式や、文字の巧拙が出ているから、表情として伝わる。携帯電話はもはや、電話でもなければ、メールでもない。無機質な記号の発信機。」

とありました。いやもう、そのとおりだと思います。

さらに言葉の記号化、符丁化に拍車をかけているのが、略語や省略の横行だともおっしゃっています。

「メアド」だとか「コスパ」だとか、独特の言い方を発明するのは、昔から特殊な仲間社会のものでした。
つまり“ヤクザ”や“芸能人”などの堅気ではないところで盛んでした。
そこだけしか通用しない言葉を創って自分たちのアイデンティティを確認し合うわけですが、そんなもの真似して、これまたみっともない話です。

「やばい」も、あちらの世界の方々の賭博用語ですが、それを知っての“狼藉”かと最初は驚いたのも、今は昔。

いろいろ感じるところが満載の本でした。

 

2022/07/23

阿川佐和子さんの「いい女、ふだんブッ散らかしており」を読みました。

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『いい女、ふだんブッ散らかしており/阿川佐和子著(中公文庫)』を読みました。

「婦人公論」に、2016年から2018年の間「見上げれば三日月」のタイトルで連載されたエッセイから選んでの収録となっています。

あいかわらず、阿川さんのエッセイは読みやすく、面白いd(^_^o)

さまざまな失敗談や、友達との愉快な話、仕事上でのエピソードなど、楽しく読ませてもらいました。

ちょっと私が気になったところなど抜き出してみます。

駐車場の入り口では「カードをお取りください」とか、トイレに入れば自動的にフタが開き、水も自動で流れ、さらにフタが今度は自動で閉まる。

クルマの運転でもナビが丁寧に教えてくれて、道順なんか覚えている人はいない。

電話番号なんて記憶する必要もなくなった。

余計な労力を使わなくなったとよろこんでいていいのか、人間はどんどんバカになっていくんじゃないか・・とおっしゃっていて、私も同感d( ̄  ̄)

危険を察知する能力というか、予知能力というか、本能的な第六感的なものは、どんどん失せていくんじゃないの、という結論なんですけどね。

私もそんな状態にどっぷりとつかり、完全に“マヒ”状態です。
クルマで帰宅し、降りて玄関のドアにクルマのキーを向けて、「開く」ボタンを押していたことがありました…σ(^_^;)

また、阿川さんは「床族」と書かれていますが、資料やらなんやら、みんな床に並べてしまうんだそうです。それぞれの資料などを区分けして床に並べるので、足の踏み場も無く、秘書さんからは“あきれられ”ているそう。

ここに出てくる別の「族」としては、「掛け族」といって、帰宅すると着ているものをみな椅子の背もたれに掛けてしまい、背もたれは何着も重なって上着などが重なっていく・・。そして下の方に入ってしまった服は、なかなか着ることもなく、虫に食われてしまう(^_^;)・・これは私だ・・。

「積み重ね族」っていうのもあって、これはどんなものでも区分けもせずにどんどん積み上げていくタイプの人。これも仕事場の机がいつもこんな状態になっていたなぁ(^^;)と、今になって反省いたしました。

ま、そんなこんなで、上記のような話がいっぱい書かれていて、楽しく読んじゃいました。

以上です。

 

2022/07/22

【南先生の玉手箱_0046_はずれた軌道】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
今回も日付等、時期が不明の資料ですが、学校の門扉が閉じられるようになった話なので、関西で事件があり、学校への侵入者に対して警戒が全国的に始まった頃と思われます。


以下、先生の文章です。

《はずれた軌道》

学校や公的機関で門扉が閉じられるようになってから、それがあたりまえのような風景にも見えるけれども、地域から学校の様子が見えにくく、何か風とおしが悪くなったように思う。

ぶらり校庭に入ったり、あそびに立ち寄るチャンスも少なくなったようだ。

学校の敷居が高く、壁が厚くなっているようだが、中に暮らす人たちには、その変化は見えないようだ。
どこかの誰か、不審者と言うものが増殖されている中で、地域にある公的機関との溝が深くなるばかりのように思うのは、私の勘ちがいだろうか。

地域に大人社会がもっとかかわる方向で共存していく中で、不審者と言う存在も少なくなっていくのかと思う。
これでいいんだ、しっかりと子どもたちを守っていこうとしている大人たちの言動の数々が実はマイナスの教育のように感じることが多い。
もっとお互いが信用をする、むこう側、相手側の気持ちになってみる、そんなあたりまえの人間関係をつくり直す必要性を強く感じるこの頃。

先日のこと、こんな話を耳にした。

「地域の行事に学校のテントひと張りと校舎の一部を借用の願いをしたところ、大切に使用しているもので、汚されたり、破損したりすると困るのでとの話しだったので、他にもお願いがあったけれども、それから何も話さないと。

またつい先日、下校中の近所の児童に声をかけたら偶然先に歩いていた先生が、「今、学校では不審者対策をしているので声をかけないでくださいと、一瞬何か信じられないものを感じた」とのこと。それこそ大変な状況があるんですね。

そんな体験をした人が、何かこちら側が無理なお願いや失礼なことをしているのでしょうかと・・。そんなに大変なことになっているのか。今にはじまったことでもないのか、みなさんはどう思いますか。


以上が先生の文でした。

私が以前、教育関係の仕事をしていたときに、市内には校庭と隣の公園の境目をわざと曖昧にして、地域の人や小さな子どもさんと、学校の生徒、先生がクロスするような環境を敢えてつくっていた小学校がありました。

そのとき、それはうまく機能していたように思いましたが、きっとそこも事件のあとには厳しく境界が定められ、他の学校と同じような対応をさぜるをえなくなったかもしれません。確認はしていないのですが。

世の中、コミュニケーションだ、ふれあいだ、きずなだ、SNSだ、と、どんどん関係性を深めることが出来ている・・というような風潮がありますが、その中身はまったく掛け声とは逆で、人との関係性を拒み、個々が、より孤独に追い込まれるようなことになっていると思われます。

どこかで、なにかに気づかねばならないところに来ているのだと思います。

 

2022/07/21

「老いを愛づる -生命誌からのメッセージ-/中村桂子」という本を読みました。

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『老いを愛づる -生命誌からのメッセージ-/中村桂子著(中公新書ラクレ)』という本を読みました。
著者の中村桂子さんは、理学博士。国立予防衛生研究所を経て、日本における「生命科学」創出に関わってきた方だそうです。現在はJT生命誌研究館名誉館長。

この本を読むきっかけとなったのは、たまたま聞いていたラジオに中村さんが出演されていて、あまりにもそのお話が素晴らしかったからでした。

中村さんは現在86歳。とてもお元気で明るく、優しく、そして人というものを生命の起源から考えていくのですが、他の動物、植物などいろいろな生き物と同様に慈しみ、人というものの考え方が変わっていく自分をすぐに感じて驚いたのです。

38億年前に生命の起源と呼べるような、細胞というかバクテリアのようなものができて、そのときは「死」というものがなく、分裂して同じものが拡大していって生き続ける、というようなことであったが、やがて「雄」と「雌」というものが出来たときに、生き続けるということが子へ、その子へ、そのまた子へと続いていくものになったというわけです。

「生」と「死」が対語ではなく、「性」と「死」が対語になっている、というお話には、ハッとしました。

人間で言えば、男と女の間に生まれる子は分裂とは異なり、すべてが唯一の存在であり、やがて死が訪れ、またその子が唯一の存在として人類が生き続ける・・だから人それぞれが大事なんだ、というお話に目から鱗が落ちるようでした。

「死」というものが、どういうものか認識も出来たし、老いるということが人間が時を紡いでいく連綿とした流れの中にあるということも理解出来ました。

だから、人間一人一人のことを「労働力」と単純に認識したり、社会の「機能」とだけ認識したりしている現在に疑問を投げかけることになるのでした。

みんなちがっていて、みんな一人一人が個性を持ち、その時代を生きている・・そんなことを考えていくだけで、ものの考え方が変わっていくんじゃないかと思いました。

・・そう考えれば戦争だってなくなるはずなんですけどね。

機能的に優れた人間にしようとして、効率的に良い人間になろうとして、人に先んじて無理やり勉強させたり、競争させたりするというのが今の世の中ですが、極端に言うと、一番効率がいいのは「生まれてすぐに死ぬこと」が一番“効率がいい”ということになるのですよ、と中村さんはおっしゃっています。

自分が今生きている時代は選べないが、でも、自分のたとえば10歳、50歳など、その時々の年齢を生きて行くことで紡いでいけばいいというのです。
なんとか人を出し抜いて先んじよう、などという生き方をしているのが今の人達の多くだというのです。

読めば読むほど「腑に落ちる」、そんな本でした。

 

2022/07/20

「島耕作の名言集」という本を読みました。

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『島耕作の名言集/森山晋平(文)  弘兼憲司・モーニング編集部(監修) (誠文堂新光社)』という本を読みました。

この本は、漫画「課長(部長・社長・・)島耕作」の様々なシーンの中から、これはと思われる「名言」を抜き出し、その場面のコミック掲載部分についても併せて載せているものです。

私も時々このコミックについては読むことがありました。
会社員として生きて行く一人の男の物語ですが、あらためてこの本のように「セリフ」を抜き出してみると、いろいろ感じることがありました。


「いろんな苦情を聞いても 決して否定的にはとらえないようにしようと思う」

・・あの人はわがままだ、などと事前に情報を聞かされていると、当人に会うとどうしても悪い印象を持って接してしまうが、でも実際に会ってみるとそうでもないことも多く、事前情報は少し過剰に入ってくるのでは、ということでした。
ようするに、悪いうわさは大げさに広がり、人から聞くよりも実際に見ることが大切ってことでしょうか。


「もともと現実は理屈どおりには運ばないものだ 理不尽でもそれが現実なら受け入れるべきだろう」

・・長い間、身を粉にして働いてきても、努力が正しく評価されないことに人は理不尽さを感じます。私もそうでした。
でも、ここにも書いてありましたが、実際には仕事社会では、努力が正しく評価されることの方が、むしろ少ないと思います。
担当者の好き嫌い、タイミングなどによって結果は大きく変わってしまいます。それが現実なんですよね。
それを端的に表現したセリフだったと思います。


「生涯一人の人間しか好きにならないという奴がいたら それはよほど鈍感な人間か あるいはウソつきだ」

・・課長・島耕作には、様々な女性が現われ、主人公と深い関係になったりすることも多くありました。この男は・・と思うこともありましたが、でも、現実はこんなふうに女性に溺れることもありうるんだと、冷静にながめてしまうこともありました。
このセリフは、案外真実を突いていると思います。

以上、本文中で気になったところを少し抜き出して書いてみました。
文と漫画の同居するつくりになっているこの本、あっという間に読めました。

 

2022/07/19

三本和彦さんが亡くなられた。

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自動車評論家というか、自動車業界全体に対するジャーナリストという印象の三本和彦さんが亡くなられたと聞きました。

三本さんと言えば、TVK(神奈川テレビ)の「新車情報」という番組を思い出します。

私が若い頃、それまで全く興味のなかったクルマに興味を持ち始めたのも、この番組の三本さんの“辛口”批評を見聞きしてからでした。

“歯に衣着せぬ”とは、この番組の三本さんのことを言うんじゃないか(^_^)というくらいの遠慮会釈のないクルマに対する評価は、他の“メーカーの提灯持ち”みたいな一連の番組とは一線を画すものでした。

各メーカーの開発担当者も、この番組に出るときには気合いが入っていて、三本さんとは丁々発止のやり取りがあり、緊張感もありました。
また、時には三本さんからの叱咤やお褒めの言葉に互いに笑顔になったりという場面もあり、今はもう無い“きちんとした”番組でした。

私が今思い出せる番組内での三本さんの言葉は以下のとおりです。

◎「デザインは機能のパッケージングである」

・・・機能もないのにデザイン優先で作られたクルマには厳しかった。
ボディの後輪部にブレーキへのエア・ダクトみたいなものがフェラーリみたいにくっつけられた国産車、実は“ただの飾り”だったりすると三本さんは怒りました。

80年代に流行った車のリアトランク・リッドに「ガーニッシュ」なんていって“真っ赤なプレート状のもの”が貼付けられていると、「マグロの切り身みたいなもの付けて、これのどこがいいんですか?!」っとやってくれた時には「そのとおりっ!」と喝采しました。

「デザインのためなら、バンパーをガラスで作って美しくしたい」と言った大馬鹿者の開発担当を一喝したこともありました。なんのためのバンパーだと。

◎「ラム圧(走行風圧)で車内の換気が出来ないクルマが多いのはいかん」

・・・三本さんが試乗時にこう言うと、三菱のシグマ・ハードトップの開発主査の方が、「三本さんは、まったく無駄なことをしておられる。ファンを回せばいいのだ」と返答。「風圧で換気できなくて、それでもクルマか」とやり合っていたのも思い出します。

◎「馬力は麻薬だが、安全のための貯金だと思え」

・・・試乗時に「馬力はあればあるほど良く感じ、まるで麻薬だ。でも、この馬力を安全のための貯金だと思えば、実に余裕ある安全運転ができる」・・とおっしゃっていたのも思い出します。

まだまだ思い出すことがありますが、いずれも1980年代のことでした。

三本さんの上記番組や、著書も参考に私も楽しくクルマに乗ってきました。

「クルマのドアを閉めるときは、閉まる10センチ前でいったん止め、それから静かに閉めるのが大人のマナーだ」というお言葉も覚えています。そのとおりに今もしていますよ、三本さん。今まで厳しく、楽しい評論、ありがとうございました。

 

2022/07/18

「-寿司屋のかみさんが教える- おいしいもの、まずいもの、どうでもいいもの/佐川芳枝」を読みました。

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『-寿司屋のかみさんが教える- おいしいもの、まずいもの、どうでもいいもの/佐川芳枝著(幻冬舎文庫)』という本を読みました。
これもまたブックオフにて格安購入!

本のタイトルどおり、この本を書いたのは、寿司屋のおかみさんです。
私、不勉強でこの方を存知上げておりませんでしたが、デビュー作「寿司屋のかみさんうちあけ話」ほか著書多数、文学賞も受賞もされているようです。

読み始めて、最初から実に面白いっ!
寿司屋の・・となっていますから、登場する食べ物はお寿司屋さんで出てくるネタが多いのですが、その描写だけでも読んでいて“美味しい”d(^_^o)

下ごしらえから、つくっていく段階、お客様の反応など、実に見事な表現で書かれていて、はっきり言ってこれ以上にうまく食べ物について書かれた本を見たことはありません。断言しちゃうd( ̄  ̄)

著者がだんなさんとやっている東中野の「名登利寿司」を訪ねてくるお客さん、そして変わった注文や、人から聞いてきて試作したもの、お客さんの人生や生活などを絡めたエピソードなど、話題に事欠かず、しかも食べ物だけでなく、文章表現がさっきも書いたけど、今までに見たことがないくらい巧みで“心地よい”筆致で書かれているのです。

ちょっとイヤなお客さまや、失敗した話題など、心にチクッときたり、グサッときたりする話題についても、“棘が無く”、まるでカウンターでお寿司を食べているかのような気持ちで次から次へと出てくるお話を楽しむことが出来ました。

けっこうショックを受けるくらい素晴らしい文章で、どこをどう書いたらこんなに心地よい文になるのか、何度読み返してみても、話の面白さに引き込まれてしまって、解析できなくなってしまうのです。
それほど文が上手く、気持ちいいのです。

実は、昨日ブックオフで、またこの方の著書を見つけたので買ってきました。
また、それを読んだときにはこのブログで感想をご報告します。

とにかく、素直で、たおやかで、みずみずしい文章が堪能できた本でした。

2022/07/17

【復刻版】Modern Jazz喫茶『 頑 固 堂 』⇒《Comin' On Home / 1971》 Richard Groove Holmes

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十数年前に作っていたホームページ“Modern Jazz喫茶『 頑 固 堂 』”のブログ版復刻です。
取り上げているのは、リチャード・グルーブ・ホルムズのアルバム「カミン・オン・ホーム」です。


Richard Groove Holmes/org
Weldon Irvine/el-p
Gerald Hubbard/g
Jerry Jemmott/el-b
Ray Armando/conga
Darryh Washington/ds

①Groovin' For Mr.G
②Theme From Love Story
③Mr. Lean
④Down Home Funk
⑤Don't Mess With Me
⑥Wave
⑦This Here

ジャズ・オルガンというと、ジミー・スミスが有名ですが、私は、このリチャード・グルーブ・ホルムズがお気に入りです。
ハモンド・オルガンの音色がウォームというよりは、むしろ高音を聞かせた感じで、ピキピキ・カピカピいってるのがたまらなく良いのです。

ベースもウッド・ベースではなくて、エレクトリック・ベースで、ファンキーな感じです。
一曲目で、それこそノリノリのグルーブ感を出してくれ、二曲目では、「ある愛の歌」なんかを小粋に弾いてくれます。裏返るようなハモンドのサビが泣きに泣きまくります。最高っす!

三曲目は、エレピが前面に出てきて、70年代っぽいサウンドと演奏が展開されます。
そして、エレピとハモンドの掛け合い的な方向に・・、なんだか懐かしい感じです。私が中学生くらいの頃の雰囲気です。
四曲目は、重厚なベースのグルーブするリズムに嵩にかかるようにオルガンとドラムがかんらんできます。
エレピとエレキ・ギターもファンキーにからみまくります。いいねぇ、こりゃ聞かないと損だよ。

五曲目は、ホルムズのオリジナルで、あのルー・ドナルドソンのアリゲーター・ブーガルーを彷彿とさせます。
掛け声も入り、めちゃファンキーでゴキゲン(死語)なサウンドです。

六曲目は、このアルバム最大の呼び物と言っても良いのではないでしょうか、あのアントニオ・カルロス・ジョビンの曲、「ウェイブ」です。
これはすごいですよ。これを最初に聞いたときは興奮して何度も何度も聞いてしまいました。
オルガンというと、ウォームという感じが先入観でありますが、非常にクールなオルガン・サウンドに仕上がっています。もう、“病みつき&虜”です。
途中のギター・ソロも最高に“オトナ”なメローなフレーズです。
ドラムのシンバル・レガートとリムショットもカツカツ・チンチンと歯切れ良くこれも究極の気持ち良いリズムです。
もう、ほめてばっかり(*^_^*)
オルガンのソロは、相変わらずカピカピ・ピキピキサウンドで昇天出来ます、間違いなく!

ラストは、シンバルがまるで雪がふるようにふりそそぐようなリズムで曲を引っ張ります。
そこに、エレクトリック・ベースが、上へ下へと自由自在にからんできます。さらにさらに、エレキ・ギターが割とマイルドに入り込みます。オルガンは、割と気楽に自由に跳ねている感じです。けっこう、この曲は、皆自由に楽しんでいる感じがします。
いずれにしても、この最後の曲もいいですね。
ファンキーでグルービーなジャズを楽しみたい人は、買って損はぜったいにないですよ。

 

2022/07/16

室積光さんの「史上最強の内閣」を読んだ。

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『史上最強の内閣/室積光著(小学館文庫)』という本を読みました。
2010年に刊行されたものの文庫化です。これもブックオフにて安価購入したのですが、いや実に面白かった。

物語は、北朝鮮のキム・ジョンイルが最高指導者だった時代背景で進められています。
もちろん、登場人物の名前は少しずつ似た(^_^;)名前で書かれていて、日本の国会議員や、政党名などもうまく変えて書かれていますが、あの頃の様子そのままです。

で、北朝鮮が核ミサイルを用意し、燃料を注入し始めたところから物語が始まり、時の内閣は大慌て!( ̄O ̄;)

ここからが面白いのですが、内閣などの上層部や、国会議員の古参議員が暗黙の了解をしている「影の内閣」が京都に存在し、この事態を乗り越えることができるのは、京都に存在する『一軍内閣』にご登場願って、我々『二軍内閣』は、事態が収拾するまで政権を引渡します・・と、時の首相が記者会見をするのです(^^;)

一軍内閣の閣僚は、どこか歴史上の人物を彷彿とさせる名前の人ばかり(^_^)で、おもわず吹き出しそうになるのですが、その人達も強烈な個性の人ばかりで、もう面白い面白い

物語は、将軍様の長男が浦安市の「ネズミー・ランド」で女性と豪遊しているときに、日本側に拘束されますが、その人物を駆け引きに使ったり、奪還作戦で「北」から特殊部隊が上陸したりの大騒動ですd( ̄  ̄)

登場人物のキャラの立ち方が尋常ではなく、実に面白い小説でした。
続きが気になって、いったん就寝してから、夜中に起き出して読み出したりしたこともありました…σ(^_^;)

奇想天外なストーリーは、実際に読んでみてご堪能いただきたいと思います(*^_^*)最高に面白いこと“うけあい”です(*^^*)

 

2022/07/15

「伝言/永六輔」を読みました。

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『伝言/永六輔著(岩波新書)』を読みました。
2004年2月の第一刷発行となっています。

内容は、「いまこそ伝えなければいけない言葉」を拾い、人々が暮らしのなかでつぶやいた智恵の言葉を中心に政治、教育、メディア、医療などについて語っているものです。

堅苦しそうだけど、内容はわかりやすく書かれ、時に永さんの“怒り”なども感じ、さらに優しさなども感じるという・・今の時代にはもうないような世界観の本となっておりました。

永さんらしいな、と思ったところなどを少し抜き出してみます。

香具師(やし)には、日本語の達人が多い。啖呵売(たんかばい)の言葉でだまされたって、怒ってはいけない。寅さんは品物を売るのではなく、言葉を売っているのだ。
・・というところです。

ついでに、

インチキもまた、言葉しだいで商売になる時代があったのだ。最近の政治家は、マニフェストという啖呵売をしている。
・・だって(^_^;)

禁煙しなくたって、いいけどさ。
タバコの名前を変えりゃいいんだよ。
《短命》、《心不全》、カタカナが好きなら《クモマッカ》とか。
・・これもまた苦笑いする人多数という永さんの面白いもの言いです。

もう亡くなってしまった映画評論家、淀川長治さんの入院見舞に永さんが行くと、ドアに淀川さんが書いた「貼り紙」が・・。

[このドアを開ける人は、笑って開けてください]
・・と。

永さんが笑いながら入ると、「あんたはいいの」と言われて、じゃ誰に?と訪ねると、看護婦(看護師)さんに向けて書いたんだそう。

看護婦(師)が部屋に入ってくるときに笑顔だと、どれほど患者がホッとするか。ということだったんですって。

永さんが帰りにナースセンターに寄って婦長(師長)さんに「看護婦さんがみな笑うようになったと淀川さんが言っていましたよ」と言うと、

「そうなんです。皆笑顔で部屋に入るようになって、淀川さん以外の部屋に行っても笑うようになった。看護婦が楽しげに仕事をしているように見えるので、病院全体がなんだか明るくなったんです。」
・・とのこと。

看護“婦”と原文に書かれているので、時代はずいぶんと昔のことですが、でも病院での笑顔はたいせつだと、あらためて私も思いました。

昨年、私が入院したときに、最初のうち看護師さんたちが、とても厳しい顔をされていたのを思い出します。・・それほど深刻だったのだと思います。

深夜に私の身体にいろいろセンサーがついていて、その数値が急激に落ちたのでしょう、部屋に入ってきた看護師さんたちが、私が眠っていると思い、ひそひそ声で私の深刻な病状についてどうしようかと悩みながら話している姿を薄目で見てしまいました。

あのとき、家族に何か書き記しておかなければと思い、翌日看護師さんにノートを買ってきてほしいと頼んだことを思い出しました。
その後も、看護師さんの表情にとても敏感になりました。

その後に私の命の恩人となった看護師さんが登場し、「絶対に元気になって家に帰るよっ!」「私の顔を見て、元気を出してっ!」と励まされ、生きて家に帰ることができました(*^_^*)

話が脱線しましたが、「いい話が書いてあった」ということが書きたかったのです。

以上、永六輔さんの「伝言」を読んだ感想でした。

 

2022/07/14

【The Beatles 研究室・復刻版】The Beatles (White Album)[B-3]Blackbird

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2004年から2008年にかけて作成したホームページ「The Beatles 研究室」・・2009年リマスター発売後の一部追記も含めてのブログにての復刻版です。ほぼ当時のまま、そして復刻後追記も付しております。
15年以上前の文なので細部の表現・事実についてはお見逃しください。
今回は、アルバム「ザ・ビートルズ(通称:ホワイト・アルバム)」から、「ブラック・バード」を取り上げます。

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ポールがインドで書いた曲で、ジョンが「ジュリア」でスリーフィンガーを使ったのと同様に、この曲についてもドノヴァンから教わった奏法を用いています。
同じ奏法を使いながらも、二人の“違い”もよくわかってファンにはとても面白いと思います。

録音はポールのみで、楽器はギターのみ。打楽器に聞こえるのは、ポールが足でリズムを取っている音です。(※この足でリズムを取っている“タップ音”のようなものもEMIのライブラリーにあった足音の音源を使っている、というようなことを書いている本もあります。でも、にわかには信じられない・・)

ちょっと聞いた感じでは、何気ないどこかで聞いたような良い曲、といった印象を受けます。
でも、よく考えてみてください。こんな良い曲、誰が書けるでしょうか?アルバムの中では、通り過ぎてしまうような場所にいて、ちょっとした佳曲となっていますが、実は他のアーティストにもカヴァーされる名曲なのです。

つまり、それがポールのすごいところなのだと思います。名曲をさらっと書き、そっと置いておくのです。まさに天才、まさに名人。

エフェクトとして入っている鳥の鳴き声は、EMIスタジオのライブラリのものだそうです。入れて良かったと思います。気ままなブラックバードが大空を飛ぶ光景が目に浮かぶようです。

ポールは、ビートルズ解散後も、ライブでこの曲を取り上げています。きっと本人も気に入っているのだと思います。

ホワイトアルバムを最初に聞いたときには、この曲のところで「おっ・・」と思いました。あとでアルバム全部を聞き終わったら、この曲を聞き直してみようと思ったことを思い出します。

ポールのソングライティングの素晴らしさをあらためて感じる名曲です。


〈追記〉2022/07/14

ポールのギター奏法は、「スリー・フィンガー」というよりも、実際は「ツー・フィンガー」で弾いていて、ジ・アルフィーの坂崎さんが名人芸的にポールのこのブラック・バードの演奏を再現しているのを見たことがあります。
特に人差し指の“前方に弾く”ような独特の弾き方が「あぁ、ポールがステージ上でこの弾き方していたな」と思い出させるものでした。坂崎さんのビートルズに対する探求は、その他いろいろありますので、また別の曲のときにご紹介します。

この曲のインスピレーションが、バッハの「リュート組曲ホ短調・第5曲プーレ」だというポールの発言が残っているようです。
クラッシック・ギターでよく演奏される曲だそうで、メロディとベースラインがハモるところに惹かれたとポールが言っています。

また、この曲が黒人の公民権運動への応援歌なのでは・・というのも、ファンのあいだでは知られているようです。私はよく知らなかったのですが。
ジョンのように直接的に歌わずに、ブラック・バードになぞらえて象徴的にしているのがポールらしいのかもしれません。

では、その後音源もいろいろ出回りましたので、あらためて新しい音源を聞いてみました。

2009年ステレオ・リマスター盤は、ポールの足踏みの音もきれいに入っているし、ダブル・トラックのボーカルもバランスよく入っている。
鳥の声のエフェクトは、モノよりもやや遅く始まるが、音自体は同じものです。

2009年リマスター・モノラル盤は、ステレオよりもとても落ち着いた印象。
ポールのボーカルもダブル・トラックがあまり強調されていません。
足のタップ音は、割とはっきりと入っていると思います。
鳥の声のエフェクトは、いったんブレイク後にギターが始まると同時に開始され、こちらの方がすっきりとしています。

ステレオ、モノともに、同じところでイントロ部分が差し替えられ、曲の途中のギター演奏部分を貼付けてイントロとしています。
いったん、モノのミックスを終えたあと(当時は、ビートルズのメンバーが実際に最後のミックスまで取り組んでいたのはモノの方で、こちらがオリジナルと言っていい訳です)、ステレオ・ミックスの作成時にイントロ差し替えがあり、モノも、その後ステレオと同じくする必要が生じて(モノとステレオのイントロが異なって販売されるのを避けるためと思われる)、両者同様のイントロ差し替えとなったようです。

アンソロジー3に入っているバージョンを聞いてみました。
かなり“生”の音そのままに録音されていて、ギターのラフに弾かれている部分もそのまま。
ポールのボーカルも加工はされていないと思います。
曲自体は、ほとんど完成されている状態です。

続いて、スーパー・デラックス・エディションの「イーシャー・デモ」のバージョン。
ADTを使い、ポールのダブル・トラック・ボーカルがものすごく強調されています。
ギターの音も割とワイルドで音量も大きい。運指や、つま弾きの様子も生々しく聞こえます。
このバージョンはプリミティブ・バージョンだが、本番よりもいいくらいです。
とてもポールらしい曲に聞こえました。

さらにスーパー・デラックス・エディションの「セッションズ」に入っているバージョン[Take 28]。
きっちりと、まずはスタジオで録っている感じ。
ギターも丁寧に弾かれている。
ボーカルもダブル・トラックにはまだなっていない。
ポールが、「こんな感じ」って弾いている様子が伝わってきます。

スーパー・デラックス・エディションのメインとも言える「ジャイルズ・マーティン・リミックス」。
丁寧にこの曲の良さを表現しようとしている感じ。
あまりダブル・トラック部分は強調せず、ボールの“歌いっぷり”を堪能できるようなミックスだと思います。
ギターも実に自然で強調のない演奏に聞こえます。
余計なエコーも極力取り去っているようです。

最後は、マッシュアップ・アルバム「LOVE」ミックス。
これはイントロだけいただいて、曲に入ると「イエスタデイ」になってしまいます。
「素材」としてイントロだけ使われていますが、“いい音”でギターが入っていました。

 

2022/07/13

伊集院静さんの「女と男の絶妙な話。-悩むが花-」を読みました。

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『女と男の絶妙な話 -悩むが花-/伊集院静著(文春文庫) 』を読みました。
これは、2017~2019年に週刊文春に連載されたものを抜粋した単行本をさらに文庫化したものです。
だからけっこう読んだことのあるものも多かったのですが、それでも面白く読みました。

相変わらずのことですが、文春に寄せられた読者からの相談に答える伊集院さんの回答には思わず笑ってしまうこともありました。

夫婦喧嘩で一度も勝ったことのない夫が、一度は勝利してギャフンと言わせたいと相談すると、「あんたはエラい、今まで負けっ放しで耐えてきた。もうそれでいい。勝とうなんて思うな。そんなことしたら大変なことになる。男はそれでいいのだ。」などと、今の私ならよくわかり、同感する名?回答でした。

妻が浮気をしているらしいと、携帯電話をのぞき見て気付き、それを問い詰めようと思う・・という夫からの相談にも、「携帯をのぞくヤツが悪い。奥さんだっていろいろあったんだ、黙って見逃せ。」というような回答があり、昔の私なら「そんなんでいいのかっ!」と思ったかもしれませんが、今の“枯淡の境地”…σ(^_^;)の私には、「夫婦にはそれぞれ夫にも妻にも様々な事情がある、問い詰める前によく考えろ」と思ってしまいそうです。

「どうしても“イケメン”じゃないと男はダメ。でも、そろそろ将来性のある男と結婚したいが、イケメンでない男性に恋心を抱けるだろうか」

という女性からの相談には、

問題はありません。
どんどんイケメン狩りに励みなさい。
イケメン=うぬぼれ、傲慢  うぬぼれ、傲慢=思慮浅く、迂闊(うかつ)ですから、その浅知恵と迂闊につけこめ!

魔がさすというケースは十分考えられるから、運良く合体できたら、シメたものです。
責任を取らせるのです。

・・( ̄O ̄;)・・と、奇想天外な回答をしますが、ここいらへんが伊集院さんの真骨頂でしょうか(^_^)

十分楽しませてもらいました。
相談が“エンターテインメント”になるなんて思いもしませんでした。

以上です。

 

2022/07/12

事件と選挙と、いろいろあったここ数日を考えてみた。

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先週金曜日に、あの銃撃事件の一報を聞き、このブログで急ぎその時感じたことを書きました。

まだ、事件の概要、背景さえもよくわからない状況でしたが、知人らのSNS等ではほとんど誰も何も事件のことについてはふれていなかったので、その時の気持ちだけでも書き記そうと思ったのです。

あの事件下で、・・何食ったとか、観光地に出かけたぞ・・みたいなものばかりだったので思わず、という感じでした。

そのときは、「これは民主主義を破壊する愚かな行為だ」と書きました。

その後一日も経たずに、「民主主義だとか、暴力による言論弾圧などという問題じゃないよ、個人の怨恨によるものだ」という意見も出ていましたが、私は「そうとは言えない」と思っています。

選挙期間中でもあり、その行為によって政治家の言論が阻止されたわけで、その時には、どの政党も一時的に演説を止めたりして、言論に大きな影響を与えたことに違いはありません。

個人的な怨恨もあるかもしれませんが、その後の報道からも、大きな団体と政党との結び付きにも問題が波及していて、なぜだか、マスコミ報道の“歯切れが悪い”・・。
大きな組織に属する要人の命を狙うことで、団体含め、世間、社会への報復を行なうということになっている構造について、もっと突っ込んだ意見が出て来てもいいんじゃないか、と思いました。

さらに、TBSの一部報道を除いては、亡くなった元首相の功績を称える報道が溢れました。これは選挙に影響を与えたんじゃないかと感じました。

さらに、「赤木ファイル事件」、「森友学園問題」「さくらを見る会に関する一連の疑惑」についてふれることはほとんどなく、亡くなった赤木さんの奥さんの気持ちは“いかばかりか”と思いました。

通夜、葬儀などの報道を見ていると、そこに出かけて故人を偲ぶ人達の多さに驚きました。そんなに人気があったっけ?

コロナ禍直前に消費税の増税をして、その時点で経済は下降し始めていた。
危険な法案もいくつか通していたし、赤木ファイル事件以下、それらへの対応は国民や議会を愚弄するような対応だった。また、野党議員を“小バカ”にするような答弁ぶりも一国の宰相としてどうかと思うこと度々だった。

で、選挙は与党圧勝でした。

野党のふがいなさは歴史に残るようなものでした。

しかも野党を謳っているのに、最右翼的派閥になって与党に入ったらどうだ、という政党や、小派閥としてもう与党に入っちゃえよ、というような政党もあって、これらみんな与党だというような状況でした。
さらに与党の“部活動”的な新しい政党もいました。これも与党の“カルト倶楽部”として派閥化してし与党に入ったらいい、と思いましたよ。
そんなんばっかです!

この騒動で大きな見落としを私達皆がしでかしているんじゃないかと不安になります。
別に国民が懇願しているわけじゃないのに、「憲法改正」という言葉がすでに大手を振って歩きだしています。

頼みもしないのに、「増税」への意欲は地下でマグマとなって、“噴火”を待ちわびています。

せめて参院選で“与野党拮抗”という形になれば、“うかつなこと”は出来ない、ということになったのに、これから3年間は国政選挙も無く、与党の自由自在です。
こうなっちゃったのは、私達のせいです。
あとで「そんなこと頼んでない」なんて言っても“後の祭り”ならぬ、“後の増税”です。

核を持ちやすく、戦闘に入りやすい憲法が出来上がったら、そのときに「ああ、あの選挙が分かれ目だった」と、思うことになるのでしょう。

気分がどん底なので、本日これにて。

 

太田和彦さんの新刊「75歳、油揚がある」を読みました。

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『75歳、油揚がある/太田和彦著(亜紀書房)』を読みました。珍しく今回は新刊です
d(^_^o)

前回読んだ太田さんの新刊「70歳、これからかは湯豆腐」の続編であろうということは、タイトルからわかります。豆腐のあとの油揚ですから(^_^)

豆腐は料理の脇役、ときに主役として、懐の深さをみせ、融通無碍(むげ)、毎日でも飽きない、栄養もある。
人も年齢を重ねたら、このように在りたいと太田さんは言っているのですが、その豆腐を油で揚げた「油揚」。
姿も食感も味も一変!
新たに生まれた独自の個性は煮ても焼いても包んでもよし・・ということで、人生にも進化や昇華はあるだろうが、経験が昇華して新たな境地に至るのなら、長く生きる価値がある、と、この本のタイトル「油揚がある」となった心境をまとめられています。

こりゃ面白いにちがいない!と、さっそく読んでみたのです。

太田さんは、残りわずかな人生を“消化試合”にしてしまっては面白くないとおっしゃって、生きる実感や、日常を離れた冒険についてもこの本で書かれています。

75歳を過ぎて、あらためて身に付けるものについて考えてみたり、日々の過ごし方についても、もう一度見直してみたり、また「ひとり旅」をすすめてみたり・・、私はまだまだ75歳の境地はわかりませんが、今後の参考にさせてもらおうと思いました。

また、「死は来るときには来るのだから考えてもはじまらない、死生観なんて必要ない」とも。

「そんなことを考えるより、毎日を充実させるほうが大切だ。」

「好きなことを見つけて毎日続ける、社会に役立てば御の字だが、まあ無理せず」

という結論でした。

この本に書かれている旅の仕方、お酒の呑み方、人とのつきあいなどは、いつもながら面白く、興味深く、参考になりました。

私も日々、一歩ずつそんな境地の75歳に近づいていきたいと思います。
まだ、ちょっと早いけど…σ(^_^;)

 

2022/07/11

【はっPのアナログ探訪_0158: PRIMITIVE LOVE / MIAMI SOUND MACHINE ( LP )】

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アナログ探訪、今回はLP盤を探訪いたします。
マイアミ・サウンドマシーンって覚えている人はいますか?

1980年代半ば頃には、アメリカでけっこうヒットしていたんじゃないかと思います。
日本でもヒットしていて、ラジオの洋楽番組や、ちょっと街中に出かけると、オシャレなお店のBGMになっていたりしてたんじゃないかと思います。

当時の私も、ヒットしていた「コンガ」を聞こうとして、このアルバムを買ったんじゃないかと思います。

聞いてみると、「コンガ」以外も、このアルバムからけっこうヒット曲が出ていましたね。
「ボディ・トゥ・ボディ」「バッド・ボーイ」「フォーリング・イン・ラブ」なんかも、かなり売れていたと思います。
また、テレビ番組などの BGM や、挿入歌にもなっていたような記憶がよみがえってきました。

 

 

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曲自体もいいし、リズムは当時流行っていたもので、とてもキレがいい!
さらに、ボーカルもコーラスも“完璧”と言えるほど優れていると思います。今聞いて、あらためてそう思いました。
そして、サウンドもまさに80年代そのものの“つくり”です。
あの頃って、音と音の“隙間”がないですね(^_^)がっちり、びっしり、固められたサウンドです。
久しぶりにこんな音を聞くのも、体が懐かしがっていておもしろい感覚になりました。

ただ、ガッチリと作られてはいますが、どこでどんな音が鳴っているか、どんな歌詞を歌っているかは、はっきりとわかります。
こういうことが大事だと、今の私は思いますが、昨今の洋楽も日本のポップスも、音は“ひとかたまり”になって飛んで来て、あまり左右のステレオ感はなく、真ん中から“どお~んっ”です。
年寄りみたいなことを言ってしまいますが、あの頃のサウンドや楽曲がなんだか懐かしいです。

ということで、ノスタルジックな気分にひたりつつ聞き終えたのでした。

 

2022/07/09

「その時がきた/山本夏彦」を読みました。

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『その時がきた/山本夏彦著(新潮社)』を読みました。
平成8年発行の本なので、二十数年前のものです。

ブックオフで200円で見つけたのですが、山本夏彦さんの本は、通常の書店ではまったく見なくなり、ブックオフなどの古本を扱う店でも見かけることは、ここ十年以上に渡ってほとんどありません。

何か理由があるのかと思うこともありました。
山本さんが亡くなったあとに、残された手帳などから「夏彦の影法師」という本を息子さんが書かれていますが、それを読んだときにも何か“奥歯に物が挟まったような”・・何かあるんじゃないか、という印象がありました。

結局、ほとんど書店・古書店で山本さんの本を見かけなくなった理由はわかりませんでしたが、ちょっと謎です。
考えられるのは、今、山本さんの本を読んでみると、政治的なことでも、日常生活のことでも、言葉づかいでも、男女のことでも、いろいろなことについて遠慮会釈のないことを書いています。
今だったら“炎上”必至です。
そういう本を置けない・・ということは・・ないと思うんだけど。

実は買って来て気づいたんですけど、過去にこの本、読んだことがありました…σ(^_^;)
忘れちゃうんですよね(^_^;)

清水幾太郎の「私の文章作法」に書かれていた言葉にふれている部分があって、私も山本さん同様気になりました。

〇言葉に好き嫌いのある人なら文章が書けるようになる見込みがある。

というものです。

山本さんも、「原点」「ふまえて」「出あい」「対話」のたぐいは千金を積まれても用いないと言っていて、私もあまり使いたくない言葉かもしれない・・。

永井荷風も若者の口まねして言うことはあっても、書くことは断じてないと言っていると書かれていました。
そうねぇ、私も若者の使う言葉は自分の身に沁みていないので、使わないことがほとんどです。

コスパ、エモい、バズる、などはたぶん生涯使うことはないと思います。

山本さんは大正生まれ、一般家庭に電話のない時代の、よその家への訪問についても書かれていますが、そんな昔の話を聞くと、携帯のない時代の生活についても私には思い出されました。

根本的には、いつの時代にも普遍的にあることについてよく書かれた山本夏彦さんの本。
久しぶりに思い出しながら読みました。

 

2022/07/08

参院選投票日を前に恐ろしいことが起こりました。

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最初は、ネットに「選挙演説の場で倒れている人がいる」という報が出て、なんだろう?と思っているうちに今回の恐ろしい出来事の詳細が次第に伝わってきました。

まさに言論による「選挙」という戦いの場に、暴力、殺人という蛮行によって言論を封殺し、自分の思いどおりにしようという人間の、最悪の愚挙が行なわれてしまいました。

その報を知るに至り、民主主義を破壊する愚かな行為のあまりの悲しさに涙が出そうになりました。
このブログを何度も見ている方には、私が安倍政権に対してどのような気持ちで対峙していたかはおわかりになるかもしれませんが、決して応援などしていない、むしろほとんど批判を繰り返してきたわけです。

それでも、今回の愚かな行為については、許せないし、日本の今や今後のことを考えると、あまりにも悲しい。

既に報道では、元首相本人が亡くなった直後ですから、その「功績」のようなものについては伝えていますが、「赤木ファイル事件」、「森友学園問題」「さくらを見る会に関する一連の疑惑」などについては、ふれているメディアはありません。

このまま事件の解明などは“うやむや”のままになってしまうのでしょう。

そして、今回の事件が日本の民主主義の根幹を揺るがすものであるにも関わらず、SNS等で自らの考えを書き示しているような人も見当たりません。
そんなに“冷めて”て、いいのか、と思いましたし、警備が甘かったんじゃないか、とか、「暴力による言論弾圧」の是非にはふれず、周辺の些事についてなんだかうれしそうにアップしている人を多く見かけます。

ほんとうに“がっかり”です。

ひとりくらい、暴力で言論を封じることについて怒っている一般人がいることを示したくて急遽この文を書きました。

 

また感染が拡大してきました。

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コロナウイルスの感染者が、ここ二週間くらい、前週の数を上回り、昨日はついに47都道府県すべてが拡大傾向になったと報道がありました。

これを受けて、さすがに全国的な旅行への支援・補助のようなものの発動は見送るということになったようですが、県単位、近県単位での割引的なものはすでに実施されていて、「第7波は必ず来る」と6波の最中に言っていたのに、気分的には全国的に“ゆるゆる”になりました。

浮かれまくり、テレビのニュース画面などを見ていると、雷門あたりは人・人・人・・という混みようでした。ついこのあいだまで、急激な感染拡大に怯えていたのに。

いまのうちに医療機関の“逼迫”が起こらないように対策を取らないと、また大変なことになりそうです。

各種報道メディアは、感染者増加が明らかなのに、報道は控え目でした。第6波のときは、あんなに連日「たいへんだ、たいへんだ」って報道したのに。

国外からの入国者数など、いろいろ緩めてきたのは私のような世捨て人にもわかりましたが、私個人としては、国内の遠いところに観光で出かけられる人っていうのは、お金を持っている人で、そんな人達に支援しなくてもいいのではないか、と思います。

観光業界をうまく支える方法を別の方法で考えた方がいい。
それに、「経済を回さなくてどうする」っていう人にも、だからって感染拡大について目をつぶって“やっちゃえ”っていうのもおかしいですよ、と言いたい。
さらに、“旅行だ、豪華飲食だ”なんて、そんこと言っている場合ではない収入減少に苦しんでいる人に支援・補助をすることを考えた方がいい、とも思いました。

ついでに書くと、上記に書いたような“お金を持っている人”が遠出をして、その観光の様子をSNSにアップしているのを見かけますが、単によく撮れた写真を何枚も載せているだけで、それなりの役職などにかつて就いていたであろうに、今のこの状況下での現地の様子、人の様子などにもふれていません。
“どうだ、見てみろ”みたいなものは、もう、ごちそうさまです。

昨日の報道や、今朝の新聞を見て感じたことを書いてみました。

 

2022/07/07

「なんらかの事情/岸本佐知子」を読みました。

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『なんらかの事情/岸本佐知子著(ちくま文庫)』を読みました。
2012年に刊行されたものの文庫本化です。またもやブックオフにて安価購入。

読み始めたときには、エッセイだと思って“ふんふん”と読んでいたのですが、途中から“???”となり始めました。

いろいろなエピソードが語られているうちに、途中から雲行きが怪しくなってきて、これはただの迷走なのか、妄想なのか、現実とは思えない展開になり、読んでいるこちらが不安になるのです。

変わらない日常が描かれているのかと思っていると、そこがだんだんとアナザー・ワールドに・・しかも一瞬にして変わってしまい、そのあっけにとられるというか、不気味な感覚は独特のものでした。
友達にこういう人がいたらとても怖い・・。

四谷にある洋食屋で、美味しいからしょっちゅう行っていたのだが、いつも満員だったそのお店、ある日のランチ時、入ったらお客さんがひとりもいなくて、カウンターの上にずらっと料理が並んでいて、お店の人もいない・・。
無人の厨房の奥で五個もあるガス台の火がぜんぶついていて、ぼうぼうすごい勢いで燃えていた。
怖くなって出て来ちゃった。・・っていう話を友達の話として語っているが、本当は本人の話なのか、あるいは作り話なのか、とにかくどこまでが本当かわからない。

日常使っているあらゆる道具などを見ていると、なぜ人がこんなものをわざわざ作っているのかという思いがどんどん病的に掘り下げられ、こんな“ばかばかしい物”使うのも恥ずかしいというような気持ちになって、傘ひとつ買うこともしなくなってしまう著者。

夜中に起きて、水を飲もうと台所に行ったときに、泡立て器やフライ返しを見て、それが何なのかぼうっとして理解出来ず、泡立て器を電球だと思って頭に乗せたが、灯りは点かず (・_・;・・フライ返しは「フック船長の手の先なのでは」と思い、フック船長がその義手を使って朝食を皆のためにつくっているところを想像してニヤニヤ笑うとか・・、もうとても気持ち悪いのです。

当分、この人の本は読まないかもしれませんが、時が経てば、またこの感覚が恋しくて岸本さんの本を探すことになりそうです。
後味が苦いような、妙な読後感を持つ本となりました。

 

2022/07/06

嵐山光三郎さんの『「下り坂」繁盛記』を読みました。

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『「下り坂」繁盛記/嵐山光三郎著(ちくま文庫)』を読みました。
いつもながらのブックオフで、100円コーナーにて見つけましたd(^_^o)

この本は、2009年に新講社から刊行されたものの文庫化で、嵐山さんが六十代後半にさしかかったころのものです。
だから、タイトルにある「下り坂」というのは、“人生の下り坂”を意識しての言葉です。

読んで見ると、下り坂と言っても、どんどん“しょぼくれて”いくことを哀しむようなことではなくて、本の表紙のイラストにあるように、人生の下り坂を傾斜を利用して、“軽快”に?!降りて行こう・・というような感じに受け取れました。

嵐山さんの世代(1942年生まれ)の人達っていうのは、戦後を“もろ”に経験し、日本が復興していく中で“ガンガン”働き、昼も夜もなく仕事に突入していた人達ではないかと思います。

かといって、遊びはしないのか、というと、それはそれ!破滅的に遊びもして、さらに浴びるほど酒を飲み、競馬・競輪・麻雀も給料が底を突くまでやって、さらに恋愛に関しても猛進していく・・という、私がそれらの人達を見た最後の世代かもしれません。

だからきっと、もうスピードをある程度緩めて下り坂を降りて行こう・・ってことなんだと思います。
ただ、それらの世代を上司に持った私達は、“不幸”だったかもしれません…σ(^_^;)
「いいからやれっ!」と、「無理が通って道理が引っ込む」ような毎日でしたから。

仕事もガンガンやった人達ですが、その“無責任”感も今の人達では想像できないくらいだし、自分さえ良ければという感覚も、今の若い人には理解できないでしょう。

嵐山さんは、時代の“いいとき”を経験していますが、それを懐古的に振り返るでもなく、収入も落ち始め、明らかな下り坂を意識しつつも、六十代後半からの人生を、楽しみを減らすことなく過しています。

すべての人には参考にならずとも、自分の生き方を意識して、人生の終盤を楽しく生きる方法は伝わってきました。

とても面白く読みました。

 

2022/07/05

二十年の時を経て、町内のひとたちの心模様は変わっていた

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約二十年前に順番で回ってくる町内の役を引き受け、今年またその役が順番で回ってきました。
私が受け持つ各世帯は、二十年前からそのほとんどが代替わりして、次の世代になっていました。当時は、私がいちばん若かったのです。

あの頃は、何か取り組まなければならないことがあれば、皆を招集しそれぞれに役割を振ってお願いをすると皆さん熱心にやっていただけました。

言い方が難しいのですが、当時の約二十世帯は、ある意味“物理的”な問題に取り組んでいました。

で、今回会費の集金もあり、八世帯増えた皆さんのところを就任早々に回ると、そこには“メンタル”な問題が存在していると感じました。

“いらいら”している人、何年も前のことに“くよくよと悩んで”いる人、誰にも相談できずに“不安の中”にいる人、代替わりして亡くなった自分の親のように“尊大なふるまい”を再現しようとする人、新しく越して来て“この田舎者役員を少し脅かしていろいろ自分のためにやらせよう”とする人・・(クレーマーに著しく近く、なるべく密室的に話をしようとして、私が周囲の人たちに声をかけようとすると激しく拒否する)・・。

必死に行動して頑張ればよかった二十年前とちがって、奥が深く、どうしたら解決の糸口を見つけられるのかわからない事態を感じて、私も一時(いっとき)、ぐらぐらと心が揺れました。はっきり言ってここ二年間、体調が思わしくないこともあり、今度は精神的にも揺さぶられました。

そんなこともあって、私と同じ役をやった方々を三年前までさかのぼって話を聞きに行ってみたところ、皆さん、私みたいにメンタルな部分をぶつけられてはいないのです。

つまり、私に対して今回は「何か話を聞いてもらえそうだ」という印象を持たれたのだと思いました。
「そりゃ迷惑だ」という考え方もあるかもしれませんが、いい意味で捉えれば、「この人なら話を聞いてくれる」「今考えていることについて何か対応してくれる」「何らかの形で取り組んでくれるんじゃないか」と思ってもらえたのかもしれない、と考えました。

そう思い直して、今、心を落ち着けて、ひとつずつ対応しているところです。
それが自分の持ち味だと信じて。

体調のこともあり、“全力で”というわけにはいきませんが、今出来ることを少しずつやってみようと思っています。
ここに書いてみたのは、その決意が揺らぐことのないように、という思いからです。

きのうもひとつ、持って来られたお話が片づきました。
明日からも、またひとつずつ片づけられるようにゆっくりと動きます。

 

2022/07/04

八日市場市で開かれていた「第18回 匝美会展」に出かけてきた。

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このあいだ、匝瑳市立八日市場公民館で開かれていた『第18回 匝美会展』に妻と行って来ました。

「匝美会」というのは、匝瑳高校のOBの方々の美術作品を年一回の周期で展示する展覧会のようでした。
そこに、私の中学時代の担任で美術の先生も出展されていたので、出かけたというわけです。

相変わらず、先生のガラス絵は楽しく、愉快な魚が泳ぐ海の世界が描かれていました。

 

 

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そしてこれまた不思議なオブジェ。流木と球体の奇妙な生き物のような作品。
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こちらは、外国の風景でしょうか。澄んだ湖と、うしろにそびえ立つ山の空気感が感じられ、しばらく見入ってしまいました。
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こちらは焼物。
表面のゴツゴツした感じと、きれいな緑がかった色もよく、魅力的な作品でした。
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こちらは、“杉大樹木目うずくり”といって、一枚板を削りだしたものだそうです。
妻がとても興味を持ち、作者の方がちょうど在館していたので、“質問攻め”していました(^_^;)・・・でも、作者の方は質問してもらえて、とてもうれしそうで、最後に記念写真を撮っていました。

作者の方達、そして先生、先生の奥さま達と楽しく会話もできて、良い一日になりました。

 

2022/07/03

【南先生の玉手箱_0045_地域のたたずまいに思う】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
先生からお借りしている資料に日付が入っていなかったので、今回のものが書かれた年代は不明です。
先生が身近なところの不法投棄や、生活ゴミのことについて書かれています。


以下、先生の文章です。

《地域のたたずまいに思う》

今にはじまったことではないけれども、身近に路肩など、あきれるほどの不法投棄や一般の生活ゴミが目につく。

つい先日、各地方をまわる業者の人との雑談から、千葉県(所によってのちがいもある)特にこのあたりは、路肩に環境ゴミが目につきますねえと、そう言えばよその地域でもよく目にするものの、日頃用件あって移動中、私の家のちかくでも、市役所通りなどで、かなりひどい状況がある。

そんなゴミの多い場所に環境美化やゴミ捨て禁止の看板ばかりゴミのように目につくのも何か変なもので、看板やスローガンを設置するのもいいが、日常活動として自分たちの暮らす地域の環境美化に手を加えたいものだ。

環境ゴミは捨てる側に責任があるが、その地域に暮らす住民の意識による問題も大きいと思う。

ゴミを捨てない、町をきれいに、など、その意味を知りながら具体的に実践できない大人が増えている。

先日、郵便局に通信の用件あって、局内に駐車したところ、帰る時にさっきはなかったと思うコンビニの大きなビニール袋いっぱいの食べカスが捨ててあった。
おそらく郵便局に来て、用件の途中に投棄したものと思う。

このような一瞬の出来事が山のようにあっちこっちでふくらんでいるのだと思う。
捨てる側は捨てられる側のことを考えない。時に田んぼや畑の中に危険ゴミ、ビン、ガラスまで見ることもある。

ドライブ移動中、旅先、散歩中に目に入ってくる各地域のたたずまいを見ると、その地域の暮しの様子、人間模様が感じ取れる。

先日は、農業用の水路がゴミで流れないどころか、ゴミ袋などで水の流れが見えない地域を通り抜けた時にふと思った。
この道路沿いの人たちの暮らしぶりは、きっと家の中ではオール電化など快適に暮らしているかもしれない。


以上が先生の文でした。

最近、先生と電話でお話ししていても、この文と同じようなことが話題になります。
たぶん、上記文章は20年以上前のものだと思われるので、世間の状況はまったく変わっていない・・というか、ますます悪くなっているな、と思いました。

公園のベンチや、電車ホームのベンチで飲物を飲んでいた人が、飲み終えると(・・終えていない場合もある)、すぐ30㎝横にビン・缶を捨てるカゴがあるのに、そこいらの地面に置いていってしまいます。

駅のトイレなどにも、洗面台や小の便器の上の部分などにビン・缶・コンビニ袋に食べ残したものなどを置きっ放しにしているのを見かけます。

自分の部屋でなければ、どこにでもゴミを捨てるのでしょう。
そんな人が多すぎる。でも、注意したら殺されてしまうかもしれない・・。

先生のゴミのお話から、私もいろいろ現在の状況について考えました。

 

2022/07/01

【復刻版】Modern Jazz喫茶『 頑 固 堂 』⇒《Selflessness / 1963,1965》 John Coltrane

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十数年前に作っていたホームページ“Modern Jazz喫茶『 頑 固 堂 』”のブログ版復刻です。
取り上げているのは、ジョン・コルトレーンのアルバム、「セルフレスネス」です。
再度聞き直して、追記も行いました。


John Coltrane/ss,ts
McCoy Tyner/p
Jimmy Garrison/b
Roy Haynes/ds
----------------------
John Coltrane/ts
Pharoah Sanders/ts
Donald Garrett/bcl,b
Elvin Jones/ds
Frank Butler/ds,perc
Juno Lewis/perc

①My Favorite Things
②I Want To Talk About You
③Selflessness

アルバムタイトルは“セルフレスネス”です。これを早口で3回言ってみると「セルフれふれふ」になってしまうという冗談はさておき、コルトレーンは一曲目の“マイ・フェイバリット・シングス”をレコーディングされたものだけでも10回以上はやっていて、初期のゆっくりとした、確かめながら吹くようなものから、このアルバムのようにどこまでも自由にプロウしまくるものまで、変遷に変遷を重ねています。

ここでは、マイ・フェイバリット・・・は最高の状態で聞くことができます。肉体も魂もすべて音楽に投入しているかのような捨て身のソプラノ・サックスは、命さえも投げ打ってしまったようです。
まさに音楽という大海に身を投げてしまったと言えるかもしれません。
片足をあの世に突っ込んだまま吹ききるコルトレーンのこのアルバムをBGMとして聞いたり、お酒を飲みながら聞くなんてことはできません。命がけの演奏をするコルトレーンに失礼な気がして、今でもいい加減な気持ちでこのアルバムをかけることはできません。

このマイ・フェイバリット・・・はドラムがレギュラーのエルビンではなくて、ロイ・ヘインズですが、徹底してコルトレーンを煽り続けるかのようなドラムはエルビンとはまた異なるもので、このアルバムに関しては大成功ではないかと思います。
3曲目ではエルビンのドラムを聞くことができますが、粘るようなうねるようなエルビンのドラムはまた別の魅力を引き出しています。両者互角の戦いと言っていいかもしれません。

その中間にある2曲目は1曲目と同じメンバーですが、ここでは少し心を休めることができるような演奏です。
コルトレーンのバラードを聞くことができます。
途中からフリーキーなソロが入ったりもしますが。

それにしてもこのアルバムは身を切り裂かれる思いでいつも聞くのですが、確かに名演であり、名作であると言えます。
コルトレーンの初期を聞いて馴れてきたら、このアルバムに突入するとよいかと思います。
魂の音楽が眼前に拡がります。


〈追記〉2022/07/01

上記文は、十数年前にホームページ上に書いたものですが、あらためて聞いてみました。

このアルバムのメインは「マイ・フェイバリット・シングス」の17分半に及ぶ熱の入った演奏です。
エルビン・ジョーンズではなく、ロイ・ヘインズがドラムを叩いているのですが、スネアの音が乾ききっていて、それが絶え間なく鳴っていて、この曲の無限の世界に“いざなわれる”ようです。永久に演奏が終わらないんじゃないか・・そんな気になります。

もともとは「サウンド・オブ・ミュージック」というミュージカルで歌われていたこの曲の不思議で怪しいような部分に気づいたコルトレーンの感性はあらためてすごいものだと感じます。

「そうだ、京都へ行こう」のCMに使われている曲の雰囲気は、コルトレーンが感じ取ったものに近いと思います。
コルトレーンに、皆、気づかされた、そんな曲だと思います。

2曲目もあらためて聞いてみました。
バラードですが、でも今聞いてみると、コルトレーンはメロディアスに吹きながら、何か「どう料理してやろうか」と探りながら演奏しているようにも感じます。
なので途中から、この曲調からは逸脱していないものの、自由でどんどん派生していくようなアドリブ・ソロを吹いています。バックもそれに心地よくついていく感じ。
最後は、コルトレーンひとりになって、孤高の境地みたいな演奏になっていく・・。

3曲目も再度聞き直してみました。
ジャム・セッション風に曲が始まるのですが、この曲はドラムがエルビン・ジョーンズで、こういう、とことんそれぞれのミュージシャンが“駆け引き”をしながら音の渦をつくるように演奏するような曲の場合、エルビン独特のリズムがものを言います。

どうやって叩いているのかわからないくらい複雑なリズムパターンのうねりに、全員が突入していくような感じ。
マッコイ・タイナーのピアノも冴えにさえています。

1曲目もいい演奏ですが、こちらもエネルギッシュな演奏で、初めてこのアルバムを聞いたときの「すごい熱量だな」と思ったときの感覚がよみがえりました。

コルトレーンのアルバムでは、私が一番好きなアルバムだな、とあらためて感じました。

 

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