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『風の中に立て -伊集院静のことば- [大人の流儀 名言集]/伊集院静(講談社)』を本屋で見つけ、読んでみることにしました。
今までの伊集院さんの著書の中に存在した数々の名言を集めたものです。
阿川佐和子さん、近藤真彦さん、大和和紀さん、佐治信忠さん、大友康平さんの追悼エッセイも収録されていました。
あらためて伊集院さんの遺された言葉を噛み締めました。
「〇〇って何のことだかわかりますか?」
「××がなぜああなるか知っていますか?」
という話し方をする人がいる。
という言葉がありました。そんなことも知らないのか、とか相手より物事を知っているように見える言い方をする人・・私も情報システム関係の職場にいた時に何度も聞きました。
相手を試しているように感じるし、伊集院さんのおっしゃるように下品で傲慢にしか聞こえない話し方だと思いました。その時のこと、思い出しました・・。
スマホの中に何があるのか。データがあるだけで、ある種の答えと錯覚している。
仕事にとって大切な情熱、誇り、個性が隠れているわけではない、・・いい言葉です。
人はどこかで己と対峙し、自分を取り巻く、世界と時間を見つめ、自分は何なのかを考えてみるべきだ。
まず、個、孤独の時間。独りになる時間と場所をこしらえ、じっとすることだ。
これも今になってやっとわかってきたことです。
この何十年間で日本人が喪失してしまった、もっとも手放してはいけないもののひとつ。
怒りの感情。
怒りの感情の中には、その人を成長させたり、新しいものに挑んだりする精神が養われているように思う。
私も怒りを押し殺すことで人生を過ごしてきましたが、ここ数年は怒りを特にこのブログで吐き出すことを始めました。
そうしなければ、こうなってしまうという結果が今の日本だと思います。
すでにかなりの重症になっているように思う。
などと読んでいるうちに、本気になってしまいました ^_^;
伊集院さんの書かれた本、まだまだたくさんストックがあります。
今後も感想をこのブログに書いていきたいと思います。
『syunkon日記 スターバックスで普通のコーヒーを頼む人を尊敬する件/山本ゆり著(扶桑社)』という本を古本で見つけ、読みました。
正直言って大変な衝撃を受けました。
面白過ぎる!面白過ぎるうえに終盤では実に切実で人の生き方、人生に関わる重大なことが真剣に書かれていて、涙が出るほどの感動もありました。
自分の身に起こった出来事、友達との間の出来事、様々な身近な事象に対して、どんどん斬り込み、そしてその斬り込みには“大いなるボケ”が入っていて、それにまた自分で思いっきり“ツッコミ”を入れるのが、“一人漫才”をやっているかの如くで、腹の皮がよじれるほど笑ってしまった。
この人タダ者じゃないっ!おしゃべりとエッセイの「モンスター」と呼んでもいいんじゃないかと思いました。
妻に「ねぇねぇ面白い人見つけたよ」と、この本を紹介したら、「とっくに知っているよ、私の持っている本は料理中心に書かれていて(※現在の本職は料理関係とのこと)、それでもめちゃめちゃ可笑しいんだよ」とのことでした。
本の帯には、ブログ月間800万アクセス、著書累計430万部超となっていました。
まさに“モンスター”!!
ひいこら言って笑った後には、終盤の3分の1の部分で著者自身が経験してきた仕事上の厳しい話、そしてもっと厳しい家族の話が書かれていて、私は次々と著者の身に起こる大変な事を色々な方法、考え方で切り抜け、そして人としてどう考え、生きていけばよいのか、自問自答する姿に思わず涙してしまいました。
著者は色々な仕事を現在に至るまでに経験していますが、「仕事やバイト、習い事でも、手広くすると色んな経験は積めるけど1つのことだけを続けてる人にはその分野ではかなわないし、かといって1つだけを極めたら他のことは一切何もできない」と書いていて、私も様々な種類の仕事を経験してきたことから考えさせられました。
そして、「親」という、自分がいないと生きていけない物が存在する一生変わることがない役割を与えられた・・とも書かれていました。
まさに親になるって大変なことで、仕事だけでなく、その親という役割もこなしていく人生ってなんだろうと深く考えさせられることにもなりました。
笑いで十分楽しませてもらったあとに、こんな涙が出るようなことまで考えることになって・・この本自体も“モンスター”だと思いました。
とてもいい本でした。
私が思いついて既に何句か詠んだ「ビートルズ俳句」。またひとつ思いついたのでアップいたします。
【咆哮 雷鳴の如きハウリング】
《背景》季語:雷鳴[夏]
久しぶりのビートルズ俳句は、ジョンの「レボリューション」で詠んでみました。
レコーディングに立ち合ったエンジニア、ジェフ・エメリックの著書「ザ・ビートルズ サウンド」には、この曲の録音時にジョンがあまりにも過激にギター、アンプの音量を上げ、強烈なハウリングを起こし、「もう少し音量を下げられないのか、機材が壊れる」とEMIの録音技師からクレームが出た話が載っていた。
現実のレコード盤でもその一端がうかがえるが、後に出たアルバムの「LOVE」バージョンでは、さらに顕著にそのハウリングの様子がわかる。
ジョンの咆哮とギターの雷鳴の如きハウリングを聞くことが出来る楽曲だ。
『おふくろの夜回り/三浦哲郎著(文春文庫)』を古本で見つけ、読みました。
名文家として知られた著者が、「オール読物」の巻末頁に千字で書き継いだ随筆集です。
著者、三浦哲郎氏は2010年に亡くなられていますが、この本は2013年に第一刷発行となっています。
郷里に帰省中、とつぜん胃潰瘍による吐血に見舞われたときのことが書かれていたりしましたが、なんだか文体も本人の気持ちも“のんびり”とした感じで書かれていて淡々と読んでしまうのです。本人も淡々としている。
そこで著者の病室の名札を見て高校時代の友人の奥さんが挨拶にくる話。
自分の入院はそっちのけです。
その友人も入院していたのですが、著者が病室を訪ねても会話にもならない状態。
で、友人の奥さんが通訳のようにその友人に語りかけている場面などは、とても著者のように文に表すことは難しいと思いました。
出来事と、それぞれの気持ちが絶妙の筆致で描かれていました。
別の話では、著者夫婦が家を建て、木と漆喰だけの都会では珍しい和風の家に住んでいると、幽霊が現れる。
それも奥さんの目の前だけに現れる。
あるときもしやと奥さんが気づく。
幽霊が出た翌朝の朝刊の死亡欄に三十五年も前、駒込の酒を飲ませる店で働いていた当時二十歳の奥さんに熱心に言い寄ったことのある大学教授で著名な国文学者がその人が載っていたという・・。
都電の沿線にあったその飲み屋には大学や研究所に通う人達が常連であったという。
そのとき美人店員だった奥さんに言い寄ってきた人はけっこういたらしい(^_^.)
そしてその人達の寿命がそろそろ尽きる頃・・^_^;
それから幽霊が出た翌朝には、奥さんは朝刊の死亡欄をひっそりと見ていたそうです。
そんな話がいっぱいでした。
さすがの名文家です。私のようなものには参考にしたくても出来ない見事な文章でした。
『邪悪なものの鎮め方/内田樹著(文春文庫)』という本を古本で見つけ、読んでみました。
2010年に単行本として出版されたものの文庫化(2014年)です。
著者、内田樹氏が「邪悪なもの」と対峙していて、常識的な判断や理論などが無効になってしまうという事態に際し、どうふるまっていったら良いのか、ということを書かれた本だと思います。
人間的尺度を越えたものに対処するための“知恵”というものが書かれているのだと思いましたが、申し訳ない・・よくわかりませんでした。
まず、“カタカナ語”が多くて、それがまだるっこしくて、読んでいくときの足枷となり、さらに簡単に言えるようなことをとっても回りくどく、しかも難しい語を使っているので、一回自分の言葉に直してから読まなければならないので実にその努力が徒労に感じられ、ものすごく疲れました。
スペクタキュラー、ディセンシー、コスモロジカル、マニピュレーター、パセティック、コミットメント、リーダブル、コールサイン、ストックフレーズ、シャイニング・シンドロームなどの“カタカナ語”が何の説明もなく、普通に使われ、書かれているので、「これはどういうことを言っているのか」などと考えているともう文章に置いていかれるのです。
正直言うと「いやんなっちゃった!」という感じ。
よくよく読んでいると、けっこう簡単な言葉、平明な表現で書けるような文じゃないかと思いました。
それをわざわざ小難しく書いているように感じて、一応読みはしましたが、あまり面白くありませんでした。
この本自体が“邪悪なもの”だった・・というのが正直な感想です。
『俳句を愛するならば/稲畑汀子著(NHK出版)』を古本で見つけ、読んでみました。
この本が出た時点では「ホトトギス」名誉主宰である高浜虚子の孫にあたる稲畑汀子さんの本で、まだ幼い頃に虚子から俳句に〇をつけてもらっていた話から始まり、父からホトトギスの主宰を引き受け、さらに息子さんに主宰を任せ、自らは名誉主宰となるところまで、俳句人生が語られている貴重な本でした。
特に著者は「選句」することに大変な労力を傾けてきたわけですが、その労苦とそこで出会った様々な句や作者の話は、実に興味深く、さらに面白いエピソードも語られ、最後まで楽しく読みました。
この本を読んで、句会の大切さということがよくわかりました。
まだ、句を詠んで5か月にもならない私にとって、句会はまさに未知の世界、経験してみたいと思っているのですが、身近にそういうお誘いをいただけるような方もおらず、今後の宿題です。
また、この本では「季題」についても著者の考え方が丁寧に、厳格に説明されていて、それも参考になりました。
季題にある語が混じっているようなものを勝手に季語として使ってしまいそうで、私もよく歳時記にあたり、自分で奇妙な季語のようなものを作り出さないようにしなければと思いました。
稲畑先生のお姿は、この間テレビでNHK俳句コンテストの過去を振り返る番組で拝見して、この方が・・と思っていたところです。
生前、金子兜太先生と選者として丁々発止、激しくやり合っているのが印象的でした。
あの迫力そのもので書かれている章もありました。
選者である稲畑先生に対して、あれは類句だとか、句の読み取り方が違っているのでは、とか、添削したものについてそれは間違っているのでは、などと色々な意見があるのですが、先生の考え方はまったく“ぶれる”ところなく、実に明快で爽やかに感じました。
何より、先生は人生を俳句と共に過ごし、いつでもまだまだ勉強していくのだという気持ちで取り組まれていて、私もなんとかその一部でも見習って、日々俳句を詠んでいきたいと思いました。
分厚い本でしたが、染み入るように読むことが出来ました。
今後も一つひとつの俳句を丁寧に心を込めて詠みたいと思います。
『日本語 根掘り葉掘り/森本哲郎著(新潮文庫)』を読みました。
この本は、1991年に新潮社より刊行され、4年後に文庫化されたものです。
三十年以上前の本ですが、読めばいろいろと今のこの時代に思い当たることがいくつもありました。
当時、日本語の「けじめ」は、アメリカ人も「Kejime」として英語にはない言葉であるとしていたとのことですが、そのアメリカ人から著者・森本さんは「日本人は“ケジメレス”だ」と言われたエピソードが書かれていました。
「けじめ」に英語の否定の接尾辞「less」を合成し、結局『日本人は“けじめ”がつけられないのだ』とい言われてしまったわけです。
今の時代はさらにそれが顕在化して、裏金議員も、特定宗教団体と関係を持つ議員も、もうすぐ辞める首相も『ケジメレス』です。
また、「厳粛に受けとめる」という表現は、良心がそう言わせるのでなく、世間に向かってただ神妙な顔をしてみせるポーズに過ぎないと、当時の森本さんが書かれているのです。
閣僚の不祥事が起こると、どっかの総理がいつも神妙な顔をして、「厳粛に受けとめ」てましたねぇ・・。
さらに、情報化だなんて言っているが、人は必ずしも何もかも知りたいとは思っていない。なのに否応なしに“耳目をそばだたせる”ような表現をとり、大仰な言葉を使って人の関心や興味をむりやりに引きつけようとする・・とも書かれていました。
これなどまさに今のネット社会、SNS、動画サイトに大きく反映されているのではないかと思いました。30年以上経って、どんどん事は大きくなっている。
最後にもうひとつ私が気になったこと。
当時の討論番組などで、やたらに大声を張り上げたり、不作法で、攻撃的で、粗雑な人間ほど受けている・・と書かれていました。
今はその不作法なヤツらばかりでコメンテーターを構成している番組が目白押しです。
私はもう見ていない。吐き気がする。
ということで、30年前に恐れていたことが今やほぼ毎日当たり前に起こっていると言わざるを得ない状況だと思いました。
マスメディアも安い構成の番組しか作らず、ジャーナリストと言えるような人は激減しています。
どんどん心が暗くなるので、本日はここまで・・。
スケジュールで失敗した話をエッセイで読んでいて、思い出したことを句にしました。
【 永田町 暑し 10分の空き時間 】
《背景》季語:暑し[夏]
穂村弘さんのエッセイを読んでいたら、手帳に記入し忘れた義父の法事の話題が。
結果、講演と法事の時間がギリギリ重なってしまいパニックになった話が書かれていました。
それを読み、自分が東京勤務をしている時にボスのアテンドをして“分刻み”のスケジュールで永田町を案内し、順調過ぎて途中次の予定まで10分空いてしまったことを思い出した。
「次まで10分?!もったいない、どうするんだ」と詰め寄るボスと本庁からやって来た取り巻きの幹部連中。
私自身の上司からも携帯電話が掛かってきて「何いっ!間が10分も空いているだとぉっ!!しっかりしろ」とお叱りのお言葉。
私の本音。「10分くらいいいじゃん、ゆっくり東京の空でも見てなよ・・。」
『迷子手帳/穂村弘著(講談社)』を読みました。
新刊です。
内容は、北海道新聞で現在も連載中のエッセイ「迷子手帳」をまとめたものとなっています。
誰でもよくありそうなことだけど、あらためて取り上げようと思うと「なんだったっけ?」というようなことがたくさん書かれていました。
突然“ど忘れ”してキャッシュカードのことを「銀行の出し入れのカード」などと説明する話。・・私もこういうのよくあります(^_^;)
過去に自分が書いたメモの字で読み取れないところがあり、過去の自分に向かって「お前の字が汚すぎるんだよっ!きちんと書いとけっ!」って怒りたくなる話・・(^_^.)・・これもありそうです。
「しっかりしろよ、過去の自分」みたいなこと。
昔のドラマや映画に出てくる人なら顔がわかるけど、今の若い女優さんやアイドルの顔を記憶することができないという話。
これもまさに私だ。
どれだけ美人であろうと、顔が覚えられず、区別もつかないのだ。
大原麗子さんや、園まりさん、奈美悦子さん、浜美枝さんなどならお顔だけでなく、どんな洋服を来てどんなポーズでどういう風にカッコよかったかがくっきりと思い出せる・・^_^; 誰だ、ひとりもわからないっていう人は。
どっちが好きか問題というのもあった。
硬いプリンとやわらかいプリン
絹ごし豆腐と木綿豆腐
つぶの納豆とひきわり納豆
生クリームとカスタードクリーム
新幹線と飛行機
ピンクレディーのミーちゃんとケイちゃん
キャンディーズのランちゃん、ミキちゃん、スーちゃん
最後のキャンディーズの件では、著者穂村さんは、ミキちゃんと言えなくてランちゃんと嘘をついていたという・・(^-^; いかにも当時いたような気がするエピソードです。
最後に私は「硬いプリン」「つぶの納豆 ※おおつぶで」「クリームは両方混合で」「新幹線 ※恐怖が少ないから」「ケイちゃん、ときどきミーちゃん」「最初スーちゃん、あとからランちゃん」でした。
以上でございます。
『本日7時居酒屋集合! -ナマコのからえばり-/椎名誠著(集英社文庫)』を読みました。
サンデー毎日に2008年6月~2009年3月に連載されたものを2009年6月に毎日新聞社から単行本で刊行され、さらに2012年10月に文庫化され出版されたものです。
ま、いつもどおりジャンルを問わず、椎名さんが発作的に感じた事象について怒ったり、笑ったり、泣いたり、ああだこうだと注文をつけたり ^_^; という内容になっておりました。
電車や、映画の試写会で隣の席に座った人からの迷惑話も面白かったのですが、そういう話って、誰もが経験していると思われるのに覚えている人が少ないな、といつも思います。
私も椎名さん同様に“困った人”が隣に座り、とんでもない迷惑を被ることがあるのですが、そういう話を誰かにすると、「また、話を盛ってぇ~」っていつも言われるのです。
はっきり言って「盛っとらんっ!て、何度言うたらわかるんじゃっ!!」という気持ち(^_^.)
田舎道などに行くと、大きな道路で歩道も3メートルくらいの幅の立派なものがあるのに車道の真ん中を堂々と歩くじいちゃんや、おばちゃんが必ずいるのですが、同じようなことをこの本で椎名さんも書かれていました。
「信号など見ない」で道路を渡る人なんて、けっこういるのです。
そういうことを言うと、「そんな人はいないっ!」って怒る人がいる。いるんだってばさ!
ケータイばっかり見ているヤツを見て、ケータイが無い時代にこの様子が想像出来ただろうかと思う椎名さん。
今や、電車の中などでは8割方の人が携帯に夢中です。いったいぜんたい何を見ているのだろうと思います。
クルマのナビに案内され、とんでもない山の中に連れていかれる話もありましたが、私も心臓の病になり、紹介状を書かれた専門病院に初めて行った時に「近道案内」を選択したら、ものすごい山道で車一台がやっと通れる道を案内され、「もうダメか」と思ったことがありました。心臓病で倒れる前に、遭難しそうになりました。
そして、突然藪の中から病院前の大通りに飛び出したときには、命のありがたさを痛感したのでありました(^-^;
・・などという実に私にも経験があるような身近な話に終始する“椎名節”エッセイ、楽しく読みました。
このところ、このブログ、俳句を詠むばかりになっていて、あとは本の読後感という感じになっている。
けっこう書きたいことも色々あったし、自分が出来る一番のことは文を書くことなので、ちょっとモードを元のブログに戻しつつ、俳句も日々詠みたいと思っているところです。
では、今回の本題に入ります。つい最近経験したことです。
ホントいうと、会いたいとはあまり思わなかったが、以前の職場で一緒だった方から、まだ私と繋がっている人経由で「会いたい」と連絡をもらった。
「ついては、自分の住むマンションの知り合いが宝塚を何十年も見てきた人で、宝塚ファンのあなたとその時に会ってもらいたい」とのことでした。
その何十年来の宝塚ファンの“おば様”は、“断捨離”というか“終活”というか、今まで見てきた公演のパンフレットを処分するとのことで、引き取ってもらえないかとのことでした。
私は大病して家での療養後に、部屋の整理をして既に一万冊の本を処分しているので、「困ったなぁ」と思いつつ、「見せていただいて、欲しいというものがあれば」という形で会うことになりました。
会う前から想像していたとおりだった。
その方は、お嬢様として育ち、中学生の頃から東京で行われた公演はすべて見てきたのだという予備知識を得ておりました。
全ての公演のパンフレットを買ってもらい、たいへんな量を所持し、その処分に困っていたらしい。
私は、自分から苦労してむさぼるように見てきたような人には共感できるが、果たしてこの人は・・などとも思ったりしていました。
顔を合わせて深く辞儀をしたが、いったん目を逸らし、再度頭を下げた私に今気づいたというふうに「あらこんにちは」という感じで“ハス”に構えて目礼をされました。
帰りたくなったが、待ち合わせ場所のファミレスの席に付き、私の宝塚観劇での経験や、今までに感動した公演や、劇中でのハプニングなどの話、歌劇団の方達とのエピソードを話したが、反応は“あまり興味がない”というふうで、時々「それは間違っている ※この反応が一番多かった」と言い、私の「あの公演は誰それのこういう演技がよかった」というような話には、「それ誰?知らない」とつれない返事。
たとえば花組・真飛聖さんトップ時代の「太王四神記」での冒頭、未涼亜希さんの長い物語の説明シーンは話題にもなり、素晴らしかったが、その話をすると「そんなことあった?未涼亜希って名前、初めて聞いた」などと、まるで話は盛り上がらないし、乗ってこない。
そのときの二番手大空祐飛さんのヨン・ホゲ役の素晴らしさを語ったら、「二番手に大空さんがいたの?覚えていない、花組に大空さんがいたっていうの?」とか、長老プルキル役の壮一帆さんの演技の話をしたら「そんな人いた?」・・息を呑みました。
トップスター以外の人はほとんど覚えていない、知らない。
どのトップがどのくらいの栄華を誇ったか、というような話にはお茶会の話などで話をしてくれるが、何か特別面白いエピソードもない。
パンフレットを示しながら「この公演ではこんなことがあった」と私が話し始めると、「私はどの公演も見ているときだけ覚えていて、終わった公演の記憶はない。パンフレットがあるから見たんでしょうねえ。」と言われ、言葉を失いました。
というわけで、“いい時間を過ごした”ということにはなりませんでした。
宝塚関係で、こんなことってほとんど経験したことがない。
がっくりと肩を落としつつ、帰ってきました。
もうお誘いは断るつもりです。
『死んでいない者/滝口悠生著(文春文庫)』を古本で見つけ、読んでみました。
「死んでいない物(※初出 文学界2015年12月号)」と「夜曲(※初出 文学界2016年3月号)」が収録されていて、この文庫本は2019年3月に第一刷が発行されています。
この「死んでいない者」は第154回芥川龍之介賞の受賞作品です。
ある老人が亡くなって、親戚関係が集まり、通夜があるのですが、亡くなった人を中心にその子供、その配偶者や孫など多くの人がこの小説の登場人物になります。
そのたった半日の物語ですが、実に長く感じます。
誰が主人公ということもありません。
集まってくる人それぞれに人生が有り、ストーリーが有り、悩みが有り、複雑な背景が有り、過去が有り・・と、それぞれの人に次々とライトが当り、そこに映し出される個々が持っているものはどれもため息が出るような深さや傷を持っています。
読んでいて感じたのは、自分が経験した葬儀などでも、ほぼこの小説と同じようなことが起こっていたということ。
あの人は誰だい?ええっ今何処に住んでいるの。結婚したの。離婚したの。子供はどうなっている?仕事はどうした・・などなど、たった一日というか半日程度で様々な人生模様が目の前に描かれ、繰り広げられるのです。
驚いたり、がっかりしたり、茫然としたり・・。
この小説もひょっとしたら、著者が実際に通夜、葬儀で経験したことが7割以上再現されているのではないかと思われるくらいの臨場感がありました。
他人事と思えば読み流すことも出来ようかとも思えるのですが、実際に読んでいくと「それで、それで」となってしまい(^_^;)妙にイヤな気分になるようなエピソードばかりのこの小説、途中でその一族になったような気になり、うんざりとするのでした。
そんな、どこの通夜・葬儀においても親族が経験するようなことを事細かに小説として表現されているのがこの作品でした。
最後はちょっと具合が悪くなりつつ読み終えました。
もう一篇の「夜曲」も、この作品のスピンアウト的に感じるような短編でしたが、もう“ごちそうさま”状態になり、“げっぷ”をしながら読みました。
様々な人の人生模様、ごちそうさまでした。
『一杯飲んで帰ります -女と男の居酒屋十二章-/太田和彦著(だいわ文庫)』を読みました。
2012年に KADOKAWA から刊行された「男と女の居酒屋作法」を改題し再編集の上、文庫化されたもので、2022年に文庫として刊行されています。
太田さんと言えば居酒屋ですが、この本では女として、そして男としてそれぞれに居酒屋に行くときに知っておくと良いこと、また、異性を誘って居酒屋に行くときの心得のようなことが書かれていて、紹介される居酒屋はなかなかの処ですが、アドバイスは居酒屋初心者向けとなっておりました。
居酒屋でもおしゃれな町がいい、なんていう女性向けには麻布十番の「たき下」というお店が紹介されていました。
まこかれいのお造りを頼み、ガラス皿に盛った白い半透明の美しいことによろこび、厚切りなのに半透明で、薬味のはじかみ・山葵も二人用に二盛りしているのがニクイ、などと居酒屋に実際に行ったかのような紹介の仕方も楽しい本でした。
この麻布十番の居酒屋の章では、「夏の麻布十番納涼まつり」の“にぎやかさ”も紹介されていました。
私が東京勤務の時にはこのお祭りに参加し、実際にテントを出して飲み物を売ったりしたこともあったので、とても懐かしかった。
見栄を張らなくてもよい、ちょうどいいお店が次から次へと紹介されていましたが、でも実際は一度は行ってみたいと思わせる老舗も入っていて、心憎いチョイスに、さすが太田さんだと思ったのでした。
私の住んでいるところは田舎で、ちょっと歩けばそこいらへんに居酒屋があるというわけではなく、“行きつけ”の居酒屋なんて見つけずらいのですが、それでも電車で一駅・二駅くらいのところに一人呑む居酒屋なんてものを見つけたいものだと思ったのでした。
『柿喰ふ子規の俳句作法/坪内稔典著(岩波書店)』を古本で見つけ、読みました。
2005年第一刷発行となっておりました。
子規がおらなんだら、今の俳句隆盛は無かっただろうと思わせる本となっていました。
著者坪内氏の子規への思いは強く、読みだしてからどんどん坪内氏の思いが伝わってきて、私の知らなかったことばかりであった子規への知識が読むほどに増してくるのでした。
病気という不運を“病気を楽しむ”という思考に転じ、生活そのものも、創作活動も「楽しむ」という“人生の作法”にはただ感服いたしました。
私は、今年三月から俳句を詠み始め、まだまだ“超”初心者ですが、この間、「自由律俳句」の本を読んでみたり、その他、割と前衛的な印象の俳句本なども読んでみましたが、季語が無かったりして、どうもしっくりこないのでした。
あらためて季語が有り、五・七・五を基本とする俳句が一定の“縛り”はあるものの、逆に想像を掻き立てられたり、余韻が出たりと、自分には一番“合う”のではないかと感じているところで、この子規を深く研究・探索した本は「それでいいんだ」と後押ししてくれたような気がしました。
また、子規が旧来の俳句を短い人生の中で選別・区別の作業をしてくれたことで、その後の俳句の道筋が出来たことも知り、その存在が実に貴重な人であったこともわかりました。
さらに、“月並”と評し、従来の決まり切った表現よりも「写生」が大事だということ、そして“とりあわせ”という概念も提示してくれたことで、まさに今の俳句が一般に楽しまれている状況があるのだと思い、うれしくなりました。
とてもいい勉強になりましたし、楽しい本でした。
これからも座右の書としたいと思います。
映画『お隣さんはヒトラー?(MY NEIGHBOR ADOLF)/2022年 イスラエル・ポーランド合作 監督:レオン・プルドフスキー 脚本:レオン・プルドフスキー/ドミトリー・マリンスキー 出演:デヴィッド・ヘイマン、ウド・キア』を見て来ました。
映画の舞台は、第二次世界大戦終結から15年が経過した南米のコロンビア。
ホロコーストで家族を失い、一人生き延びた主人公は町外れの一軒家で穏やかな生活をしていましたが、隣に引っ越してきたドイツ人を見て・・“ピーン”ときたその主人公。
引っ越してきた男は、自殺したと言われていたが、実は生存しているのではないかとも噂されるアドルフ・ヒトラーではないか、と疑い始めます。
いがみ合ってなかなか仲良く出来ない二人でしたが、チェスをきっかけに少しずつ関係を築きいていきます。
それでもヒトラーであることの疑いは消えず、いろいろな証拠を探し出す主人公。
それがユーモラスでもあるが、しかし、家族を皆殺しにされた主人公は、疑いの目を捨てず、それでも心が通い合うようなシーンも見られ、微妙な関係が続きます。
結局、隣人は本当にヒトラーだったのか?
それはこの映画の一番肝心なところなのでここに書く事は出来ませんが、私の想像とは異なっていた・・ということだけ申し添えておきます。
意外な展開は、この映画をより深く、そして感動的にしていました。
今年見た中でも傑出しているように感じました。
ユーモラスな場面も多くありますが、謎と恐怖と感動がやって来るこの作品、見る価値があるものでした。
『しがみつかない生き方/香山リカ著(幻冬舎新書)』を古本で見つけ、読んでみました。
2009年第一刷発行のものです。
この本が書かれてから15年を経ているのですが、現在の社会の状況を見ると、ここに書かれていることがより進化したというか、具体化され、深刻化しているのではないかと感じました。
特に強く書かれていたのは、小泉改革を経て、日本社会は他人のことに思いを馳せる余裕がなくなり、自分のことしか考えないメンタリティが強くなったのではないか・・ということでした。
今現在の社会状況で私が感じるのは、上記のようなことを顕著に示しているのは「政治家」ではないか、ということです。
近年、いろいろなことが明るみに出て、政治家はほとんど“脱税まがい”のことをして裏金を貯め、国民には素知らぬ顔をしています。
能登の地震であんなに被害が出ているのに、その県の知事も国会議員もそこで苦しんでいる国民には関心が無さそうに見える。
特定の宗教集団にべったりだが、悪びれるところがない。
大手不動産から一定の見返りがあれば、百年の歴史を持つ森など平気で伐採する。
大きな広告を持つ企業からも見返りがあるのでしょう、子供騙しの映像をビルに映して数十億のお金をジャブジャブ使う。自分の金じゃないから知ったこっちゃないのでしょう。
知らぬ間に日比谷公園まで破壊しようとしていると聞きました。
さらにこの本に書かれているのは、現在の自分の状態は決してそんなに不幸でもなく、むしろ幸せなんじゃないか、と傍から見て思えるような人が「まだまだ幸せになれる」とか「私の実力はこんなもんじゃない、だからもっともっと幸せになれるし、皆から羨ましがられるくらいの身分が相応だ」という自分中心の人が多くいるということでした。
逆に自分を卑下して、「生まれてくるんじゃなかった」とか「何のために私は生きているの」と思う人も増えているのだとも書かれていました。
そして、過去にひどいことを言った人のことや、現実に起こったひどいことは絶対に忘れないが、過去の嬉しかったことや、楽しかったこと、人生の中でのハイライトのようなシーンは悉く覚えていないというのが自己を卑下する人の特徴であるという。
15年ほど前に書かれたこの本の内容が、今、如実に表面化しているような気がします。
「自分はもっと幸せになれるはずなのに」という人と「自分ほど不幸な人間はいない」という人・・どちらもある意味“病んでいる”のではないでしょうか。
そして、世の中は増々“いびつ”な様相を呈しているように思います。
SNSなどでの誹謗中傷や、罵り合い、政治家の発言、行動についても、もう一定の域を越えて醜い人間社会を体現しているかのように感じます。
しかも、日本の報道の自由度が発展途上国以下になっていると最近また発表されたことを知り、暗澹たる気持ちになったのでした。
そんなことを香山さんのこの本を読んで、あらためて感じたところです。
カセットテープや、今やほとんど見ることのないMDに15年以上前に録音したラジオ番組が残されています。それを聞きながら一句詠みました。
【 古いラジオの録音聞く 夏座敷 】
《背景》季語:夏座敷[夏]
ここ最近、15年以上前のラジオ番組の録音をあらためて聞いている。
そんなに変わり無いのかと思ったら、話しのテンポも掛かる曲も割とゆったりしていて、しかも今と違ってどうでもいいような話しは少なく、心に残る内容が多いことに驚いた。
こんなラジオ番組を聞くには、夏を涼しく過ごそうとした昔の夏座敷が似合うと思った。
襖や障子を取り外して風を通したり、籐の敷物や茣蓙などを敷き、麻の座布団にしたり・・そんな夏の座敷を懐かしく思った。
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