2024九月会展@画廊ジュライ
既にインスタなどでご紹介した、千葉市中央区の「きぼーる」2F画廊ジュライで開催されていた『2024九月会展』、本日最終日でした。
私の中学時代の担任で美術の先生だった南隆一先生から夜に電話があり、今回は全日千葉まで行って画廊につめたとのことで、“喜寿”の先生、旭市から毎日通われて大変だったと思います。
・・今の私でも体力的にはかなりきついかもしれません。
先生・・尊敬してます、いつも。
既にインスタなどでご紹介した、千葉市中央区の「きぼーる」2F画廊ジュライで開催されていた『2024九月会展』、本日最終日でした。
私の中学時代の担任で美術の先生だった南隆一先生から夜に電話があり、今回は全日千葉まで行って画廊につめたとのことで、“喜寿”の先生、旭市から毎日通われて大変だったと思います。
・・今の私でも体力的にはかなりきついかもしれません。
先生・・尊敬してます、いつも。
『本はこれから/池澤夏樹編(岩波新書)』を読みました。
2010年第一刷発行の本で、いよいよ電子書籍が今までの“紙”に印刷された本を凌駕するのではないか、などという話が出てきた頃でしょうか。
そして、もし“電子書籍・隆盛”ということになって来たら、書店、古書店、図書館、取次、装丁・編集、書き手、読み手はどうなっていくのか、という、“本好きな私”にとって重大な件について、三十七名の様々な立場の人達からのエッセイがまとめられていました。
そんな本を14年後の今読んでみたわけです。
エッセイの内容は、それこそ、それぞれの方が“ばらんばらん”でした(^_^;)
本屋などでの本との偶然の出会いが人生上も、研究などをしている時は仕事上も大事なのだ。だからデジタルなんてとんでもない。という意見。
デジタル化していく時点で日本は遅れを取る、しかも古文書などは画像として残さざるを得ず、文化そのものの喪失があるという意見。
デジタル大歓迎、場所は取らないし、検索が容易になって膨大な知識が手元にある環境はとても自分にとって役立つという意見。
電波を通じて情報記号を吸い取るだけの端末を一台持つことの「便利さ」という詭弁とひきかえに書物なる多様体への信頼を捨てることになれば、私達は書物というイデアのなかに蓄積されてきた身体と知性をめぐる記憶のすべてを、市場と効率性の原理へと売り渡すことになる、という・・私の意見ともかなり近いものもありました。
古書を扱っている人は、「当面は何の影響もない、取り扱う古書はいくらでもあるし、百年は大丈夫」と、電子書籍化など“どこ吹く風”なご意見もありました(*^^*)でも、そりゃそうだとも思いました。
特定の、特にアメリカの企業が独占的に書籍情報を収集し、コントロールするのではないか、という意見もありました。
これからもずっと共存せざるを得ないのだ、デジタルの利便性と、紙の本という人間にとってのメリットは、どちらかになってしまうということはない、という意見もありました。
デジタル化した文書は、結局保存するメディアや、方式がどんどん進化・変更されるので、更新を常に続けねばならず、その作業量は膨大であるという意見・・間違いなく発声する・・もありました。
さあ、この本が出てから14年を経ている現在、どうなっているのかというと、当時言っていたような電子書籍の発展・隆盛はそんなに感じません。
かと言って、駅前の書店などはどんどん閉店し、大型書店も閉店していく中でまだ残ってはいますが、そこにはメジャーな通りいっぺんの本しかないことが多く、“本との出会い”なんて本好きの人間にはとても満足できる状況ではなく、アマゾンなどで書籍を購入する人はたくさんいるのでしょうが、結局そのとき必要な本をピンポイントで探し、買っているだけです。
私が思うに、電子書籍で本を読もうなんて人に、あまり本好きはいないと思うのです。
必要だからこれは読んでおかなきゃ、という人、あるいは単に電車に乗っているときなどのヒマつぶしということもあるかもしれない。
本好きって、偶然の出会いも大切だし、本そのものの存在、手触りや読み進むうちに残りページを意識しつつ味わっていく感じ、読み終えたときの独特の感覚は現物の本を手にしていないと感じることは出来ません。
以上、この本の中で語られていることと、私の意見も交えて感想を書いてみました。
そして私は、これからも年間約150冊の本を読む生活を続けていくのでした。
『すごい言い訳!/中川越著(新潮社)』という本を読みました。
2019年発行の本ですが、古本で手に入れました。
内容としては・・浮気を疑われている、生活費が底をついた、原稿が締切までに書けない、酒で失敗した、などなどのことから相手方に自分の文筆力を生かして ^^; 手紙等で言い訳する文豪達の実際の文章を紹介し、解説するという本です。
芥川龍之介、谷崎潤一郎、林芙美子、武者小路実篤、太宰治、宮沢賢治、室生犀星、森鴎外、川端康成、まだまだ文豪のお歴々の「言い訳」が次から次へと紹介されていくのです。
二股疑惑をかけられ、命がけで否定する芥川龍之介
下心アリアリのデートの誘いを見事に断る巨匠、樋口一葉
恋人を親友に奪われ、やせ我慢する寺山修司
などなど(^_^;)どれもこれも文豪が書いた手紙や詫び状だから、なんだかありがたいような気になるのですが、けっこう見苦しかったり、恥ずかしいところがあったりで、同じ人間なんだな・・などと安心したりもするのでした。
特に借金をするときの“図々しさ”や、日頃の無作法を詫びるときの本当に詫びているのか?と思えるような傲慢さなども特筆すべきものがあり、今となっては笑い話として読めるものとなっておりました。
やらかした失礼や失態についての言い訳も見どころが多く、挙句に素人でもなかなかやらない「深酒で覚えていない」という言い訳をする北原白秋も“強行中央突破”的ですが、時代が時代なだけに、まあなんとか許されたのでしょう、面白かった(^-^;
今や、手紙など「紙」として証拠に残るような形での言い訳は珍しくなりましたが、「紙」故に残っていた数々の言い訳、実に興味深く、人間の機微を知るところとなりました。
『全身翻訳家/鴻巣友季子著(ちくま文庫)』を古本で読みました。
著者、鴻巣さんは翻訳家で文芸評論家、この本はその鴻巣さんのエッセイ集です。
2007年に「やみくも」というタイトルで刊行されたものを組み替え、加筆・修正し、さらに新聞、雑誌等に掲載されたエッセイも追加して発行されたものです。
鴻巣さんは小さい頃から色々な“習い事”を親に言われてやったようですが、文科系も運動系も苦手なものばかりで身につかず、でもあるきっかけから英語に興味をもって、「将来は翻訳家しかない」という思いを持つようになり、それを現実化したということが、読んでいてわかりました。
翻訳家って、ただ小説などを翻訳していればいいというわけではなく、その作品自体の“読み解き”が出来るかどうかだとご本人も書かれていましたが、このエッセイを読んでいるだけで、鴻巣さんの独特の視線というか、作品からその“匂い”を感じ取り、心憎い翻訳をされているのが例示されている翻訳を読んでいてもわかりました。
実際に外国に出掛けて行った鴻巣さんの旅の様子も書かれていましたが、街並みやホテルの様子、出会った人、それにこれも驚いたのですが、外国のお酒には滅法詳しい!しかもマニアックかつ、外国小説に出てきたお酒はこれだろう・・という推察も玄人です。
また、細かい言葉遣いなどにも気を配られていることもわかりました。
「ドタキャン」や「まゆつば」「かもねぎ」「早弁」などは略して言うことでしか表現できない気分が漂っているが、「半端ではなく」を「半端なく」と言ったり(※若者言葉の“ハンパない”とは違う元来の意味で)、「正直言って」を「正直」、「基本的に」を「基本」と言ったりすると、一字二字を惜しんで忙しがっている感じがして、野暮ったい、ともおっしゃっています。
これについては、私も同感です。
仕事をしていた時にはそういうタイプの人には警戒しました。油断ならない人が多かったので。
色々書きましたが、翻訳家の“生態”のようなものもわかり(*^^*)面白い本でした。
『言葉のゆくえ 俳句短歌の招待席/坪内稔典・永田和宏(京都新聞出版センター)』という本を古本で手に入れ読みました。
この本は、俳人、歌人を代表するような坪内稔典さん、永田和宏さんのお二人が、「笑い」「卒業」「送り火」などのキーワードを挙げて、俳句・短歌それぞれに句・歌を持ってきてそれを鑑賞し、さらにお二人が詠んだそれぞれのキーワードに関連する句・短歌を互いが鑑賞・批評するという形で構成されていました。
同じキーワードで俳句と短歌を鑑賞すると、読者の私にもその感触がかなり異なることがはっきりとわかりました。
この本の中にはお二人の対談形式のコーナーもあるのですが、そこで俳句初心者の私も初めて知ったというか、認識したのは短歌はもともと格調高いというか、人事や日常の些事を歌っていたものではなく、俳句は私が思っていたのとは逆にけっこう下品なことを基とするような感じだったんだということ。
たぶん私が多くの短歌にふれたのは、俵万智さんの「サラダ記念日」以降なので、短歌は日常の出来事や感じたことを自由な感覚で歌っているものだという感じに受け取っていたのだと思います。
そして、現在は実際にそんな感じになっているのかもしれません。
短歌に詳しくないので言い切れませんが。
逆に俳句についは、テレビ番組などで、愉快なものなどもありますが、季語や五七五という限られた文字数で拘束されているので割と“固い”感じで、美しいものや芸術的なもの、自然の光景などが詠まれていて、格調高いものが多いなどという認識になっていました。
しかし、その成り立ちからいうと逆なんですね。
紹介されている俳人、歌人らの句・歌はそれぞれに俳句と短歌の特徴がよく出ていて興味深く、たのしく読みましたが、坪内さん永田さんの丁々発止の対談でのやり取りも面白く、“仲良く喧嘩”している感じで微笑ましいものがありました(#^.^#)
私自身、まだ俳句を詠み始めたのはこの三月からですので、短歌の方に足を踏み入れるのは先のことになると思いますが、俳句とは異なるアプローチで様々なことを歌ってみたいという気持ちはあります。
ただ、気をつけねばならないのは、この本にも書かれていましたが、今現在の短歌は現在の自己の思いや考えをかなりリアルに突き詰めているようなものが多く、自分というものを見つめ過ぎて“ドツボ”に嵌まり、精神的に身動きが取れなくなりそうなこと・・。
俳句は逆に字数が少ないので、精神的には余白と自由度が高く、書いていて自分の考えとは逆のことを詠んでも、「それもいいかも」と思えてしまう部分があります。
とりあえずは、今感じている俳句の良さを自分のいいように取って、俳句を楽しんでいきたいと思っています。
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