八日市場市で開かれていた「第18回 匝美会展」に出かけてきた。
このあいだ、匝瑳市立八日市場公民館で開かれていた『第18回 匝美会展』に妻と行って来ました。
「匝美会」というのは、匝瑳高校のOBの方々の美術作品を年一回の周期で展示する展覧会のようでした。
そこに、私の中学時代の担任で美術の先生も出展されていたので、出かけたというわけです。
相変わらず、先生のガラス絵は楽しく、愉快な魚が泳ぐ海の世界が描かれていました。
このあいだ、匝瑳市立八日市場公民館で開かれていた『第18回 匝美会展』に妻と行って来ました。
「匝美会」というのは、匝瑳高校のOBの方々の美術作品を年一回の周期で展示する展覧会のようでした。
そこに、私の中学時代の担任で美術の先生も出展されていたので、出かけたというわけです。
相変わらず、先生のガラス絵は楽しく、愉快な魚が泳ぐ海の世界が描かれていました。
『絶対音感/最相葉月著(新潮文庫)』を読みました。
妻がブックオフで買って来たもので、「これ、読みたいんじゃないかと思って」と手渡されたものです。
たしかにこれが出た頃(1998年)に気にはなっていましたが、ページ数も多いし、読み切れるかな、と不安になり手を出さずじまいでした。
「絶対音感」って、私もその言葉については知っていました。
ようするに、楽器等から出た音を聞いて「ド・レ・ミ・・」のどの音かわかる、しかも音楽を聞いていると言語のようにド・レ・ミに聞こえてくるのだ、という・・( ̄O ̄;)私には信じられない人がいるのだそうです。
二十代の頃、あるバンドのオーディションを受け、ドラムとして私が入ったグループのギタリストが絶対音感を持っていました。
楽屋で出番を待っている多くのバンドがアンプを使ってしまうと音が大きく出てしまい、チューナーなどという便利なものもない時代で、ギタリスト達が困っていると、その絶対音感の彼が、エレキギターのあの小さな生音を耳を寄せて聞き、チューニングしてあげていた姿を思い出します。
読んで見ると、日本では、この絶対音感が音楽教育においてかなり重きを置かれていたというか、今でも重要視されているようです。
また絶対音感が発達している人は左脳部が大きく、活発になっているらしいです。
なんとなくわかるような気がする。
街を歩いていても、いろいろな音がド・レ・ミで聞こえてしまい、集中できない・・という人もこの本では何人も出て来ました。
音楽家には役立つ絶対音感も、学生時代には無音じゃないと勉強出来ないなど、様々な困難もつきまとうようです。
戦時中、日本軍でも、敵の船のモーター音や、スクリュー音、敵機の飛んでくる機種を判別しようと絶対音感の訓練もされていたとのこと。たしかに使えそうだが、音楽的なことを軍事利用するとはねぇ・・。
しかも日本で440ヘルツを基準に絶対音感を得た演奏家が、海外の442ヘルツ基準のコンクールで“音の狂い”を感じてしまい、困った様子も書かれていましたが、「絶対」の基準を持ってしまうのもつらいことなんだと知りました。
でも、結局絶対音感を得て、テクニックも訓練で超絶的になっても、それが音楽として人を感動させられるのか、ということになると、それはまた別の話、ということに後半部分でふれられていて、“そのあと”というものがあるのだと、私も納得しました。ここにも書かれていましたが、日本人はテクニック的には一流だけど、音楽的にはもう一つ・二つ物足りない演奏家が多いというのもなんだか納得d(^_^o)
最後に、絶対音感を持っている人は、その楽曲の「調」によって、「色」を感じる人が多いとのことで、さらに絶対音感を持たない人でも「共感覚」という、音を聞くと色が見えてくる人もいると書かれている部分が気になりました。
実は私は絶対音感なんて全く持っていませんが、「共感覚」を持っていて、小さい頃から音楽を聞くと次々と様々な色彩が目前を流れて行くのです。
大人になるまで、人は皆そういうものだと思っていたのですが、どうやらそうではないと後に知ったのです。
絶対音感の人が曲の「調」で感じる「色」と、「共感覚」で感じる「色」は、ちょっと似たようなところもあるのかもしれません。
400ページ以上もあるこの本、最後まで読みましたが、最相さんの様々な関係者へのリサーチの量と、その奥深さに圧倒され、難しくて読み切れない部分もたくさんありました。
なんとなく「絶対音感」のことがわかった…σ(^_^;)というところまでで終了してしまいました。
この古民家美術館の様子については、Instagram経由で別途ご紹介しようと思っていますが、素敵なところです。
ユン・ソベさんという芸術家でアジアの美術界では重鎮の方が代表をされ、まだここ二年くらいで作り上げた美術館です。
ユンさんと、もうひとかた、地元の作家、スズキ・ラナさんの作品、そして南先生の作品が、現在展示されています。
ユンさんとラナさんの作品も後日Instagram経由でご紹介しようと思っています。
ということで、私の先生、南先生の作品の一部をこのブログではご紹介いたします。
『カキフライが無いなら来なかった/せきしろ×又吉直樹著(幻冬舎文庫)』という本を読みました。またもやブックオフにて超安価購入。
これは、妄想文学の鬼才「せきしろ」氏と、あのお笑いと文学の奇才&異彩を放つ芸人のピース「又吉直樹」氏が五七五の形式を破った自由律で詠んだ俳句を収録したものです。
さらにお二人の取った写真や、文庫用書き下ろしの文章まで収載されていて、実におもしろい本でした。(※2009年に刊行されたものの文庫化です。)
タイトルにある又吉さんの
又吉:「カキフライが無いなら来なかった」・・は、見た瞬間にニヤッとしてしまいましたが、傑作なのかなんだかわからないけど、とてもいい!
ついでに著者お二人の自由律俳句で私が気になったものを一部ご紹介いたしましょう。
せきしろ:「結婚式の写真を見なければいけない流れ」・・これも実に“感じ”が出ている(^_^;)
せきしろ:「自己紹介の順番が近づいてくる」・・私の心に“ズキュン”と刺さりました…σ(^_^;)
又吉:「別れ話の男女の前を赤帽が二台通過」・・なんか、身におぼえのあるような光景(^_^;)
せきしろ:「号泣しながらも三輪車は漕いでいる」・・あるあるですd( ̄  ̄)
又吉:「熟年カップルが影と影にキスさせてた」・・ちょっとレコード・ジャケットっぽい印象がありつつ、深い感じがとてもよかった。
などなど、いいんだか、なんだかわからない作品が次々にあらわれる作品集的な本でした。
自由律って、どこまで自由でいいのかと考えると、「自由だからどこまで自由だ」ということも言えるのかもしれませんが、でも、何か“縛ってくる”ものがあって、その魅力に気づかせてくれました。
又吉さんの不思議な魅力をまたひとつ発見しました。
Instagram経由で表題の「アートギャラリー古屋敷」を Facebbok でもご紹介していますが、今回はブログ経由でご紹介いたします。写真もけっこう撮ったのでd(^_^o)
大網白里町の下ヶ傍示(さげほうじ)60番地にある「アートギャラリー古屋敷」。
私の中学時代の担任で美術の先生と電話でお話ししている時におそわったギャラリーです。
“自然たっぷり”で、庭園も楽しめるし、庭園内に点在している展示室、収蔵庫、作業場などを見て回っているのがとてもいい時間になります。
午前中、早くに行き妻と庭園内を散策しながら作品を見ていると、主宰の吉田文也さんから声をかけていただき、お話を聞くことができました。
母屋も別棟も天井を張っていない部分が多いので、大きな作品も堂々と展示されていました。まさに見上げる感じ。
そして、主宰・吉田文也さんの奥様の版画も母屋にたくさん展示されていて、“あたたかく”、“ほのぼの”とする作風に私も妻も見とれました。見とれ過ぎて写真を撮るのを忘れました…σ(^_^;)
今月13日まで開催されていた、私の中学時代の担任で美術の先生、「南隆一先生」の絵や造形の展示について、遅れましたが事後報告です。
毎年開催されているのですが、今回はちょっと世間で流行っている感染についても心配してしまい、“恐る恐る”出掛けました。
会場内でちょっとしたアクシデントもあり、なかなか書き出すことができずに今になってしまいました。
まずは目に付いたのが、「寅年」にちなんだのか、虎を模したオブジェ(*^^*)
先生、あいかわらずエンジンの調子は良さそうです。
日曜朝の立川志の輔さんがゲストを迎えて、そのゲストと二人で落語を聞くという番組を聞きました。
ゲストはBS日テレ「深層NEWS」の隔週金曜日を担当する鈴木あづさキャスターでした。
報道局の現役記者で、最近は「水野梓」の名で社会派ミステリー小説も書いて作家デビューもしています。
志の輔さんと二人で聞いたのは、五代目・柳家小さんの「粗忽長屋」でした。
話は、身元不明の行き倒れが出た現場に出くわした八五郎が、死んでいるは同じ長屋の熊五郎だと言い、今から本人の熊五郎に「お前が死んでいる」と言って連れてくると長屋へ引き返します。
熊五郎はワケがわからずに説得され、現場に二人でやって来て「これはオレだ」と悲しみます。
周囲の者はそんなわけないと呆れるが、熊五郎も八五郎も納得しない・・(^^;)という話なんです。
小さんの“引き”の芸が見事でした。聞いているこっちも身を乗り出して現場の輪に加わっている感覚になりました。
この「粗忽長屋」を小さんの弟子であった立川談志は、『主観長屋』とタイトルを変えて演じていたそうです。
ようするに、粗忽などということでは計りきれない“強すぎる主観”を持つ人が起こす騒動ととらえたのです。
常識と非常識の戦いです。
死体を見守り、誰かこの人を知らぬかと言っているのが常識側。
この死体本人に死んでいることを教えてくる・・というのが非常識側。
なんだか自分が死んでいると説得されてしまう中間にいるのが、熊五郎。
非常識も細部だけ見ればうなずけるところがあり、それを積み上げると相手を納得させてしまう。
そして、“問題なのは”→非常識側の人間は、自分ではそれが常識だっ思っているということ。
なんか“超最近”に起こっているどこかの国の大統領・・非常識側の八五郎と“瓜二つ”です。
これは、この日のゲストの鈴木あづささんも気づいて、中国の幹部の人達にインタビューしたときも、世界が見ている中国と、幹部が見ている世界の中の中国はまるで異なっていて、まったくそれに気づいてもいないということでした。
落語を聞いただけで、これだけのことを考えることが出来たのですが・・あの戦争を止めない大統領、日本の柔道好きで知られていますが、落語も好きになって、「粗忽長屋(主観長屋)」を聞いてもらい、「あっ!」と、自分の非常識に気づいてもらいたいものです。
『短歌入門 -実作ポイント助言-/秋葉四郎著(飯塚書店)』を読みました。
これは、私が中1の時、担任で国語の先生だった秋葉四郎先生が書かれたものです。
何度かこのブログ内で書きましたが、この正月に古書店で手に入れた「房総のうたびと」という千葉の短歌作家の紹介・研究本のようなものを見ていたら、その中に私の中学時代の先生の名があったのです。
そして、先生の住所を教えてもらい、先生が高名な歌人であることを知り、その作品にもふれ、うれしくなったと手紙を送ったのです。
そうしたら、先生(現在85歳)からお返事と、先生の歌集、そして今回ご紹介する「短歌入門」が届いたのです。うれしかった!!
この本は、先生が75歳の時に発刊されていますが、読んで見ると、実に若々しい文章で、ますますうれしくなりました(*^^*)
そして短歌を詠むことの喜びにあふれ、いつも歌を詠むことが頭にある・・とおっしゃっています。
先生の歌は、奇をてらったようなものは無く、実に自然体だし、逆にそのことによって感動が増しているように感じました。
私が今まで短歌にふれることがなかったので、珍しいかどうかはわかりませんが、様々な方の歌に対して、先生の添削例がたくさん載っていました。
これが、どれも適切で、「なるほどなぁ」とうなずくばかり…σ(^_^;)
中1の時に、先生から短歌を教わりたかったなぁ・・と思いました。
きっと中学生の短歌、おもしろいものがいっぱいになったに違いありませんd(^_^o)
今のところ、まだこの本や、先生の歌集の短歌を味わってばかりですが、先生からのお手紙に「ぜひ、短歌をやってください」と書かれていたので、今後チャレンジするかもしれません!
『歌集 街樹/秋葉四郎著(短歌新聞社)』を読みました。
今年に入り、古書店で見つけた「房総のうたびと」という本に「秋葉四郎」という歌人の名を見つけ、それが私の中学一年のときの担任の先生であったことに気付きました。
中二・三年の担任であった美術の先生とは今だ付き合いがあるので、その先生に秋葉四郎先生のご住所をご存じないかと問い合わせ、秋葉先生にお手紙を差し上げたところから話は始まりました。
私が“本好き”になったきっかけは、中一のときに秋葉先生から放課後「これを読んでごらん」と渡された三冊の本でした。
それからは“本の虫”となりました。
話は戻って、私がお手紙を差し上げた先生は、ご健在なら八十五歳。
既に書きましたが、先生からお便りが届き、先生の歌集と、先生著作の短歌入門まで同封されていました。
さっそく歌集を読んでみました。
この歌集に入っている「歌」は、ちょうど私が先生に教わっていた頃と、その前後数年です。
あの、三十代だった頃の先生の姿を思い浮かべながら、先生の歌に接しました。
秋葉先生の師である、佐藤佐太郎氏に従ってオーストラリア、ニュージーランドや、その後のアラスカ、シンガポール、マレーシア、インド、マニラ、ロスアンゼルス、サンフランシスコの風景様子を描いた歌も印象的でしたが、私には、中学教師時代に書かれたものが衝撃的なくらいの印象を受けました。
奥さまと共働きで教師を勤め、喘息持ちの幼い子供さんを保育園にあずけながらの日々の厳しい現実と対峙するように、真っ正直に書かれた歌に心うたれました。
美しい歌も数ありましたが、でも
〇吾に拠り生きつつ幸ひの薄き妻この玄関の灯のうちにゐる
〇室内に衣類干しつつ頽廃の日々のごとくに妻と勤むる
〇預けつつ育て二歳になりし子が朝はみづから衣服をまとふ
など、あの頃、きちっとスーツを身に着け、颯爽として厳しかった先生からは想像できないものでした。
後記で先生が書かれていたのですが、「あらゆる芸術に功利性はない筈だが、芸術に関係なく人は生きられない。何らかの形で芸術はその人の糧となり生を支えているようである。真詩としての純粋短歌は単なる小文芸にとどまらず、本物の芸術としての力を発揮している。」とあり、まったくの同感を覚えました。
〇折ふしの怒りに自浄作用ありわがからだ軽くなりて歩みつ
先生の「怒り」は、雷鳴のごとくでした。ものすごく恐かった。
あの怒りが自浄作用のひとつだった・・(^^;)のかと思うと、私も先生に何度か自浄作用を起こさせていたのかもしれない…σ(^_^;)
先生の短歌についての作品研究と、先生の“人物”“人となり”などについても書かれていて、とても懐かしく、また当時先生から放課後にクラスの中で三人呼ばれて、それぞれに三冊ずつ「読んでみなさい」と本が手渡されたことがありました。
これがきっかけとなり、私は今に至る“本好き”となったのです。
先生には、今でも感謝していたのですが、調べると先生はご健在であれば、85歳になられているということがわかりました。
このブログによく登場する、同じく中学校の二~三年の担任で美術の先生に連絡を取り、秋葉先生のご住所をご存じないか?とたずねると、調べてくれて、私はお手紙を出すことにいたしました。
それから一か月、特に音沙汰もなく、「ひょっとして・・」などとよからぬ心配までしておりましたが、昨日、お手紙がが届きました。
あなたのことはよく覚えていますよ。
心打つお手紙ありがとう。
私のライフワークである短歌作品に気づいてくれてうれしい。
私の書いた本、「歌集・街樹」、「短歌入門」の二冊をさしあげるので、読んで見てください。
などとお手紙に書かれていて、涙が出ました。
先生は、今でも東京で歌人としての活動をされているとのこと、そして地元千葉でもカルチャー教室で短歌を教えられていて、さらに自らの短歌結社〈歩道〉でも活動されているとのことでした。
まだまだお元気で、こんなにうれしいことはありません。
さっそく、先生の歌集と短歌入門を読んで、短歌に親しもうと思っているところです。
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