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2023/03/03

おんじゅくまちかど・つるし雛めぐりに行ってきた

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すでにインスタ経由でfacebookにも載せたのですが、ブログを読んでいただいている方も数多いので、ブログ経由でもご紹介しようと思います。

御宿町観光協会・御宿町商工会などが中心となる実行委員会が行っている表題の「おんじゅくまちかど・つるし雛めぐり」に、妻、長女と行って来ました。
おんじゅくの町のいろいろなお店なども含めあちこちで「つるし雛」を展示しているものです。

 

 

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私たち家族はスタートが遅かったので、とりあえずメイン会場とも言える「月の砂漠記念館」と「手づくりの蔵」の二か所に行ってみました。

私はこの「つるし雛」というものをよく知らなかったのですが、妻と長女はとても興味をもっていたようで、私も“一緒に行ってみる”ことになったのです。

facebookでは“どお~ん”とたくさんぶら下がっている写真を載せたのですが、こちらブログでは割と近接して撮ったような写真を載せています。

いろいろな形のものがあって、見ているだけで楽しいし、とても明るい気持ちになりました。

 

 

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また、「月の砂漠記念館」の前には当然砂浜があり、そこには「旅の駱駝」に乗った、歌に出てくる王子様とお姫様の像がありました。写真では見たことがありましたが、初めて間近に見ました。けっこうインパクトのある大きな像でした。
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そして次に、「手づくりの蔵」へ。
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ここでも素敵な展示があり、案内してくださった方も、訪ねてきた人たちも、とてもフレンドリーでいい雰囲気が蔵に満ちていました。
こんな感覚久しぶりです。
近頃、“ささくれだった”気持ちの人がいたり、そんなふうにしなくてもいいでしょうと思うようなイヤな行動をする人が多く、沈み込んでいた自分の心が少し浮上したような気がしました。
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いい時間を過ごすことが出来ました。

2023/02/05

伊集院静さんの「誰かを幸せにするために -大人の流儀8-」を読みました。

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『誰かを幸せにするために -大人の流儀8-/伊集院静著(講談社)』を読みました。
一連のシリーズ化されたものですが、ブックオフで見つけると楽しみに買って帰ります。

前にもこのブログで書きましたが、伊集院さんのこのシリーズでは他の人のエッセイなどには見られない“歯に衣着せぬ”堂々たる書きぶりがあり、「そうそうそれが言いたかったんだけど、言えなかった」・・という気持ちになるのです。
だからまた読んじゃう^_^;

今回書かれていた内容で特に印象に残ったのは、大切な人や飼っていた犬などが死んでしまったときの悲しみについて。
それは結局消えることは無いのだけど、でも残された人が亡くなった人の想い出と共に生きていくことが大切なんだということ。
最近、私もそれを実感しています。涙が出てくることもあるけど、でも一緒にいろいろなことをしたあの想い出、この想い出を大切にすることが亡くなった人のためにもいいことなんだと思って過ごしているのです。

もうひとつ、自分でもどうしたらいいのかと思っていて、いい方法が見つからないこと。
コンビニの入口にペタッと座り込んで他の人の邪魔になっている若者や、今飲んだ飲料のペットボトルなどをその場に平気でポンッと置いていってしまう人。

伊集院さんはすぐに注意するのだそうですが、相手は返事もせずにちょっと避けたりするとのこと。で、奥さんが「何をされるかわからないから、やめて」と言う。
私も思わず注意してしまうのですが、妻に叱られるのです。

もっと極端な例では、以前、新幹線内で起こった事件について。
凶悪な人間が客を襲ったときに、女性客などを守ろうとして立ちはだかり、殺されてしまった方がいました。
伊集院さんは、自分もそうしただろうとおっしゃっていて、他の乗客を守り亡くなられた方への敬意について書かれているのです。
でも、これは難しくて、結論的なものは見いだせないです、私。

いつも自分で何かしら考えねばならないことが提示され、読んだあとも、しばらくずっと考えてしまう伊集院さんのこのシリーズ、まだ何冊か手に入れているのでまた読後感をここにアップいたします。

 

2023/01/31

鮎川誠さんが亡くなった

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ロック・バンド「シーナ&ザ・ロケッツ」の鮎川誠さんが亡くなったことを報道で知りました。
鮎川さんが大学在学中に「サンハウス」というバンドを結成していたのは当時、バンド名は知れ渡っていましたが、私はまだその音を聞いたことがありませんでした。

初めて鮎川さんのサウンドを聞いたのは、たぶん当時ラジオのニッポン放送でやっていたと思われる「スネークマンショー」に「シーナ&ロケッツ(※当時のCDを見ると“ロケット”と表示されている)」の曲「レモンティー」や「ユー・メイ・ドリーム」が掛かりだした頃からでした。

「レモンティー」は、ヤードバーズの「トレイン・ケプト・ア・ローリン」をシーナ&ザ・ロケッツ風にアレンジしたもので鮎川さんのギターは特筆もののカッコよさでした。

“生の”「シーナ&ザ・ロケッツ」を初めて見て、そして聞いたのは、1980年、ニューヨークのパンク・バンド「ラモーンズ」のコンサートが渋谷パルコの西武劇場(※当時の名称)で開催されたときのオープニング・アクトでした。

鮎川さんの「ラモーンズがどんな演奏するのか、俺たちも楽しみにしている」という挨拶と共にシーナ&ザ・ロケッツの演奏が始まり、骨太で硬派で、“剛球一直線”な演奏は凄まじいものがありました。
ラモーンズもそうでしたが、あんなデカい音量でロックを聞いたのは生まれて初めてでした。

「シーナ&ザ・ロケッツ」というバンド名もひょっとすると、ラモーンズの傑作アルバム「ロケット・トゥ・ロシア」と、その中の一番いい曲「シーナ・イズ・ア・パンクロッカー」から取っていたんじゃないのかな、とその時思いました。

鮎川さんがロックに対する考え方や、自身の生き方について語っているのを何度かテレビ・ラジオその他で聞いたことがありますが、不器用だけど、真摯で、そして熱い情熱を感じました。それに先立たれてしまいましたが、奥様のシーナさんへの愛も。

また愛用の黒のレスポール・スタンダード(1969年製・地元の友人から譲り受けたもの)がカッコよかったですねぇ。
鮎川さんはレスポールに「お前は凄いやつだ」と語りかけながらステージに上がっていて、ギターに対する愛情もギタリストならではの深いものを感じました。
何かで見た記憶があるのですが、そのレスポールのテール・ピースが割れていて、それでもなぜかガッシリとネジで留まっていて“気合い”でギターとしての機能を維持しているのではないかと思われるものでした。鮎川さんの魂そのものみたいなギターです。

鮎川さんの訃報を聞き、いろいろなことが思い浮かべられてこのブログに書いてみました。
これからはあちらの世界で奥様のシーナさんと再会し、また豪快なロックを永遠に続けていかれるのだと思います。

 

2022/12/31

2022年も暮れて行きます。

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写真は、今年のスケジュールを書いていた手帳です。
今年もあとわずか、数時間になりました。
去年、2021年は正月から入院、退院と慌ただしく大変なことになり、丸々一年間を体力回復に費やしました。
仕事も厳しい状態になり、辞めることに・・。
今年2022年は何とか前年よりも良い状態で迎えたのですが、前年暮れから体調に影が差す状況・・今年いっぱいは、また体調を戻すために我慢して我慢して、少しずつ元に戻して行きました。

三か月ほど前に体調回復の見通しがついたので、かかりつけの先生に相談し、先生理解のうえ、いったん薬類をすべてやめました。

自分の体力のみで頑張って体調を戻すようにしたいと思ったからです。
おかげさまで、先日血液や尿検査の結果が出て、ほぼすべて正常値に戻りました。
異常なほど減っていた血液もほとんど正常値に。
気力で薬なしで元に戻しました。日常生活や運動等を慎重に考えながらやってきたことが功を奏したようです。

コロナウィルス感染も第八波がやってきて、いったいいつまでこのような状態が続くのか不安なままで新年を迎えるとは第一波の時には思いもよりませんでした。
じっと我慢して今までどおり気を付けるしかないと、気を緩めずにいようと決意を新たにしているところです。

戦争もいやなことでした。
この時代にまだこのような暴挙に出る指導者がいることに驚きました。
しかもこの機に乗じて国会での議論を経ずに、今後新設はしないとあの大震災のときに言っていた原子力発電所を作ろうとしたり、廃炉にする時期が来た発電所の運転期間を何十年も延ばしたり、さらに10年も停止していたものをその期間はカウントせずに“空白の時間”を無かったことにして運転しようとしたり・・。
家電だって10年使わずにいたものを安心して使う人がいますかね・・。

そして軍事費も増額し、どのような防衛をするために何にいくら使うのかも説明せずに、これもまた議論なしに重要な事項を決定してしまいました。

「50年も経つと人は戦争の怖ろしさ、苦しみ、つらさを忘れる」と誰かが言っていましたが、そうなっているようです。
あのとき、「もういやだ、懲り懲りだ。夫が死に、息子が死に、父親が死に、残された家族は途方に暮れ、結局死ぬのは自分たちの家族で、中には帰って来れない戦闘機に乗せられた若者もいた。戦争とはこういうものだ。二度としてはいけない。広島や長崎には人類が人類に対して使ってはならない恐ろしい核爆弾が落とされた。こんなこと人間がしていいものか。」と思っていたのに、時が経てばあのときの人々の気持ちを忘れてしまう。
あのときそう思ったのは、“私たち自身”と言ってもいいのです。

どうしてもやりたいのだったら、国民に「私はこの国をこういう方向に導きたい、そのためにはこれが必要だ」と何時間掛かってもいいから説明してほしいものです。説明できればの話ですよ。出来ないから説明しないのです。

などと、つらくて暗い話をしてしまいましたが、なんとか新年は感染症が収まり、戦争も終結する年になってもらいたいものです。

なんとか生き延びて今年も終えようとしています。
来年は、自分のやりたいことをもっとどんどんやってみたいと思います。ひとりひとりが“生き生き”と“明るく”過ごせることがいちばんです。

 

2022/12/14

ことわりきれない自分をやめようと思った。

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私、何か頼まれて一瞬「ことわる」のを躊躇してしまい、そして・・ことわるチャンスを失ってしまうことが多々あります。
これがあとで思い起こす度に自分で自分にダメージを与えるのでした。

せんだって遠出したときに「もうちょっと帰るのは待っててくれ。会わせたい男がいる。お前の中学の一年先輩だ」というので一時間ちょっと待ってその人と会うことになりました。

東京からわざわざ特急に乗って来てくれた。とのことでしたが、私も40キロ以上ある道のりをクルマに乗ってやって来たのでした。

事前にうかがっていたことには、その人は学生時代も苦労して勉学に励み、理数系に抜きんでた才能を発揮して、そういった関連の会社に入り、たいそう重要な役職に就き、今も現役で重要ポストにいて日々活躍しているとのことでした。

お茶をしながらお話を聞いていると自身がどんな大きな仕事をしているか、どんな大物を知っているか、誰もが知っているあの現場は自分がやったのだ、という話でした。
コロナのワクチン接種は忙しいし、副反応で熱が37度以上出るからもうやらないと二回目の接種以降はしていないのを声高に話していました(そう思うのは個人の自由だが人に大きな声で言うことではないと思った)。

そして中学の一年後輩だと紹介してもらいましたが、上記のようなことを一方的に話すばかりで、少しばかり私のことを聞きましたが、ほとんど反応もなく、私にはなんの興味もないことはすぐにわかりました。

で、帰るのをちょっと待てということで紹介してくれた方からその人がきょうは私の地元から10キロほど離れたところで飲み会があるというので、私の町内の駅までクルマで送ってくれ、とのことでした。40キロ以上の道のりを初対面の人と車中で過ごす・・。

で、話は最初に戻りますが、躊躇してしまったわけです、ことわるのを。
私も家族も自分のクルマにはコロナ禍以降他人を乗せておりません。それは感染に十分に注意して、家族に迷惑を互いにかけないようにとのことからです。

でも、私が帰ろうとするとクルマまで来て乗り込みました。しかも驚いたことに後席に乗り込みました。・・私は“お抱え運転手”並みの扱いです。

後席の窓を開け、それじゃあと挨拶していましたが、ずいぶんと気持ちよさそうです。

クルマでの道中、話はまた自慢話がどんどん続きました。
しかもシートベルトをしていないのを確認しました。このあいだゴールド免許を更新したばかり、反則金と点数を失うのはいやだが・・以前上司をクルマに乗せたときにシートベルトをしてくださいと言ったら途端に機嫌が悪くなったことがあり、ここでも注意することを躊躇してしまった・・。

初めて会う人にこれだけ「誰それ(首相経験者やその他大物)を知っているか、私は会ったことがある」「そこにはかつて誰それの家が建っていた場所だ、立派な研究者だった、私は会ったことがある」などと立て続けによく言えるものだと思いましたが、そうでも言わなきゃ自分に“恐れ入らせる”ことができないと思っていたのかもしれません。

車中も私のことを聞いたのは、ほんの“ひと言・ふた言”で、とりあえず聞いただけで興味なんかなさそうでした。

駅に到着すると、降りたところの自販機でジュースを買ってくれましたが、疲れ果てて帰宅いたしました。

つまり“イヤな思い”以外無い出会いになってしまいました。
帰宅して妻に話したら激怒していましたが、私の「断り力」の無さがこの事態を引き起こしたわけで、今後は強く、嫌がられても、どう思われてもかまわないから断ることにします。
ここに『断言』いたします。今後一切いやなことは断ります。本日の言いたかったことは以上です。

 

2022/12/07

携帯電話入院中にいろいろ考える

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私の古い携帯電話、バッテリーが“へたって”しまい、100%充電完了したかと思うと
ちょっと“よそ見”した瞬間に1%になっているという^_^;状態になってしまい、「もうどうにもならんっ!」とバッテリー交換することになりました。

いろいろ正規じゃないやり方も調べるとあるようですが、正規のやり方で行うこととなり、ただいま現物を送って交換処理中です。

というわけで、携帯電話がないという状況は実に久しぶり。
ある意味“快適”な環境で生活しているのですが、何かを思いついたり、調べようとしたりしてスマートフォンを探すと・・「ああ、無いんだった」と何度も気づくことになるのでした。

また、LINEも使えないので、家族との連絡などにはたいへん不便な思いをしています。
“有って当たり前”の生活をしていると、いろいろ気づかないことがあるものです。

というわけで、SNS関係の方もあまり活発にアップすることをしておりません。
PCは使えるのですが、スマートフォンがないと気分が“いまいち”積極的な方向に行かないのでした。

たまにはこんな生活もいいでしょう。

交換作業を終えて携帯電話が帰って来たら、この際に中に入っていた音楽4500曲程度を“総入れ替え”しようと思っています。
気分を変えて再スタートです(#^.^#)

次にバッテリーが“へたった”ら買い替えだなあと思いつつ、携帯電話のご帰還をお待ち申し上げているところです。

 

2022/11/02

「大往生/永六輔」を読みました。

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『大往生/永六輔著(岩波新書)』を読みました。

1994年に第一刷発行となっていて、この本は2016年第96刷となっていますので、長年にわたるベストセラーであることがわかります。

この本もブックオフで購入したのですが、続編の「二度目の大往生」もすでに同店で購入していますので、それについても後日読後感を書こうと思っています。

タイトルどおり、この本は「死ぬこと」について書かれています。
前半は、すでに刊行されていてる「無名人名語録」から、「老い」「病い」「死」についての市井の無名人から得た“お言葉”が集められ、収録されています。
これだけ読んでも今の私の年齢で読むと、“重く”“つらい”・・。

思わず笑ってしまうような“お言葉”もあるのですが、なんだか“泣き笑い”になってしまいます。

そのあとは、永さんの仲間、歌手・淡谷のり子さんの「歌いながら死んでいきたい」という意志から発生したシンポジウムの様子。
さらに映画評論家・淀川長治さんが、毎年「今年の自分の命日」を発表するというおもしろく、不思議な行動についてなど、「死ぬこと」について色々な角度から話題を提供しています。

永さんは「中村八大」「いずみたく」という稀代の作曲家とコンビを組んで「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」などを生み出していますが、突然作詞をやめて25年間の沈黙を守ります。

その理由を直接私はラジオから永さんの声で聞いたのですが、この本に書かれていた理由はそれとは異なっていました。わざとそう言ったのか、そのときの気持ちで言ったのかわかりませんが、ラジオでは・・

永さんが中村八大さんに対し、「詞とメロディーの“譜割り”が合わない。せっかくの詞が台無しだ、直してくれ」と言ったら「楽曲はメロディーがすべてで、別に詞の意味が取れなくてもどうでもいい。メロディーさえ良ければそれでいいのだ」と八大さんに言われて怒り、それ以後作詞をやめた。

と言っていたのですが、この本では異なることが書かれていました。

この本には・・

いみずたくさんからは「八大さんの今度の曲の詞はいいね」と言われ、中村八大さんからは「たくサンに渡した詞のようなものを」と言われ、二人と友達でいるためには、自分が作詞をやめればいいと思った。
二人には、いい作詞家の仲間(青島幸男、岩谷時子、山上路夫、藤田敏雄)があるのだから。

ということでした。
前述した八大さんとの“いざこざ”についても、「こういう曲づくりもあるのかと勉強になった」というようなことが書かれていました。

かなりの違いがあるのですが、でも人の記憶や気持ちというものはそういうものかもしれません。
私自身も、過去の記憶について周囲の人から「そうじゃなかったじゃないの」と言われることがよくあります。
いつの間にか自分の気持ちと共に記憶も修正されてしまうのかもしれません。

というわけで、200頁ほどの本でしたが、内容は多岐にわたり、しかも重いものが多く、考え込んでしまうようなことになりました。

続編の「二度目の大往生」は少し間をあけてから読もうと思います。

 

2022/07/21

「老いを愛づる -生命誌からのメッセージ-/中村桂子」という本を読みました。

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『老いを愛づる -生命誌からのメッセージ-/中村桂子著(中公新書ラクレ)』という本を読みました。
著者の中村桂子さんは、理学博士。国立予防衛生研究所を経て、日本における「生命科学」創出に関わってきた方だそうです。現在はJT生命誌研究館名誉館長。

この本を読むきっかけとなったのは、たまたま聞いていたラジオに中村さんが出演されていて、あまりにもそのお話が素晴らしかったからでした。

中村さんは現在86歳。とてもお元気で明るく、優しく、そして人というものを生命の起源から考えていくのですが、他の動物、植物などいろいろな生き物と同様に慈しみ、人というものの考え方が変わっていく自分をすぐに感じて驚いたのです。

38億年前に生命の起源と呼べるような、細胞というかバクテリアのようなものができて、そのときは「死」というものがなく、分裂して同じものが拡大していって生き続ける、というようなことであったが、やがて「雄」と「雌」というものが出来たときに、生き続けるということが子へ、その子へ、そのまた子へと続いていくものになったというわけです。

「生」と「死」が対語ではなく、「性」と「死」が対語になっている、というお話には、ハッとしました。

人間で言えば、男と女の間に生まれる子は分裂とは異なり、すべてが唯一の存在であり、やがて死が訪れ、またその子が唯一の存在として人類が生き続ける・・だから人それぞれが大事なんだ、というお話に目から鱗が落ちるようでした。

「死」というものが、どういうものか認識も出来たし、老いるということが人間が時を紡いでいく連綿とした流れの中にあるということも理解出来ました。

だから、人間一人一人のことを「労働力」と単純に認識したり、社会の「機能」とだけ認識したりしている現在に疑問を投げかけることになるのでした。

みんなちがっていて、みんな一人一人が個性を持ち、その時代を生きている・・そんなことを考えていくだけで、ものの考え方が変わっていくんじゃないかと思いました。

・・そう考えれば戦争だってなくなるはずなんですけどね。

機能的に優れた人間にしようとして、効率的に良い人間になろうとして、人に先んじて無理やり勉強させたり、競争させたりするというのが今の世の中ですが、極端に言うと、一番効率がいいのは「生まれてすぐに死ぬこと」が一番“効率がいい”ということになるのですよ、と中村さんはおっしゃっています。

自分が今生きている時代は選べないが、でも、自分のたとえば10歳、50歳など、その時々の年齢を生きて行くことで紡いでいけばいいというのです。
なんとか人を出し抜いて先んじよう、などという生き方をしているのが今の人達の多くだというのです。

読めば読むほど「腑に落ちる」、そんな本でした。

 

2022/07/12

太田和彦さんの新刊「75歳、油揚がある」を読みました。

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『75歳、油揚がある/太田和彦著(亜紀書房)』を読みました。珍しく今回は新刊です
d(^_^o)

前回読んだ太田さんの新刊「70歳、これからかは湯豆腐」の続編であろうということは、タイトルからわかります。豆腐のあとの油揚ですから(^_^)

豆腐は料理の脇役、ときに主役として、懐の深さをみせ、融通無碍(むげ)、毎日でも飽きない、栄養もある。
人も年齢を重ねたら、このように在りたいと太田さんは言っているのですが、その豆腐を油で揚げた「油揚」。
姿も食感も味も一変!
新たに生まれた独自の個性は煮ても焼いても包んでもよし・・ということで、人生にも進化や昇華はあるだろうが、経験が昇華して新たな境地に至るのなら、長く生きる価値がある、と、この本のタイトル「油揚がある」となった心境をまとめられています。

こりゃ面白いにちがいない!と、さっそく読んでみたのです。

太田さんは、残りわずかな人生を“消化試合”にしてしまっては面白くないとおっしゃって、生きる実感や、日常を離れた冒険についてもこの本で書かれています。

75歳を過ぎて、あらためて身に付けるものについて考えてみたり、日々の過ごし方についても、もう一度見直してみたり、また「ひとり旅」をすすめてみたり・・、私はまだまだ75歳の境地はわかりませんが、今後の参考にさせてもらおうと思いました。

また、「死は来るときには来るのだから考えてもはじまらない、死生観なんて必要ない」とも。

「そんなことを考えるより、毎日を充実させるほうが大切だ。」

「好きなことを見つけて毎日続ける、社会に役立てば御の字だが、まあ無理せず」

という結論でした。

この本に書かれている旅の仕方、お酒の呑み方、人とのつきあいなどは、いつもながら面白く、興味深く、参考になりました。

私も日々、一歩ずつそんな境地の75歳に近づいていきたいと思います。
まだ、ちょっと早いけど…σ(^_^;)

 

2022/07/05

二十年の時を経て、町内のひとたちの心模様は変わっていた

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約二十年前に順番で回ってくる町内の役を引き受け、今年またその役が順番で回ってきました。
私が受け持つ各世帯は、二十年前からそのほとんどが代替わりして、次の世代になっていました。当時は、私がいちばん若かったのです。

あの頃は、何か取り組まなければならないことがあれば、皆を招集しそれぞれに役割を振ってお願いをすると皆さん熱心にやっていただけました。

言い方が難しいのですが、当時の約二十世帯は、ある意味“物理的”な問題に取り組んでいました。

で、今回会費の集金もあり、八世帯増えた皆さんのところを就任早々に回ると、そこには“メンタル”な問題が存在していると感じました。

“いらいら”している人、何年も前のことに“くよくよと悩んで”いる人、誰にも相談できずに“不安の中”にいる人、代替わりして亡くなった自分の親のように“尊大なふるまい”を再現しようとする人、新しく越して来て“この田舎者役員を少し脅かしていろいろ自分のためにやらせよう”とする人・・(クレーマーに著しく近く、なるべく密室的に話をしようとして、私が周囲の人たちに声をかけようとすると激しく拒否する)・・。

必死に行動して頑張ればよかった二十年前とちがって、奥が深く、どうしたら解決の糸口を見つけられるのかわからない事態を感じて、私も一時(いっとき)、ぐらぐらと心が揺れました。はっきり言ってここ二年間、体調が思わしくないこともあり、今度は精神的にも揺さぶられました。

そんなこともあって、私と同じ役をやった方々を三年前までさかのぼって話を聞きに行ってみたところ、皆さん、私みたいにメンタルな部分をぶつけられてはいないのです。

つまり、私に対して今回は「何か話を聞いてもらえそうだ」という印象を持たれたのだと思いました。
「そりゃ迷惑だ」という考え方もあるかもしれませんが、いい意味で捉えれば、「この人なら話を聞いてくれる」「今考えていることについて何か対応してくれる」「何らかの形で取り組んでくれるんじゃないか」と思ってもらえたのかもしれない、と考えました。

そう思い直して、今、心を落ち着けて、ひとつずつ対応しているところです。
それが自分の持ち味だと信じて。

体調のこともあり、“全力で”というわけにはいきませんが、今出来ることを少しずつやってみようと思っています。
ここに書いてみたのは、その決意が揺らぐことのないように、という思いからです。

きのうもひとつ、持って来られたお話が片づきました。
明日からも、またひとつずつ片づけられるようにゆっくりと動きます。

 

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