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2024/10/30

「ショージ君の南国たまご騒動/東海林さだお」を読みました。

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『ショージ君の南国たまご騒動/東海林さだお著(文春文庫)』を古本で見つけ、読みました。

けっこう古い本でした。紙面は日に焼け、茶色くなっていて、買うのも躊躇したのですが、面白そうだっので。
「オール読物」1981年2月号~1984年2月号に掲載されたものを単行本として1984年4月に刊行し、1987年9月に文庫化したものです。

この頃の東海林さんの文はかなり“生き”がいい。
テンポよく、展開も早い。
海外にも、国内にも旅行に出掛けていますが、迷わず決定し、行動に移しています。
私がよく読んでいるここ十年以内くらいの本では、どこに行くにも迷ったり、心配したりが先立っていますが、この頃はどんどん出掛けて、どんどん“失敗”したり、怖い目に遭ったりしている・・(^_^;)

時代が時代なだけに、ウォークマンで音楽を聞きながら電車に乗ってくる若者に文句をつけている文もありました。
そうとう見苦しく感じたらしく、その様子を描いたマンガはウォークマンを付けて聞いている若者が“愚か者”を絵に描いたみたいだし、東海林さんは矢印を付けて「バカ、死ね!」とまで書いている(^^;)

当時の大人には、腹に据えかねるものがあったことがよくわかりました。
今や、大人も皆、あのワイヤレスのイヤフォンをつけて、街を歩いているときまで多くの人が聞いていて、すっかり馴染みのシーンとなっています。
こんなことになるなんて、当時の東海林さん、想像もつかなかったことでしょう。

東海林さんが銭湯に行っても、パチンコに行っても、ホテルに行っても、銀行に行っても、当時の世の中の様子が今とは異なっていて、私にとっては「そんな感じだったよなあ」と思い出すことはあっても、今の若い人には考えられない異世界だと思います。

様々な場所では喫煙も可能だったし(職場では当たり前のように仕事しながら煙草を吸っている人がいた)、隔世の感がある文も多くありました。

時代の空気を感じつつ、世の流れを感じることできる昭和五十年代が舞台となっていたこの本、たいへん興味深く、懐かしくも読みました。

 

2024/10/25

俳句を詠んでみる_0262【 コスモス(秋桜)の歌 知らないよ と 言われた 】

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さだまさしが作って山口百恵が歌った曲、知らないって・・・。

【 コスモス(秋桜)の歌 知らないよ と 言われた 】

《背景》季語:秋桜(コスモス)[秋]
ラジオを聞いていたら、コスモスの花の話が出て、男性タレントが山口百恵さんの「秋桜」の冒頭を歌いだしたら、若い女性のタレントが「何それ?知らない」と・・膠(にべ)もない。
時代を感じ、その先を聞きたいとも思わないことにがっかりしたり、しんみりしたりした。

 

 

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2024/09/13

「物情騒然。人生は五十一から/小林信彦」を読みました。

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『物情騒然。人生は五十一から/小林信彦著(文藝春秋)』という本を読みました。
2002年に発行されたもので、古本で手に入れました。
内容は、「週刊文春」に2001年1月から12月に掲載された著者・小林さんの文をまとめたものです。

小林信彦さんの文は、いろいろなところで今までもお見かけし、読んできましたが、テレビ番組のことから、映画について、芸能人などの人物像、食べ物について、海外での出来事を含めた政治的なこと、言葉について、街並みについて、落語について、などなど多岐に渡り、しかも1932年生まれという大先輩なので、もう私の知識や記憶などではとても追いつかない文も多く、中にはまったくわからず、お手上げになってしまったものもありました。

マリリン・モンローが有名になる前に出演していた映画はこんなだった、という話も興味深かった。夫であったディマジオとの来日時のことも昨日のことのように書かれていました。
当時の日本がどんな感覚でモンローをとらえていたのかもなんとなくわかりました。

まだ伊東四朗さんが目立たなかった頃の様子、そして“只者ではない”芸人としての片鱗を見せていて、それに気づいていた人も少なからずいた、という話も面白かった。

「肉じゃがは、本当にお袋の味か?」という文も頷くことが多かった。
今ではよくそんなこと言っているけど、昔はそんなこと言わなかった・・というのも私には実感がありました。

まだまだ若かった頃の小泉今日子を見て、もう今現在の小泉今日子を想像しているような“フシ”のある文もありました。
実に鋭い観察眼というか、直感も感じました。

また、落語の志ん朝さんが亡くなられた時のショックも何度かに渡り、長文で書かれていましたが、私も今そのときの録音を聞いてみると、本当に惜しい人を亡くしたと感じます。
63歳で亡くなられたと記憶しますが、70代以降どうなっていくのか見たかった、聞きたかったと思います。

その他、ここに書かれている文章は、“珠玉”の文で、わくわくしながら読みました。
テンポのいい、読み進むのが楽しい本でした。

 

2024/09/04

俳句を詠んでみる_0213【 引き出しに残る手紙に ふれる秋 】

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探し物をしている時に見つけた昔の手紙で一句詠みました。

【 引き出しに残る手紙に ふれる秋 】

《背景》季語:秋[秋]
PCメールの時代から、携帯のメール、LINEへと世の中は変わった。
中学生の頃からの学生時代は普通に手紙でやり取りをしていた。
引き出しの奥には、まだその頃の手紙が残っているのを探し物をしている時に見つけた。
開けてみようかと思ったが、こわくて開けられなかった。
手紙にふれているだけで、指先から様々な記憶がよみがえってくるようだった。

 

2024/08/22

俳句を詠んでみる_0200【 夏休み 百葉箱って あったかい 】

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3月からひとり詠み始めた俳句、ついに200句に達しました。
今回は懐かしい、小学校にあった百葉箱を思い出して一句。

【 夏休み 百葉箱って あったかい 】

《背景》季語:夏休み[夏]
妻との話の中で、小学生の時、学校に「百葉箱」ってあった?と二人して思い出すことがあった。
あった、あった、たしかにあった、プールの脇に設置されていた・・というところまで共通していた。
何か規則で学校に設置されていたのか、その佇まいは今でも思い出すことが出来る。
柵に囲われた芝生の土地の上に白い鎧戸に覆われて建っていた。
「きちんとしてますよ」と言っているみたいだった。

 

2024/08/14

宝塚歌劇を長いこと見てきたという人に会った。

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このところ、このブログ、俳句を詠むばかりになっていて、あとは本の読後感という感じになっている。
けっこう書きたいことも色々あったし、自分が出来る一番のことは文を書くことなので、ちょっとモードを元のブログに戻しつつ、俳句も日々詠みたいと思っているところです。

では、今回の本題に入ります。つい最近経験したことです。

ホントいうと、会いたいとはあまり思わなかったが、以前の職場で一緒だった方から、まだ私と繋がっている人経由で「会いたい」と連絡をもらった。

「ついては、自分の住むマンションの知り合いが宝塚を何十年も見てきた人で、宝塚ファンのあなたとその時に会ってもらいたい」とのことでした。

その何十年来の宝塚ファンの“おば様”は、“断捨離”というか“終活”というか、今まで見てきた公演のパンフレットを処分するとのことで、引き取ってもらえないかとのことでした。

私は大病して家での療養後に、部屋の整理をして既に一万冊の本を処分しているので、「困ったなぁ」と思いつつ、「見せていただいて、欲しいというものがあれば」という形で会うことになりました。

会う前から想像していたとおりだった。

その方は、お嬢様として育ち、中学生の頃から東京で行われた公演はすべて見てきたのだという予備知識を得ておりました。
全ての公演のパンフレットを買ってもらい、たいへんな量を所持し、その処分に困っていたらしい。
私は、自分から苦労してむさぼるように見てきたような人には共感できるが、果たしてこの人は・・などとも思ったりしていました。

顔を合わせて深く辞儀をしたが、いったん目を逸らし、再度頭を下げた私に今気づいたというふうに「あらこんにちは」という感じで“ハス”に構えて目礼をされました。

帰りたくなったが、待ち合わせ場所のファミレスの席に付き、私の宝塚観劇での経験や、今までに感動した公演や、劇中でのハプニングなどの話、歌劇団の方達とのエピソードを話したが、反応は“あまり興味がない”というふうで、時々「それは間違っている ※この反応が一番多かった」と言い、私の「あの公演は誰それのこういう演技がよかった」というような話には、「それ誰?知らない」とつれない返事。

たとえば花組・真飛聖さんトップ時代の「太王四神記」での冒頭、未涼亜希さんの長い物語の説明シーンは話題にもなり、素晴らしかったが、その話をすると「そんなことあった?未涼亜希って名前、初めて聞いた」などと、まるで話は盛り上がらないし、乗ってこない。
そのときの二番手大空祐飛さんのヨン・ホゲ役の素晴らしさを語ったら、「二番手に大空さんがいたの?覚えていない、花組に大空さんがいたっていうの?」とか、長老プルキル役の壮一帆さんの演技の話をしたら「そんな人いた?」・・息を呑みました。

トップスター以外の人はほとんど覚えていない、知らない。
どのトップがどのくらいの栄華を誇ったか、というような話にはお茶会の話などで話をしてくれるが、何か特別面白いエピソードもない。

パンフレットを示しながら「この公演ではこんなことがあった」と私が話し始めると、「私はどの公演も見ているときだけ覚えていて、終わった公演の記憶はない。パンフレットがあるから見たんでしょうねえ。」と言われ、言葉を失いました。

というわけで、“いい時間を過ごした”ということにはなりませんでした。
宝塚関係で、こんなことってほとんど経験したことがない。

がっくりと肩を落としつつ、帰ってきました。
もうお誘いは断るつもりです。

 

2024/08/12

俳句を詠んでみる_0190【 炎昼の天井に 碍子(がいし)見つける 】

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民芸品店に入り、古い建物の天井を見上げたら・・という句です。

【 炎昼の天井に 碍子(がいし)見つける 】

《背景》季語:炎昼[夏]
古い建物を使った民芸品店に入り、上を見ると天井には碍子(がいし)が打たれ、布コードの電気配線の名残りがあった。
子供の頃の母の実家で見た天井配線が思い出された。
幼い頃、その母の実家に泊まり、夜に布団から顔を出して天井を見上げると同じような碍子を這う配線があったのだ。
記憶の糸を辿るような思いになった。

 

 

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2024/08/01

俳句を詠んでみる_0179【 古いラジオの録音聞く 夏座敷 】

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カセットテープや、今やほとんど見ることのないMDに15年以上前に録音したラジオ番組が残されています。それを聞きながら一句詠みました。

【 古いラジオの録音聞く 夏座敷 】

《背景》季語:夏座敷[夏]
ここ最近、15年以上前のラジオ番組の録音をあらためて聞いている。
そんなに変わり無いのかと思ったら、話しのテンポも掛かる曲も割とゆったりしていて、しかも今と違ってどうでもいいような話しは少なく、心に残る内容が多いことに驚いた。
こんなラジオ番組を聞くには、夏を涼しく過ごそうとした昔の夏座敷が似合うと思った。
襖や障子を取り外して風を通したり、籐の敷物や茣蓙などを敷き、麻の座布団にしたり・・そんな夏の座敷を懐かしく思った。

 

 

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2024/07/29

「ナマコのからえばり8 ソーメンと世界遺産/椎名誠」を読みました。

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『ナマコのからえばり8 ソーメンと世界遺産/椎名誠著(毎日新聞社)』を古本で見つけ、読んでみました。
「サンデー毎日」2012年12月30日号~2013年8月11日号に連載されたエッセイをまとめたものです。

読んでみると、ちょうど椎名さんが不眠症で苦しみ、「バスソルト」をすすめられ、効果を得ていた頃、そして自分の「死」というものに向き合えと編集者や医師に言われてハッとして「死」についての本を執筆している様子も伺えました。
・・と、書いても椎名さんの本をけっこう読んでいる人じゃないと時期がよくわからないと思います。文中で69歳にもうすぐなる・・と書かれていました。

けっこう昭和の“良き頃”を思い出して書いている部分もあって、私も経験した温泉地などへの社員旅行の様子も懐かしく読みました。
もうあの頃、みんなどうしようもなかった。

部屋の冷蔵庫の飲み物はみんなあっという間に飲んでしまい、幹事が怒り(※私はこの怒る幹事の方だった^_^;) 、宴会場では偉い人順に“コの字”で着席したり、ヘタな歌をがなるヤツがいるかと思えば、カンツォーネなんか歌いだす妙な趣味の人もいた(^_^;)

すぐに脱ぎだす人もいた。・・みんな椎名さんが当時勤めていた会社の宴会と酷似している。

この本の中ではブルーフィルム(※私の時代ではギリギリ見たことがない)を部屋で見る人達がいたが、私の職場の宴会では、不思議な芸を持つお姉さんが呼ばれ、あっと驚くエッチな芸を見せたりしていたらしいが、私はあちこちでトラブルを起こす先輩達の不始末をホテル・旅館側に謝りに行ったり、壊したものの支払についての交渉をしていたので見ていない・・。

などなど(T_T)いろいろなエピソードを我が事のように懐かしく読みました。

もうひとつここに書かれていたことで、私が似たような経験をしたのは、ある一定の期間“ワープロ専用機”が職場に広がった時期がありました。
いちばん“てっぺん”のボスも推奨していて(職員は8800人いた)、ボスが推奨する特定の機器がおじさんたちのワーキング・ツールとなっていました。

・・なっていましたが、Windowsが出て、パソコンが出て、当然ワードや一太郎、エクセル、ロータス123などが主流になるとあっという間にワープロ専用機は“すたれて”いったのですが、最後の最後までしがみつき、製造中止になる直前の機種を何台も買っているおじさんがいました・・( ゚Д゚)
椎名さんはそのしがみつき派に属していたようです。他の作家の本を読んでも同様のことが当時起こっていたことがよくわかります。

懐かしいなと思いながら読みましたが、宴会の幹事よろしく、今度は私はIT化の部門に異動になり、その隊長となって、ワープロしがみつき世代が課長さんになったあたりで、色々とパソコン、ネットワーク、搭載ソフトなどについてその課長さんたちから色々要望を聴取したことも思い出しました。

「パソコンは仕方ないがフロッピーディスクだけは死守して欲しい」という要望があまりにも多かったのには閉口しましたが、あまりの上からの圧力に、当時はもう無かったフロッピー・ドライブ内蔵型のノートパソコンを出雲の富士通工場でわが社のために(^^;)作製してもらったことを非常に感慨深く思い出しました。
出雲市の岩盤が強固な斐川町にあった巨大な工場・・これも思い出しました。

と、懐かしがっていたらあっという間に読了。
まだまだ椎名さんの本はストックがあるので、また感想書きます!

 

2024/07/28

俳句を詠んでみる_0175【 あの夏の 高校生が 妻となる 】

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今までの句に詠まれた人で、どの人が奥さんですか。という質問をいただきました。
どの人かを説明していると長くなるので、あらたに一句詠みました。

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【 あの夏の 高校生が 妻となる 】

《背景》季語:夏[夏]
27才の時、人事異動で新設の事務所に動いた。
従業員も多く、それをまとめるのは大変で、忙しい内に同僚の女性職員が病に倒れた。
その時、アルバイトに来てもらったのが、休み期間に入っていた女子高生だった。
いつも笑顔で挨拶もきちんと出来、事務所の皆にチーズケーキを焼いてきてくれたりもした。
仕事も真面目で、返事もはきはきとしていた。
女性として意識することなど頭の片隅にも無かったが、その子が進学し、卒業し、就職し、その後私の妻となった。

 

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