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2022/06/17

石田衣良さんの「小説家と過す日曜日」を読みました。

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『小説家と過す日曜日/石田衣良著(文藝春秋)』を読みました。
いつものとおり、ブックオフにて200円でしたd(^_^o)

この本は、「石田衣良ブックトーク・小説家と過す日曜日」というメールマガジンの1~12号をまとめたものなんだそうです。

それぞれの号の内容としては、毎回「ショート・ショート」「ワイドショーのコメンテーター的発言」「衣良さんと小説の登場人物が二面性を持って語るエッセイ」「読者とのQ&A」「ブックレビュー」「しくじり美女との対話」が盛り込まれていて、いやもう大充実の“濃さ”です。

読んで見て、実際には、これを毎月メールマガジンとして発刊しているわけで、たいへんな作業だと思います。

本と創作の話、時代や社会の問題、恋や性の謎、プライベートに関わる親密な相談・・などなど、衣良さんがおもしろいと感じ、興味をもつことに対する思いは、とどまるところを知らないという感じです。

多岐に渡る内容の中で気になったことを少し取り上げてみます。

定額制の音楽聞き放題や、ドラマ・映画の見放題のサービスについて(いわゆる“サブスク”ってやつです)、聞き放題で月数百円として著作権をもつアーティストへの対価は、割り算をしたらずいぶんと少ないんじゃないか、そして視聴者の多くが似かよったソフトしか楽しまなくなるんじゃ・・とおっしゃっています。

自分でソフトを探し、目の前に“垂れ流されて”いるものを楽しむだけでは、よい趣味や自分なりのセンスを育てる力が弱くなっていく・・とも。

50年代のジャズや、70年代のロックを聴くマニアはごくわずかになって(・・私みたいなヤツですね…σ(^_^;))、恐ろしいことだという石田さんの気持ちはよくわかります。

もうひとつ

音楽の歌詞がくだらない説教みたいになりましたね、とおっしゃっていて、これも同感です。
みんな仲良くだとか、家族最高とか、桜はきれいみたいな歌ばっかりになっていると。
表現レベルがなんでこんなに落ちたのかと言っていて、私はそれに加えて、歌っている人は、日本人で、日本語で歌い、歌っている相手も日本人なのに、何を歌っているのかわからないとものが多いと思います。

なんとか英語みたいに聞こえるように“ウェイ”とか“ドゥエイ”などと歌っているので、歌詞は、さっぱりわからず、時々日本語らしい痕跡を発見(聴)している有り様です。
はっきり言ってみっともないです。こんな発音をふだんしていたら、恥ずかしいでしょう。

「譜割」も、その日本語の単語を解体して発音し、次の単語に半分くっつけたりしているので、何がなんだかわかりません。この“カッコワルイ”歌い方、いいかげんやめてほしいと思いますが、それをやめたら、その曲が“貧相”な曲だということがバレてしまうので、やめられないのでしょう。

などと、グチを言いつつ、今回の石田衣良さんの本についての感想を終わりたいと思います。

 

2022/05/21

サビだけ聞いて、映画は早送りの人

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以前にも少し書いたことがありましたが、音楽は配信が中心となり、“イントロなし”の曲づくりが推奨されているようです。

要するにイントロが鳴っている間に、もう我慢出来なくなって別の曲に“飛ばして”しまう人が多いらしいんですよね。そうすると、その曲はもう聞いてもらえなくなる・・らしい。

このあいだラジオかテレビか忘れたが、若い人が、「自分なんか、サビだけ次々と聞きますよ!」と得意げに話していました。なんで“得意げ”なのかは私にはわかりませんでした。

さらにまたラジオで聞いたのですが、曲を作る側の人の話だったのですが、ミックスダウンの段階で、携帯電話などのアラーム音に似た音などを曲のサウンドの中に潜ませるというか、“仕込んで”おく作業をするのだそうです。

これまた、その人は得意げに言っていましたが、「あれっ、スマホが鳴っているのか?」と注意を引きつけることによって、その曲から離れて行くことを避けることができる・・って・・バカじゃないかと思いましたが、「今、それは曲づくりの常識です。」と鼻高々でした。
これは曲作りじゃない、トラップを仕掛けているだけです。むしろ法的にも問題があるんじゃないかと私は思いました。

さらにまた、今朝のラジオで聞いたのですが、今やサブスクリプション契約をして、配信で映画やドラマなどを見ている人は、「早送り」で見るのが当たり前です!と言っていました。
私は映画は基本的に映画館で見ますし、ミュージカルや芝居は舞台を直接見るので、よくわかりませんが、今そういう配信を受けている人は、もう何倍速といういくつかの選択が出来るように最初から配信されていて、要するに映画の「間」などは一切関係なく、《情報》として映画のストーリーをただ追っているだけのようです・・ああ、もったいない。

そのラジオではさらに、「そうすることによって、サブスクで大量に配信されているものを何本も余分に見ることができるんですよっ!」って、これまた自慢げに声高らかにおっしゃっていました。ご愁傷さまです。

前にも書きましたが、私が落語を聞くと言ったら「出し物を聞いて、一度聞いた話だったら無駄なので聞く必要はありませんね。」と、どうだと言わんばかりの部下が職場にいたりもしました。

その部下の男性は、芝居やミュージカルは、テレビやビデオで見れば十分で、「“飛ばし・飛ばし”見ることで時間がかせげます。」と、お前のやっていることは“無駄”だらけだと、力強く言い聞かせてくれました。ありがとう、一生やっていなさい。

というわけで、音楽も映画も舞台も、演奏者や、演者などの作品として、芸術としての価値はどんどんなくなり、「情報提供」程度のものになっていくのでしょう、いや、もうなっていると思います。

ほんとうにいやな世の中になったものです。じじいが戯言言ってるよ、と思っている人、どうぞそう思ってください。あなたにそう思われると、とても安心します。

 

2022/04/14

周りで使われていてよくわからない言葉をあらためて調べてみた。

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私はよく“世捨て人”などと身内からも言われ、今流行っているヒット曲もほとんど知らないし、それを歌っている人も知らないし、SNS や若い人の間で使われている言葉についても、意味を知らないものや、使い方がわからないものが多いのです。

少しこのあたりで、その「謎」を解いておいた方がいいかもしれないと、日頃わからないままになっていた言葉について自分で調べてみました。人に聞いても笑われるだけだと思いまして。
では、ひとつずつ。

いきった → お笑い芸人などが使用しているのを聞きました。当然のことのように使っているが、なんとなく“こんな意味かな”と思いつつ過しておりました。

元々は関西方面の言葉らしいです。「いきがる」に近い意味のようです。関西では日常的に使われてきた言葉だそうですが、テレビなどで「皆、わかっているのが当たり前」のように使われていたので、もう関東圏でも普通に使われている言葉なのでしょうか。
たぶん、私は今後も使わないと思います。言葉が身体に染みついていません。


エモい → これもよくわからなかった。語感から感じたのは、「気持ち悪くて吐きそうだ」という意味かと思っていました。でも使用例をみていると、どうやら違うみたいです。

心地の良い懐かしさや良質なセンチメンタルに襲われたときに使う・・んだそうです。
ってことは、「エモ」っていうのは「emotional」の意で使っているのか・・。
これもたぶん一生使わない言葉だと思います。申し訳ないけど、使っている人って、およそ“エモーショナル”な感情とはほど遠い感じの人が多いという印象です。


ぴえん → ちょっと悲しい程度の意味ですよね。これはなんとなくすぐにわかったけど、小学生までなら使っているのが“可愛い”と感じられますが、いい大人が使うのは、幼児的でみっともないと思いました。
幸いなことに、テレビその他私に直接関係ないところで使われていて、私の周囲では誰も使っていないので安心して過しております。


“超チル”あるいは“チルい” → 心身がリラックスした状態 「chill out」から来た言葉のよう。USEN放送のチャンネルに「chill out music」というのがあって、それで「chill out」という言葉自体を初めて知りました。
チル・アウトなんて日常使っている人を見たことがありますか。なんか、あやしくて、キザで“浅はか”な言葉だと思い、無視することにしています。


バズる → これはものすごくよく聞く言葉でした。テレビ番組などでもコーナー名に使われているし、完全に誰もが知っている言葉、使っている言葉として使用されているのが確認できます。

インターネット上で爆発的に話題になる。SNS上で一挙に話題が広まる。・・そんな感じですよね、きっと。

語源は 「buzz」らしく、蜂や機械の「ブンブン」「ブーン」という音の意で、ざわめきや噂話、評判などをその音になぞらえているようです。
申し訳ない・・。これも“バカっぽい”ので使わないです。


言えば → これも関西のお笑い芸人、あるいは関東でもお笑い芸人がよく使っているのを耳にします。「いきった」と同じく、関西芸人から関東芸人へ、そして一般にも拡がっている言葉かもしれません。「言うなれば」という意味で使われているように思われます。

傾向として“安い”芸人・タレントが主に使っているようなので、これも私は使わないと思います。ごめんね。

というわけで、“世捨て人”の私として、今後使ってみようという言葉はありませんでした。
“ご静読”ありがとうございました。

 

2022/04/06

東海林さだおさんの「昼メシの丸かじり」を読んだ。

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『昼メシの丸かじり/東海林さだお著(朝日新聞社)』という本を読みました。
2000年に週刊朝日に連載されたものをまとめたものですから、もう二十年以上前のものです。
なので、ブックオフにて220円で購入d(^_^o)

うどんや、カレー、青椒肉絲、焼きそばパン、串カツ、冷やし中華、鴨南蛮、チキンライス・・などなど(*^_^*)登場する食べ物は、相変わらずの私達がよく食べる一般的なものばかりです。
だから、書店でパラパラとページをめくっているうちに“お腹が空いて”きて、ついつい買っちゃうんですよ、うまくできている(^^;)

今までも東海林さんのこういう本は何度か読んで、このブログでもご紹介してまいりましたが、今までの傾向でいくと、途中までは面白いのだが、だんだん東海林さんの“こだわり方”が“マニアック過ぎ”て、しかも“しつこく”て、いやになってしまうことが度々ありました(^_^;)

でも、今回はほとんどそういうことがありませんでした。
けっこう古いものなので、まだまだ東海林さん、元気いっぱいで“突っ込み方”に勢いがあり、しかも読んでいるこちらの「そこをもっと掘り下げてくれ」という気持ちも“酌まれ”ていると感じるくらいの鋭さがありました。

かつて中華料理店には必ずあった「肉団子」が今はメニューに無い店が多いのではないか、と七店も巡ったりしています。
ああ、中華料理店の肉団子・・ミートボールに似ているけど、ちょっと違うんだよなあ、などと思いつつ読みました。

七店目で、やっと肉団子がある店を見つけ、注文すると驚かれたりして(^^;)めったに頼む人なんていないのだろうな、と思いました。

そうかと思うと、今度は串カツの串に刺さっている順番がどうなっているか(肉と玉ねぎの順番です)調べたりしています。まあ普通の人はやらないよね (・_・;

しかも、刺さっているのが玉ねぎではなく普通のネギのお店もあることに気付き、意外とネギの店も多いと驚きます。
ひとくち目はネギなのか、肉なのかにもこだわって、いろいろ東海林さんの“思いの丈”が綴られていました…(^_^;)

ちなみに、六軒の店を回って、玉ねぎが三軒、ネギが三軒だったそうですd( ̄  ̄)どうでもいいけどね。

 

2022/04/03

テレビのコメンテーターなどが使う気になる言葉

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以前にもいくつか書いたことがありますが、特にテレビのコメンテーターなどがあまりにも当然のように使う“気になる言葉”や“カタカナ語”があります。

今、思いつくままに例を挙げてみたいと思います。

ガバナンス・・・統治とか、管理、支配という意味があると思いますが、その体制構築についても意味合いとして使っているように思います。
でも、「“管理体制”をしっかりとした方がいい」などとコメントすればいいんじゃないかと、いつも感じています。
なんだか、わざと難しそうに、えらそうに言っているだけじゃないか・・と思うんです。

イノベーション・・・これもよく使う人がいます。
“革新する”とか、“新しい技術や手法などを取り入れる”という意味で使っていると思いますが、わざわざ“カタカナ”で言うまでもないと、いつも思います。
自分が時代の先端にいるんだ、みたいな“気取った”人が使っているような気がしますよ。

出口戦略・・・これも“あやしい人達”がよく使っている気がする。
なんとなく感じているのは、「損害を小さくして、撤退するための作戦」みたいな感じで使っていると思うんですよ。
でも、“ぶっちゃけて”言うと、「いままで“ああだこうだ”とやってきたけど、どうもうまくいかない。てきとうに言い訳して逃げちゃおう」ということだと思います(^_^;)
さんざんえらそうに“これしかない”みたいなこと言ってやらせておいて、言いだしっぺが真っ先に逃げ出す時に使う言葉・・と理解するのが正解だと思います。

コンテンツ・・・中身、内容の意味だと思いますが、この言葉も、ちょっと時代の先端にいる“ふり”をしている人が「“コンテンツ”が、いちばん大事だ」みたいなこと言っている姿が目に浮かびます。
その先は言わないので、どういうものを作っていけばいいのか、ということにまで考えが及んでいない人が、それを誤魔化すときに使う便利な言葉だと思います。

グランド・オープン、グランド・メニュー・・・これもあやしい感じがしますよぉ(^^;)
本来の意味としては、「正式に開店する」とか「常に出されるメニュー」程度のものだと思います。
でも、あえて“グランド”を使っている人達は、もっと“えらそう”で“盛大”なイメージを喚起させる意味合いで使っていると思いませんか。
そんでもって、グランド・オープンしたお店や、グランド・メニューを開いてみると・・たいしたことないです (・_・;
ようするに自信があるなら、こんな言葉使わないってことだと思いました。

アサイン・・・最近よく耳にします。当然のように使われていますが、なんのこっちゃか普通に暮らしている人にはわからないと思います。
「任命する」とか「割り当てる」などという意味だと理解していますが、だったらこの「アサイン」なんて言葉使う必要がまったくないと思うんです。あんた日本人だろうっ!っていうのが私の答えです。

いま思いつくのは以上です。
まだまだいっぱいあると思いますが、あやしい言葉、うろんな言葉には、くれぐれも気をつけたいものですd(^_^o)
使っているヤツは、この言葉よりも“あやしいヤツ”です。

 

2022/03/25

Facebook その他SNSでよく見かける「リンクをただ張っただけ」で本人が嬉しがっているものについて。

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他人の長文のホームページや動画サイトにリンクを張り、すっかり自分がやりとげたものみたいな気になってアップしているもの。

誰もそんな長い文や、中身がよくわからない動画なんて、時間をかけて見ようと思わないから“クリック”しないですよ。

「ここにはこんなことが書いてある、私はそれに対してこう思う」、「この動画は、15秒目くらいに出てくる“これこれこういう”部分が、こんなふうに面白い」と書かなければ、誰も興味なんか持たないのに・・。

また、そういうふうに自分で消化して、誰にもわかるように説明が出来ないなら、あなた本人がその内容をわかっていないんじゃないか、と言いたい。

Facebook が日本に入ってきたばかりの頃、私に Facebook を勧めてきた当時の我が社の人達は、「あなたは、元情報部局に居たのに、Facebook もやらないのか、何も書けないのか」と言ってきたことを覚えています。

で、その後・・「自分達は最先端のSNSを真っ先に始めた」と意気軒昂なその人達がアップしたものを見ていると、ただ詳しいホームページを見つけてリンクを張っただけ、しかも「これはいいものみたいですよ」とか、「ここはとてもいい所らしい」とか、自分の考えや意見もなく、実際に行ったわけでもなく、それなのに「〇〇らしい」みたいな、いいかげんな内容をアップして、それを自分だけで“やった感”を出し、満足している人が多いと思います。

自分の考えや、新しい事象に対してこう思う、みたいなことを書いている人は、ほんの数人です。あとはただリンクを張っただけ。

あなたがそのサイトを見つけたのはわかった、でもリンクを張るなら、それについて“噛んで砕いて”説明し、それについて自分はどういう意見を持つのか、そこまで書いて初めて“得意げ”なお顔をしていただきたいです。
“人のふんどし”で相撲を取るなっ、というか、ふんどししただけでまだ相撲を取っていない段階だということに早く気づいてほしいです。

というのが、いつもリンクだけ張って嬉しそうにアップしている人に対する私の意見です。
今日は辛口でした。

 

2022/02/24

ちょっと高級なレストラン、料亭などで事前に渡される「本日のメニュー」のようなものを見るのか、見ないのか、という話。

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この話も、阿川佐和子さんのラジオ番組でしていた話です。
私も以前、高級なフランス料理のお店に行ったときに、食前に前室のようなところでシェフ自ら筆で書いてくださったその日のメニューを見せてもらったことがありました。

先に言っておくと、私はそういうのを見ます!
だって何だかわからないものが出てくるのはちょっとその場で対応が難しそうだし、今これが出たから次はあれだな、と心構えもできるし、お腹の様子を考慮しながらスピードだって、食べる量だって変化させる余裕がほしいから。

で、ラジオで阿川さんの相方をつとめている、ふかわりょうさんは「絶対に見ない」と断言していました。
簡単にいうと、「何がでてくるのか、たのしみがなくなる」っていうことなんだそうです。

ふかわさんは、コンサートでの出来事も例に挙げていて、泉谷しげるさんと、あの小田和正さんが同じステージに立っていたときに、泉谷さんが「次は〇〇(曲名)をやるぞっ、いくぜぇ~っ」と会場を盛り上げていたら、小田さんが泉谷さんのところに歩み寄って「何の曲か言わずにやって、曲が始まったらお客さんが盛り上がるのが正しいだろ」って諫めたら、泉谷さんがシュンとなってしまった(^^;)というお話なのです。

だから、ふかわさん、コンサートなどでもパンフレット等は一切見ずに臨むそうです。

これも、私だったら出来ればパンフレットなどを見て、あるいはネットなどで今回のツアーのセットリストなどもチェックしておきます。
なぜなら、どの曲がどのあたりが来るかわかっていれば、もう待ち遠しくてワクワクして、期待の曲が始まったら一気に“ノリまくる”ってことになるからです。

また、事前に調べていても、何曲目は毎回曲を変えているなどとわかっていると、今日はそこで何を演奏してくれるのか、また楽しみになるからです。

でも、まあこれも人それぞれでしょうからね。

ちなみに、ふかわさんがおっしゃるに、DJはさすがにないだろう、曲順リストをお客に配ってしまったらDJはいらないじゃないかと。

なるほど、とは思いましたが、「でも、それもひょっとしていいかも!」と私は思いました。
ふかわさんも、それを想像したらしく、ハッとしていましたので、きっと「意外といいかも」と、そのとき思ったのかもしれませんd(^_^o)

というわけで、お品書きも見るし、コンサートの曲順もできれば事前に知りたい、というのが私の意見でした。
皆さんはどうでしょう?

 

2022/02/13

世の中、もうひとつ深いところに入らなくなってきたような気がする。

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このあいだ、ラジオで、「最近の曲はイントロは出来るだけ短く、出来ればイントロ無しで作るというのが主流だ」という話を聞きました。

よくよく聞いてみると、イントロの時間も待てず、我慢できなくなって“別の曲に飛ばす”んだそうです。

要するに「Spotify」のような“サブスクリプション”の利用が主流となっている現在、昔のテレビのザッピングのように、どんどん曲を“すっ飛ばして”聞いていくので、イントロなんか聞いている場合じゃないようです、今の時代。

音楽なんてただの「使い捨て」なんです。その場でちょっと気分が良ければ、それでよし、ということなんだと思います。

私など、例えば「津軽海峡冬景色」という曲については、イントロが無いと曲そのものに意味が無いという気がいたします。・・昔の曲は、イントロでもう感情が盛り上がってきたものでした。

ついでに言うと、“サブスク”と言われるものを使っているお店に行って、いろいろ聞かせてもらいましたが、そのジャンルに詳しい人にとっては、大名曲というか、誰でも知っている有名曲がどんどん提供されていて、その段階で満足してしまうと、そのジャンルの音楽や、アーティストの“もうひとつ深い”ところまで手が届かない感じでした。

“掘って”いけば、出来るようになっているんでしょうけど、お手軽だからサブスク契約しているのだと思うので、自分で深いところに入って行って、より深い感動の淵にたどり着くという人は数少ないことと想像されます。

それに少し付随して思ったのが、テレビで見たカラオケの採点システムを使って、主に素人が得点を競い合う番組を見て感じたことです。

音程はバッチリで、譜面どおり、“超高得点”の人の歌を聞いても全然なんとも思わないというか、感動がない・・。

そして、本来、その歌を歌っていた歌手本人が歌うと、意外や得点は低く驚いてしまうのですが、でも感動はマックスとなり、素晴らしい歌唱だと思ったのでした。

なぜ、その歌に感動したのか、というのが“ないがしろ”にされて、得点ばかりを競っているので、これまた“ひとつ深いところ”に入っていかず、単にゲーム的に音楽を聞いてしまうことになっているのだと私は感じました。

もうひとつ、今、冬期オリンピックが開催されていますが、フィギュアスケートを見ていて、個々の技の精度について細密に厳密に規程を設けて採点しているのがうかがわれました。

フィギュアの人気は、以前と比べて上記のような採点方式に徐々に変更されて、わかりやすくなり、それに伴って人気も出たのでしょうが、私にとってはなんだか釈然としないものがあります。

過去に問題があったから今の採点方式への変遷があったとは思いますが、でも、もともと氷の上を滑るという優雅なものであったわけで、体で表現する部分について、アーティスティックな部分について、もう一度重きを置く形で比率を上げてもいいんじゃないか、などと思ったのです。

女子フィギュアスケートで昔金メダルを獲った「カタリナ・ビット」という人がいましたが、あのゾクッとするような演技、妖艶な感じ、ああいうのはすっかり感じなくなりました。

あちらを立てればこちらが立たず、ということなのでしょうが、音楽・歌、そして芸術度の高い演技を含むスポーツなど、見直していい部分があるのではないか・・と思いつつ書いてみました。

 

2022/01/15

「ジョンたま」って聞いて・・自分には使えないと思った。

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表題の「ジョンたま」というのは、ジョン・レノンのビートルズ解散後の正式なソロ・アルバム、邦題『ジョンの魂』(JOHN LENNON / PLASTIC ONO BAND)のことです。

ラジオでジョンのこのアルバムをこう呼んでいる人がいて、耳にとまりました。
何か、本でもこう呼称している人がいたと思います。

「マザー」という曲では、

「母さん、僕はあなたのものだったけど、あなたは僕のものじゃなかった」「父さん、あなたは僕を捨てたけれど、僕はあなたから離れなかった、僕はあなたを必要としたけど、あなたは僕を必要としなかった」

などと、歌詞を聞いているだけで、つらいものがありました。

「ゴッド」という曲では、

自分達が世界の人気者となり、名声・栄誉・富などを得ることとなった自らのグループを「僕はビートルズを信じない」と低い声で歌っています。
ディランも、エルビスも、ケネディも、イエスも信じない・・と。

その他「アイソレーション」なども歌詞を読んでいると、孤独な気持ちを悲痛なまでに歌っています。
しかも、ピアノ、ギター、ベース、ドラムというシンプルなバンド構成で、毛筆で真っ白い紙に“墨痕鮮やか”に書いているような感じです。静謐な印象。

でもって、それをいくら何度も聞いてきたからといって、ジョンに親しみをこめたからといって『ジョンたま』はないだろうと思ったのです。

“ニラ玉”でも“のりたま”でも“忍たま乱太郎”でもないのだ!
ジョンの魂の叫びを聞いて、日本の担当者も邦題を「ジョンの魂」としたのだと思う。
それをあんた、「ジョンたま」だよ・・。

というわけで、「オレは何十年もジョンを聞いてきたから“ジョンたま”と言える立場なのだ」というお方もいらっしゃるとは思いますが、ただ私は“いやな感じ”と思ったので書いてみました。

ほかにも自分が好きなものに対して「蔑称」とも言える呼び方をしている人がいて、例えば自転車のことを「チャリンコ」または「チャリ」と言う人がいる。

語源についてはいろいろ説もあるが、あまりいいことは書かれていない。
なんといっても、私が感じるところ、この言葉を使っている人で自転車を本当に好きな人はいなさそうです。
タレントのなぎらけんいちさんも、「自転車は大好きでよく乗るが、“チャリンコ”“チャリ”というのは自転車の“蔑称”なので自転車好きとしては使うことなんて出来ない」とおっしゃっていました。

あと、気になったのが、オーディオ関連のSNSなどで、中国製のアンプのことを「中華アンプ」と呼称している人が多数なのに気付きました。
やはり、“親しみを込めているんだ”と言われるかと思いますが、でもなんだか印象的には、“小バカ”にしている、あるいは上から見ているようなものを感じます。

自分の好きなことや、ものについて、もっと口から発せられた言葉としての印象が相手方にどう伝わるかを考えた方がいいんじゃないかと思ったのです。

ちょっと、ふざけているというか、安易過ぎると感じたのです。

たいした話じゃないな、と思う人もいるかもしれませんが、ここは私の思ったことを書く場所なので、書いてみました。


【Now Playing】 Mindfulness / CYGN ( Lo-fi Hip Hop )

 

2022/01/13

「癒やし」「ふれあい」「寄り添う」という言葉を使いたがる人・・特に公的機関。

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一週間くらい前だったか、ラジオで森本毅郎さんが毎日新聞のオピニオン欄に書かれていたことについてふれていました。

そのオピニオン欄の著者は、「癒やし(いやし)という言葉に昭和初期の生まれの者として、最後まで抗う」と言っていた、そしてその心意気や良しという内容でした。

私もラジオを聞いていて、「そうだな、“癒やし”って言葉、一時やたら流行って、誰もが使っていたような気がする」と思いました。

一時期、“癒やされたい”ヤツばかりになったと感じたことがありました。
なんでもかんでも“癒やされますねえ”という話題ばかりで、テレビなどもそんな“癒やし”をテーマにした番組などがけっこう多くありました。

何か、香りだとか、灯りだとか、マッサージ的なものだとか、景色だとか、そういうものを提供してくれる場所などに行ってみる・・というようなテレビ番組なども多かった時期がありましたし、今でもそんなことはあるみたい。

“癒やし”と共に、“ふれあい”という言葉も「不滅的」に誰もが使いたがったような気がします。
特に公的機関などに「〇〇“ふれあい”センター」などというネーミングが目立った時期があったと思いますし、今でもまだある気がします。
何を“ふれ合おう”というのでしょうか。ネーミングに“ふれあい”を入れることによって、逆に焦点が“ぼかされて”いるような気もします。

「癒やし」や「ふれあい」と共に、私がもうひとつ怪しんでいる言葉が、「寄り添う」です。
公務員や、議員、政治家などが「市民に“寄り添った”政策」などと、よく発言するのですが、どういうふうに寄り添おうっていうんでしょうか。
字面や、言葉が発しているイメージは、とても“温かな”印象を与えますが、「寄り添う」という言葉が使われている場合は、たいてい具体的なことは曖昧です。

「癒やし」「ふれあい」「寄り添う」などの言葉を見つけたら、まずは眉につばをつけて疑ってかかった方がいいんじゃないか、というのが私が今思っていることです。

以前、仕事で公の回答文書を作成していた時に、上司から「なんとか、“寄り添う”という言葉を入れることは出来ないか」と言われたことがありました。
私はなんだか“安易”な言葉の使い方だなぁと思いつつも上司からの命令であったのでいうことは聞きましたが、さいごまで納得がいかないというか、寄り添う前に具体的に何をするのか書いた方がいいのに、と思ったのです。

でも、“耳あたり”のいい言葉って、使いたくなるんでしょうね。

使いたい言葉があったら、それを使うことによって、相手がどんな印象を持つかを考えねばならないのではないかと思います。
“寄り添われ”たら・・“薄っ気味悪い”と、私は思うのです。

 

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