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2023/02/21

【南先生の玉手箱_0058_暮らしの中で身についていたものができなくなった】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
今回は、平成15年12月17日の日付がある「らくがき」という通信文の裏面に書かれていたものです。
ひもを縛ったり、、鉛筆を削ったりするということが普段の生活からだんだん無くなってきて、普通にできなくなってきている状況について書かれている文でした。
今回はそれを活字化いたします。


以下、先生の文章です。

学校の学びの中に新しい知識や情報がたくさん入ってきている。学習の幅も広がってきた。
国際識字年などもあったように、すべての国民に平等の学びの場を与えようのスローガンの中で日本でも子どもたちは恵まれた環境の中に育っているようだが、その半面、あそびや暮らしの中で身についていた技術や基本的な動作などが暮らしの変化から体験の場が少なくなって、かなり何かが退化してきたことを具体的に目の前にすることが多い。

このことは、日常の暮らしが便利なために不便にならないと実感できないことでありますが、考えてみると大変な時代だと思います。

今の人たち、子どもたちが特にできないと言うことは、2~30年前まではごくあたりまえに暮らしの中で身についてきたものができなくなった。

五感を通して体感することが少なくなった。
具体的には、何か物をしばる、つつむ、折りたたむ、ちぎる、切る、のばす、ぞうきんをしぼる、のりをつける、ひもを結ぶなど、特に手で何かをにぎることも、つかむことも、何か変な感じだとか、必要な時に体験していないなど、気になることがありませんか。

子どもばかりではなく、私たち大人側も自分自身体感することの弱さなど気になりませんか。

暮らしの変化が影響している。靴のひもがマジックテープ型になって結ぶチャンスが少なくなった。物をきちんと集めて風呂敷に包むこともしなくなった。
便利が悪いことではないが、ものごと手を加えることが少なくなっている。

体を使わなければ不器用になるのもあたりまえ。
いろんなことができないと言う。
能力ではなく、やらないからできないのです。

この前、練習すればすぐにうまくなるよと言ったら、2~3日できれいに鉛筆をけずってきた。

早い遅いの問題をぬきにして、何かにじっくり時間をかけてゆっくりあわてずに続けてみることです。

もうずーっと前のことですが、給食に先割れスプーンが出てきてから、お箸を使わない人が多くなったとか話題になったような気もする。
このお箸ひとつ考えても立派な文化であります。

小さい時に普通に身についているべきことができないのは、本人の責任ではありません。
学校も家庭もじっくり体感させる場を大切にしていきたいものです。

ちょっとしたきっかけで、できなかったことができる。
休業中などは、そんな何かひとつ体で感じることに時間をかけたり、家庭でも勉強は机の外で幅広い生活体験をしてほしいです。

子どものうちに身につくことは山とあります。
そして大人になってからは、なかなか身につかないものです。

私ごとですが、いつも何かできないことや困ったことを思うたびに、小中学生の頃、もっとがんばっておけばよかったと思うことばかりです。

今の若い世代は知識も豊富で暮らしにも恵まれている状況の中で、自分が知っていることを暮らしの中で知恵として生きた力にしてもらいたいと思うのだが、その暮らしに生かす生きる力を身につけさせるのも大人側の暮らしぶりの魅力、生き方の影響が大かと思います。


以上が先生の文でした。

あらためて読んでみて、今はさらにそれが進行しているというか、“悪化”しているというか、手間ひまかけて細々としたことをするからこそ・・という考え方は今や死滅しようとしている・・と思いました。

このあいだラジオで聞いたのですが、「コスパ(コストパフォーマンス:費用対効果)」という私の嫌いな言葉があるのですが、今やさらに「タイパ(タイムパフォーマンス:時間対効果?)」という言葉が普通に使われているとのことでした。一聴して「バカみたい」と思いました・・。

だから映画なんて早回しして、「だいたいこんなんだった」(^^;)っていう《あらすじ》だけわかればいいみたいな、時間節約を自慢している輩もいるんだそうです。
映画館に行って、自分を小屋に幽閉して、映画と正面から向き合うという時間の余裕ある使い方が本来の「タイムパフォーマンス」なんじゃないかと私は思いました。

 

2023/01/28

【南先生の玉手箱_0057_あそびの中で育まれる大切な部分】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
今回活字化するのは平成16年1月21日の日付が入った「らくがき」という配布プリントです。
タイトルは「あそびの中で育まれる大切な部分」というものです。


以下、先生の文章です。

《あそびの中で育まれる大切な部分》

学校では児童それぞれの発達、学年に応じてたくさんの学習や行事が計画・実行されている。
日頃の学習は知識を中心とした内容が多いように思えるが、学習や活動を通して身につけてほしい今学習していることのず~っとむこう側に大きな大切な目標がある。

それはひとつ言葉や文章で示すことは難しいのだが、家庭や学校でのあそびや勉強を通して生きる力「生活能力」と豊かな心「感性」を身につけることは大きな柱だと思います。

私ごと、現在の自分をふりかえる時、その力や感性など自分の原点とは子どもの頃の育ち方、学び方が基本になっていることに気がつくことが多い。
お互いに子どもの頃自分の育ち方など客観的に見たり考えたりすることなく夢中にその時を生きてきた。

子どもが子どもらしく、又、望ましい暮らしの環境をつくる責任は大人側にある。
このようなことはいつの時代にも同じことが言えるのでしょう。
今の子どもは、又、若者はどうのこうのとよく話題になることがあるのだが、何かにつけてできないと言うことの理由の多くは体験をしていないことが多い。
頭も体も身につけていくには実際の体験をすることで誰もがあたりまえに分かっていることなのですが、この実体験の場、特に今の暮らしの中には欠けていると思うことが多いです。

昨日、三年生で近所のおじいさん「今関さん」たちが来てくれて簡単なこまつくりをやりました。
時間の都合もあって材料からほとんどの準備をしてくれてありましたが、竹を切る、こまのまん中にちょっと穴をあける、こまに色をつけるなどの体験を楽しみました。

清水君ほか、ノコギリをうまく使う児童は自分で体験のある子、はじめての子でもやり方が分かるとすぐにできるようになりました。

机の上に五個ものせてまわして満足そうな顔、何かいつもとちがう授業は準備もあとしまつもいろいろと大変、でもちょっと前まではこのような体験はあそびなどを通してたくさんできたものです。

あそびや道具つくりを通して自然に身についているべきことが今の時代は難しい状況の中、子どもたちにその時間と場所を与えたいものですね。


以上が先生の文でした。

日々の暮らしの中で、遊びの中で、いろいろな実体験をしながら様々なことを身につける・・などということは上記の文が書かれた16~17年前でもすでに小学校に通う生徒達にはなかなか無いことだったようです。

このあいだ、私、町内会の会合に出たのですが、消防署の方からの防火についてのお話を聞く中で、「現在の市内では焚火をすることは出来なくなりました」と伝えられました。
子どもの頃、焚火をして芋を焼いたりしていましたが、そんなこともう出来ないんですよね。
鉛筆をナイフで削ったり(文房具屋さんに行くと“ボン・ナイフ”などという子供用ナイフが売られていた)することももうないのでしょうか。
そういえばリンゴの皮をむけない子供も多いみたいです。

実体験の大切さを書かれた先生の文を読んで、さまざまなことを思いました。

 

2023/01/06

【南先生の玉手箱_0056_惻隠の情】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
昨年11月以来となります。体調やその他いろいろなことがあって間が空きました。
今回は、平成16年頃のものと思われる先生の文を掘り起こしてみます。
「惻隠の情について」という私もふだんあまり使わない言葉についてのものです。


以下、先生の文章です。

惻隠の情 = もののあわれを感じ取る気持ち。
      これは人として誰もが持ち備えているものです。

惻隠の情とはもののあわれを感じとること。
このことは本来人は幼い頃から家庭で、地域で、又、学校などで、人や自然とかかわる中で、それこそ自然に身についているべきものであって、今すぐ言われて分かることでもないし、体で自分が体験と言うか感じとって自然に身についているべきことなんですよね。

他を思いやることとは、自分が他から思いやりを感じたりしなければ分からないものなのかと思います。

自分が苦しい思いをしたり、さみしい状態になったり、がまんをしたり、自分がいろんな思いを実際に体験をしないことには、このもののあわれとか、他者の辛さなど分からないのがあたりまえなのかと思います。

目の前のものをよく観察して自分で考えて体を通して感じ取ることが意外に少ない今の暮らしかと思うことが多いです。
子どもが育つ環境の中で命の問題をはじめとして、喜怒哀楽、望ましい感情表現を私たち大人側が暮らしの中で共に表現していきたいものです。

少年犯罪、凶悪事件の数々の責任はもちろん本人にありますが、お互いに成育歴の中で大人側のかかわり「責任」が問われるものでしょう。

ちかごろの子どもは、困ったものだとか、子育てが分からない等大人側の心模様が子どもに大きく影響していること、大人社会の責任に目をむけて望ましい子育てに努力しましょう。

つい先日、電車の中ですごい会話を耳にしました。
うちの子は、わがままでどうにもならない、朝は起きない、食事は勝手に好きなものだけ夜中でも買いに行く、登下校はほとんど毎日車で送り迎え、何言ってもダメ、これも時代でしょうかねえと、まるで世間話しのひとつのようで私ごと口をはさむ間もなく、松尾で降りて、しばらくこのことが頭から離れなかった。

私も二人の男の子の親として中学の頃、長男の反抗期にはとっくみあいのけんかをしてやっと勝ったことを思い出した。
子どもの言うなりで心の教育はできないと思う。
また親が本気になればほとんどこのことは解決できると思うのですが、みなさんお互い子育てに悩みはつきものです。
そして、子どもはみんな大丈夫だと思うのです。

大人側が子どもとのかかわり方、時に本音をぶつけないと、とりかえしのつかないことになります。

『情』は、黒板ですぐ教えられるものではありません。
時間をかけて共に日々の感動体験を大切にいきたいものですね。


以上が先生の文でした。

当時も、日々いろいろな少年犯罪などが報道されていたことが、うかがわれます。
「もののあわれ」を感じ取るには毎日人と接したりする中で培われるものなんだということが書かれていたと思います。

驚いたのは、先生が反抗期のご長男と取っ組み合いのけんかをしたというくだりでした。
そのご長男は私が中学生の頃、先生の家にクラスの男子数人と泊まりに行ったときにいた幼いあの子だ!・・と思い、感慨深いものがありました。
私が「高い、高い」をして持ち上げてあげると大喜びしていたあの子かぁ・・と(^^;)

余談ですが、写真の“蚊取り線香”のように渦巻き状に引かれている線は、このぐるぐると上下左右が次々と入れ替わる文章をなんとか読むために私が引いたものです。
もうねえ、線を引かないと読んでいるだけで“文字酔い”して具合が悪くなってくるのです。しかも、読みながらキーボードを打っているのです。もう大変!!!

先生の遊び心はいいと思うんだけど、これを手にして読んでいた当時の人はよほど我慢、忍耐、探求力のある人だけだと思います。大変な作業でした。途中で何度か投げ出したくなりました(^-^; が、なんとか活字化終えることが出来ました。

 

2022/11/18

【南先生の玉手箱_0055_手づくり体験 二人で百七十歳】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
今回は、平成18年1月25日の日付が入っている「らくがき №52」という通信文から活字化をいたします。
おじいちゃん二人による「凧作り教室」の話題です。


以下、先生の文章です。

<今関さん 手つくり体験 渡辺さん二人で百七十歳>

昨年に続いて松尾からおじいちゃん二人、来校。
低学年凧つくり教室があった。

簡単な凧を自分でつくるなどはちょっと前までは子どもがあそびの中で家庭や地域で普通にみられたことだが、学校にあそび教育などが入ってから、暮らしの中に手つくりの味わいや道具の使い方を知るチャンスがめっきり少なくなった。

時代の変化とは言うものの、子ども時代にあそびを通して身につくものは大きい。

暮らしの中で直接にかかわらなければ何も身につかないままに成長して、大人の時代を生きることになる。

そんな不安を時々感じながらも、子どもたちは日々喜々として楽しく学校や家庭で暮らしている。
無理にとは言わないまでも、簡単なものつくりは生きる力として誰もが欠くことのできない部分です。

お金で買えない心の耕しが今、大変重要な時代にあります。

竹ヒゴつくりから、のり付け、糸つけまで手伝ってもらってその十文字凧にみんな絵をかいて雪が残るグランドをかけまわって楽しそうなひと時でした。

また、今日のために一日一本しかできない竹トンボを本校児童全員につくって持ってきてくれた、ありがたいのひと言ではすまされないとんでもないプレゼント。
子どもたちにあげたいからと、それこそ忘れることのできない宝ものをいただいてしまいました。

※通信文の外枠にそっと書かれていた先生のひとり言・・・生まれながらにして悪人はいないが、人は育ち方、教わり方で、とんでもない奴になってしまう。今関じいちゃんのような人はそういないと思うけど、そんなじいちゃんになりたいものだ。


以上が先生の文でした。

地域の方が子どもたちにいろいろな遊びや、ものづくりを教える機会、現状はどんなことになっているのでしょう。
時代はどんどん変わってネットを利用した人との関わり方が多くなっているような気もしますが、直接お年寄りやいろいろな人と会ってお話を聞いたり、教わったりすることは今でもとても大事なことだと、あらためて思いました。

そして、南先生、「そんなじいちゃんになりたいものだ」と書かれていましたが、今、“そんなじいちゃん”になっています(^_^)

 

2022/11/11

【南先生の玉手箱_0054_入試おわる】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
今回は平成16年3月8日の日付が入っている「らくがき №46号」という通信文に書かれていたものです。
入試が終わったときの先生の感想のようなことが書かれています。


以下、先生の文章です。

<入試おわる>

中学生から合格の連絡が入る。もちろんおめでたいことですが、数は少ないがその反対もある。

どちらも体験は本人の問題ですが、私ごと過ぎた昔を思い出すこともある。
不合格のショックとは結構大変なものでありますが、あとふりかえってみると自分の道は自分が決める、その中で自分のらしさをどう磨いていくか、いつも思うことだが自分の気持ちひとつで明るくも暗くもなる。

そして自分で評価することが大切であって、他者との比較ではないことが多いのが人生と思ってきた。

いつも思うこと、また感じることは子どもたちは日々実に輝いてその可能性に限りないものがある。

自分も昔そうだったのだろうか、若いということだけでも大きな宝である。
十二日は中学校卒業式、それぞれのらしさがまた大きくはばたいてほしいものです。
大平地区の中学生のいろんながんばりが耳に入ってくる。
登下校の時にちょっとすれちがう子どもたちがこのところ、またひとまわり大きく見える。

「追記されていた文」・・・杉田先生ありがとう。4年2組を中心として大変お世話になりました。
お別れの会、少ない時間の中で子どもたちの気持ちのこもった様子をのぞかせてもらった。
お互いにいろんな出会いがある。
その偶然の出会いにどうかかわっていくか、人と人お互いが思いを寄せることが宝だと思う。
みんなよい子に育っています。


以上が先生の文でした。

卒業式って、自分のことを思い返すと、小中学校は自分の卒業より、上級生を送るために何度も式の練習をしたことばかり思い出します。
今どきはあるのか、ないのかわかりませんが、「送辞」は完全に暗記するまで練習したことを覚えています。

高校の卒業式は覚えていて、すべて終わったあと教室にクラス全員残っていろいろな想い出を語らいました。
誰が音楽室から持ってきたのか、レコード・プレイヤーが運び込まれ、三年間の学生時代に皆が聞いていた曲のレコードが次々と掛けられていました。
クラス委員長がギターを持ってきて、そのあと皆で歌を歌ったのも覚えています。
なんの曲を歌ったんだろうか・・。

という私の記憶を掘り起こしたところで、今回の南先生の文章活字化作業は終了です。

 

2022/10/29

【南先生の玉手箱_0053_成人の日に思う】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
今回は平成18年1月の日付が入っている文で、先生が校長をしていた小学校で配られた「らくがき」というプリントからです。


以下、先生の文章です。

<成人の日に思う>

今年も成人のみなさん、おめでとうございます。

成人の日に限らず、祝日などは決まっていたほうがいいと思うのですが、いろんなところでこちら側とは関係なしに流れが変わっていくことが多い。

一月八日横芝の成人式に参加させてもらって五年前、横中の卒業生たちの晴れの姿を見せてもらった。
当時の先生方からのメッセージを聴きながら五年前の懐かしさや雰囲気を感じた今年の式典であった。

成人式に限らずひとつ人生の大きなくぎり、自ら立ち止まってスタートラインに立つことは大切だと思う。

それぞれがちがう環境や立場でむかえる人生の中で大きなくぎりにある成人その年に私ごと自分をふりかえってみる時、東京で学生だったが、気がついたら成人式はおわっていた。

アルバイトその他生活に追われていたが、別に出席するつもりがなかったか、また何かこだわって成人式そのものを無視していたか、そんな十代後半、今考えれば毎日夢中と言うか、自分のやりたいこと中心に暮らしていたのかと思う。

日本中でたくさんの若者がそれぞれの思いでむかえる成人の日、表に見えず聞こえてこないたくさん悩みをかかえた若者の存在も多い。

私ごと、そろそろ三回目の成人式と言える年の者から若者に伝えたいひと言は、限りない可能性の中に居るうちに、何かに夢中に生きてほしい。
若さは宝もの、輝きは自ら発信するものです。


<あっちこっち>
(※同じ頁に書かれていたこの文も併せて活字化いたしましたのでここに掲載します。)

あっちこっち上下左右、中と外、こっちはしからむこうのはじ、プラスとマイナス、表と裏、入口出口に、東西南北、白と黒など、身のまわりにはたくさんの反対側があって、それぞれにちがった見え方、考え方がある。

これでおしまいと思うところから新しいことがはじまる。

白と黒の間には限りない灰色がある。

時に自分の見方、考え方とちょっと変えてみることで今までとちがった見え方、感じ方ができる。

いつもこっち側から見えていると思っていることが本当のところ何も見えてない、わかってないことにも気がつく。

時に立場や環境に対してむこう側のことを想像する時や空間を大切にしたい。

いろんな場所にうずの中心が存在する。


以上が先生の文でした。

成人の日の文では、若い人に何かに夢中になってくれという思い。そして“あっちこっち”という文では色々な角度、方向から物事を見ることで新しいことが見えてくるというようなことが書かれています。

私も、いまだ忘れがちなことだとあらためて思いました。

日々いろいろな出来事、事件があったり、身の回りでも様々なことが起こります。
それを自分の日々の生活やこれから生きていくことの“糧”にして“生き生きと”していたいと思いました。

 

2022/10/09

【南先生の玉手箱_0052_東日本大震災後の自然環境についてひとり言】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
今回の文は、「雑資料」という綴りにあった一文です。他の一緒に綴られた文章から想像するに、おそらく平成18年頃のものだと思います。
戦後数十年と、あの大震災を経過しての自然環境に対するひとり言です。


以下、先生の文章です。

〈ひとり言〉

戦後六十数年、敗戦と復興の中で時代は平和(命)の大切さを実感しながら、物質的な豊かさ、暮しの便利さを求めて経済発展・成長を続けてきた、今、東日本大震災をもって、この100年、日本人ばかりではなく、地球規模で温暖化問題、生命体にかかわる自然環境の破壊状況は、針がふりきれて、危機的、大変な状況が続いている。

広島、長崎にとりかえしのつかない被爆体験をした日本が、今、世界に加害国になってしまった。

現代文明の進歩、発展を100パーセント否定する者ではないけれども、豊かさ、便利さを求めて流れてきた今、何かその姿には勘ちがい、思いちがいが充満し続けている。

暮しをふりかえってみる時、私たちの身のまわりにはちょっと前まで日本の美しく、暮らしやすい四季の中に五感を通して普通にかかわっていたきれいな水、空気、土が宝ものとして存在して、共存の暮らしがあったように思う。

夏は冷たく、冬は温かい地下水、井戸に冷やした夏のスイカはうまかった。
子どもの頃、近所の雑木林や家森にあそんだ中に感じた自然のエアコン、木森をぬけるさわやかな風や陽だまりにあったぬくもり、道路、空き地などで体感した小さい虫たちや植物など命の不思議を見て触って覚えてきた感覚が今は子ども時代から身近にぬりつぶされて五感はすっかり退化してしまったように思うことがある。

この夏にむけてまだ梅雨時と言うのに、毎日30度以上の気温はもう暮らしの限界を超えている。
それだからもっと快適にエコ製品の開発をくりかえす反対にストップ・ザ・便利、勘違いの豊かさを止めてあたりまえを実行していく時代と思う。

30年以上前から身近に姿を消していく雑木林や大きな樹に思いを寄せているけれども、この状況になってもまだ身のまわりで樹木の伐採が優先されての人の暮らしの中、水・空気・土の汚染が続いている。

おおげさなことじゃあない、誰もが普通に考えて、そうだよなあって感じられるうちに将来この先若者たちに豊かな命のバトンを引き継いでいきたい。
それこそ今時代が体験しているとりかえしのつかないことの数々に思いを寄せて、少しでも軌道修正していかなければと思う団塊の世代のひとりです。


以上が先生の文でした。

今回のテーマは、今でも先生に会うと、私に話してくれることです。
この夏も36度なんて熱暑の日が度々ありましたが、人はそんなとき立ち止まって「何かが間違っているんじゃないか」と思わなければいけないのだと思います。

・・なのに、神宮外苑の木々を何千本も切り倒そうとする人がいて、平気です。
自分のことだけ考えているヤツ、自分さえよければ何でもする。
百年かけて人々の手でつくりあげた樹木の自然環境を時間の流れからすれば一瞬の出来事で破壊することに平気な人。・・日本だけではありません、世界にもそんな人が何人もいて、自然も歴史も文化も破壊してそれでも平気な顔をしている・・。
そんなことを今回の南先生の文章を読んでいた考えました。

 

2022/09/27

【南先生の玉手箱_0051_ふっと思う自然の緑と校庭の大くすの木】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
今回は、平成17年6月の日付が入っている家庭への通信文と思われるものを掘り起こします。
季節の中での自然のいとなみを見つつ、当時校庭にあった「くすのき」の心配をして書かれたもののようです。


以下、先生の文章です。

<ふっと思う自然の緑と校庭の大くすの木>

梅雨の候、何かとうっとおしい季節に自然の勢いは生命にみちあふれ、たくさんの息吹を感じさせてくれる。
学校の時計草も咲きはじめたこの頃、緑や花の変化に立ち止まることが多いです。

気に留めなければ何も感じることはない。
あたりまえのことですが、日本の恵まれた季節の変化を味わいながら感動する気持ちを大切に暮らしたいものです。

毎日子どもたちは、目の前のものごとや自然に対して正面から素直な気持ちで観察をしながら嬉々として活動しています。

私たち大人はその子どもたちの目の前にある今を最優先してかかわっていきたい。
毎日子どもの言動からエネルギーや夢をたくさん感じながら日々生き生きとありたいですね。

日常の普通の教育活動の中、暮しの中に目の前に今光っているものを感じとりながら日々感動を軸にして暮らしたい。

自然の深緑の中に生きるものの姿も時に感動的であります。
身近に恵まれた自然環境に意識的に目を、心をむけていきたいですね。

朝顔などもそうですが、この季節には何となく“つるもの”のイメージが気持ちにあって、上下・左右、・うしろに前にどんどん勢いよく伸びていく生命力などお話の中にあるジャックと豆の木の世界など、どこまでも伸びていく不思議な空間や夢の世界を思い出す。

お互いにたくさんの命と共存をしているなど、このうっとおしい季節に命の輝きをみつけたいものです。

大総小学校の伝統を見守る大きな存在の横綱である大くすの樹に出会って昨年からちょっと気になっていました。
昨年の秋に、芝山の樹医さんが見てくれてありましたが、この春も“まん中”の葉が少なくて少し心配。

四月に百年に一度のくすの木便りをお届けしたように、早いうち一回治療を加えたいと思います。
昨日、樹医さんと打ち合わせをしました。
すぐに枯れるとか言う心配はないとのことですが、子どもたちの次に本校一番の宝ものと思っています。

何も言わない身のまわりの自然の命に思いを寄せることの大切さ、創立から今まで大総小学校を見守り続けている大くすの治療を予定しています。
根まわりに空気を入れて肥料を加えるなど学校から後日お知らせをする予定です。
身近な存在の大きな木を大切にしましょう。


以上が先生の文でした。

先生が校長をしていたこの大総小学校も“くすの木の心配”をしていましたが、私が卒業した小学校も同じ問題を抱えていました。

樹齢百年の大樹に私が卒業してから数十年後にやはり治療を施し、“生き返る”ことができました。
今も小学校の前をクルマで通りかかると緑の葉をいっぱいつけた「くすの木」が校庭で元気にしています。

たいせつなことです。

 

2022/09/15

【南先生の玉手箱_0050_安全第一】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
今回は、平成17年の「紙面研修」と表紙に書かれた資料の中からの抜粋です。
列車の大事故のことを書かれているので、たぶん「福知山線の脱線事故」のことについて先生がその時思われたことをまとめたものだと思います。

以下、先生の文章です。

<安全第一>

どうすればそのようになるものか目を疑いたくなるような列車事故、大惨事があった。
百名を越す死者の数。

私ごと何かあるたびに思うのですが、現代の事件や事故の多くは、被害者の不注意とはまったく反対側にある社会構造のひずみから生まれた人災であり、とりえかしがつかない犯罪でしょう。
便利さ優先、何ごともスピード化されてきた暮らしの中で時々立ち止まらなくてはいけないと思うことが多いです。

やらなければいけない仕事がある毎日のスケジュール、、そして今、目の前の仕事みんなやってあたりまえなのですが、無理が多くてはダメ。
時々気持ちをコントロールする暮しのリズム、精神面バランスを考えることが一番。

ストレスを重ねた結果はよくならない。
知識として分っていても、仕事のリズムを変えることは難しいことです。
スケジュールよりも安全が第一で、誰でも分っていることができない。

大きくは社会構造、また身近なところでは、職場の人間関係、いろんな問題が重なって事件や事故、また考えられないことが起こる。

二度とこのようなことにならないようにと各関係の者が頭を下げるが、なくなった命にスペアはない。
どうしてもとりかえしはつかないことの責任をどうするものか、何かある度に同じ状況がくりかえされている。
今回の事故も事故そのものは一瞬の出来事ですが、その原因には多くの人的環境、人と人との日頃の関係、社会や仕事を経営する者の側に大きな責任を感じるのはみなさんも同じことかと思います。

便利さ、スピード優先の暮しの裏にあぶない実態がたくさんあることに思いを寄せていきたい。
そして何よりも人の心のあり方について自ら普通の状態に正していきたいものです。

今から30年以上前、大阪万国博覧会に偶然行った時に、岡本太郎氏のあの太陽の塔は今でも残っているのですが、あの時関西の鉄道に乗った時、電車のスピードにびっくりしたのを今思い出します。

ことによると30年前からあぶない状況が続いていたのかも知れません。
人間、時にストップ・ザ・便利、立ち止まること、歩くペース、ゆっくり安全が基本ですね。

[事故と言うより犯罪だと思います お互いの立場で職場の管理、人的・物的環境衛生の点検をしたい]

※こんなことを書いている自分が毎日車を乗りまわして、歩行者、自転車など、弱者に大変迷惑をかけて暮らしている。
またガソリンを消費して自然環境も破壊している。
自分自身の暮らし方からコントロールしていきたい。


以上が先生の文でした。

あの福知山線脱線事故は衝撃的でした。
そして、スピードアップを最優先していた鉄道会社のやり方を知ることとなり、驚きました。
あれから15年以上も経っていますが、世の中の動きというものは“相変わらず”なんじゃないかと今でも思います。
いろいろな事件の発生源は、上層部の人間が自分の成績を上げようとして組織の下部にいる者に無理を強いることがほとんどではないかと思います。
それは事件が起こる度に「ご心配とご迷惑をおかけした」と頭を下げる人達が今でもやっていることです。

人として大事なのは「真心」と「正義」と「真実」です。

 

2022/09/01

【南先生の玉手箱_0049_冬季オリンピックが話題の中、曲技芸の中にある大切な本人らしさを見たい】

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私の中学時代の担任で美術の先生の現役時代の資料やメモなどの文書を掘り起こして活字化する作業。
今回は、「らくがき」と称していた配付プリント裏側にあった「ひとり言」という、当時の冬季オリンピックを先生が見ていて感じたことを書かれたものです。

中心にある先生の絵は、フィギュアスケートの選手が滑走しているところと、スピンしているところが描かれています。


以下、先生の文章です。

※最初に「但し書き」のようなものが書かれていました。文字が中心の絵の周りをぐるぐる回っているのでとても読みにくいことについてご自分で注意書き的なことを書いています。↓
【ひとり言です。大変読みにくいので、無理をしないでください。定規をあてたりすると何とか読めますが、内容はおまけのようないつものらくがき内容です。】

では、ここからが本文です(^^;)↓

冬のスポーツ冬季オリンピックなどが話題の中、各地でマラソン・駅伝等の催しがテレビ、ラジオ、また新聞を通してたくさん報道されるのを時々見ることがある。

マラソンなど、得意ではないが、長いところを精一杯がんばってゴールする気持ちは良いもので、走った時のことを思い出すことがある。
冬は、特に走るなどの体力づくりに進んでとりくむのが良い。

長い人生の健康つくりに大切な部分かと思っている。
私ごと、小さい頃、体は弱いほうだったが、中学の担任の先生が運動はいいから陸上部にも顔を出しなさいと言われて部活動のかけもちをしたのを思い出す。

どの道でもその中で一番になることはそれこそ何億分の一の確率だが、五体満足にある者にとって、自分の健康体力つくりは自分の責任だと思います。

偶然だが、ちょいとフィギュアスケートに触れて思うことがある。
今年もトリノ・オリンピックが話題になっているが、どの選手を見てもその芸は曲芸的で、普通一般に真似のできる技ではない。

そんな状況の中で各選手の持ち味の他にやたらと難易度とか、点数をつける側の注文が気になる。

これはスケートばかりじゃあなくて、何の分野についても同じことが言えるような気がする。何かの作品展覧会でも、作品そのものからストレートに感じる部分を強く評価してもらいたいのだが、もっとここをうまく表現するとか、こんな色だともっと良い作品になるなど、多くの注文を見る側から出してくるので、作品が本来持っている良さなどが消えていく。

そんな場面に出会うことが多い。
そのものが持っている良さや味を大切に感動そのものを素直に評価の形にしてほしいと思ったりすることが多い。

スケートの世界でも今回のオリンピックに出場はできなくても、他に何百何千人とその競技を通して夢追いかけて魅力的な表現に日々全力投球している若者たちがいる。
人はお互いに誰かのため、また何かのために生かされているのではないことを時に確認しながら評価する側、される側、教える側、こっちとむこうお互いの関係の見直し、気くばりをしていきたいものてす。

何につけても本人らしさが魅力の原点です。


以上が先生の文でした。

トリノ・オリンピックを見ていて感じたことを書かれているので、2006年(平成18年)の文だと思われます。
たしかに先生が書かれているように、もうフィギュアスケートは豊かな表現だとか、流麗な演技よりも、“難易度”“高度な技術”が中心になってきていて、これは他の競技でも同様な気がします。

だから、私はもうフィギュアスケートもそうですが、オリンピック自体もほとんど見なくなってしまいました。
それに“お金”のために開かれていることが近年の事件でも明らかになり、すっかり“冷めて”しまったのです。

そんな今の私のような気持ちを、当時、先生も感じていたのだなと思いました。

 

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