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2023/09/18

「かなり気がかりな日本語/野口恵子」を読みました。

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『かなり気がかりな日本語/野口恵子著(集英社新書)』という本を読みました。
2004年に発行された本で、古本で手に入れました。

著者、野口恵子氏は日本語・フランス語教師で、東大大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程単位取得し退学。フランス語通訳ガイドを経て、大学の非常勤講師をされている方とのこと。

20年も前の本ですが、私が今でも気になる日本語についていくつも書かれていました。
この当時からさらにその状況は進行しているように感じました。

いくつか気になったところを挙げてみます。ほんの一部ですが。

私もかつての職場で経験したことがあるのですが、職場内で専門用語、業界用語が存在していて、そこでしか通じない言葉というものがありました。
そこでは、相手に通じないかもしれないという配慮などありませんでした。そんなことを想像することも欠如した人たちがたくさんいました。

特殊な言葉に通じている自分には高い評価が与えられてしかるべきと考えているふしも見受けられました。粉飾がすぐに見抜かれることにも気づかず、さらに仲間内の言葉しか知らず、だからそれしか使えない・・そんな状況が多々見られたのです。
自らの語彙の貧しさ、知識・教養の無さに気づいていない・・そんな感じ・・けっこうそんな職場ってありませんか。

また、テレビばかり見ている人などは業界用語を日常の会話や学校、職場などでも平気で使っている例が見られました。
「巻(まき)でお願いします」「噛んじゃいました」「見切れてます」などなど。
今ではどこでも使われていて、政治家まで使っている「目線(めせん)」という言葉も。
「市民目線で・・」などと言われてその政治家を信頼することなど私には出来ません。
「目線」も業界用語です。

著者が大学で教えている生徒を見ていて感じたこととして、

「今どきの大学生を取り巻く日本語の環境は、ほかならぬいまどきの大人たちが作ってきたのである、大学生は、大人たちの育てたように育ち、するようにしてきた。それでは、今どきの大人たちはどんな日本語を使い、どのようなコミュニケーションを行っているのだろうか。大学生と同じように、皆が使う言葉に安易に飛びつく傾向があって、敬語の使い方がおぼつかなくて、対面コミュニケーションを苦手としているのではないだろうか。答えは日本語のコミュニケーションの現状を観察することで、おのずと見えてこよう。」

と、おっしゃっています。同感だし、私も反省することが多いと感じました。

また、「ある意味」と始めて“別の意味”の存在を匂わせているのに別の意味に言及しない人。
「逆に」と始めているのに、単につなぎの言葉として使っていて、逆ではないという人もいる。
「真逆(まぎゃく)」という言葉を初めて聞いたときも私は違和感がありました。
そんな言葉を聞いたことは今まで無かった・・。

サッカーの中継で、アナウンサーが「選手が痛んでいます」あるいは、「ドイツの選手が一人痛みました」っていうのも初めて聞いたときは驚きました。
「選手が足を痛めた」ならわかるが・・「私は痛んでいます」っていう表現が可能なのか、と思います。

同じくスポーツ中継などで「結果が出せませんでした」などという表現もあります。
“敗戦”という結果が出ているじゃないの、と私は思うのです。
「結果」イコール「良い結果」と変換されているのが実に妙です。

以上のようなことがたくさん書かれていましたが、上記は氷山の一角です。
くれぐも《言葉》には気をつけ、敏感でいたいと思ったのでした。

 

2023/08/21

「ラジオ深夜便 新 珠玉のことば ~ラジオが教えてくれた名言100~」を読んでみました。

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『ラジオ深夜便 新 珠玉のことば ~ラジオが教えてくれた名言100~/月刊誌『ラジオ深夜便』編集部(NHKサービスセンター)』という本を古本で見つけ、読んでみました。

山田太一さん、中村メイコさん、美輪明宏さんらがラジオ深夜便で語った100のメッセージが掲載されています。

1頁に1メッセージが載っていてとても読みやすく、それぞれのメッセージから来るインパクトも強く感じることができました。

生物学者の福岡伸一さんの言葉が印象に残りました。

生き物たちは三十八億年の進化の過程で、特定の食べ物をめぐって無益な争いが起きないように、互いの領分を棲み分けてきました。
ほかの生物の棲みかに土足で上がり込んでそこに何かを作ったり、地球の裏側から食べ物を取ってきたり、そんなめちゃくちゃをしているのは人間だけです。

・・人間って、案外生物としては“下等”な部類に入るのかもしれません。
過去の失敗、経験は都合の良いように忘れ去られたり、捻じ曲げられて記憶されたりして、また同じ過ちを繰り返すのですから。

東京医科歯科大名誉教授の藤田紘一郎さんは

「汚いもの」「要らないもの」を排除する超清潔志向が、社会から少しはみ出した人たちを異物視する風潮につながって、心の問題にまで広がっているように思えてならないのです。

と語っています。
これも現在の、特に日本の状況を示しているような気がします。
汚いだとか、要らないと思っている側もかなり偏向しているんじゃないでしょうか。
汚くもないし、要らないはずがない、という事物に対しても過剰ともいえる反応を示しています。

Twitter(X)などを見ても、自分とは異なる意見や志向のある人に寄ってたかって総攻撃を掛けている様子がうかがえます。
それが社会の片隅にいるような人に対して重くのしかかり、心の問題にまで発展しているのではないかと危惧します。

上記以外も「なるほどそうかもしれない」という言葉がいくつもありました。
この本は手元に置いて、自分の気の緩みを引き締める役割を果たしてくれそうです。

 

2023/08/20

外山滋比古氏の「知的な聴き方」という本を見つけ、読んでみました。

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『知的な聴き方/外山滋比古著(だいわ文庫)』という本をブックオフで見つけ、読んでみました。
2015年に刊行された「思考力の方法 聴く力篇」を改題したもので、2018年に文庫として発行されています。

ようするに様々な知識や情報などを文書からだけでなく、“耳から”入れることを大事に考えてみよう、という本でした。

私にも経験がありますが、中学や高校の時に先生が言った「ひと言」が意外と今でも残っていることがあります。
それは私にとっても“目からウロコ”のような画期的なことだったことが多く、その教科に興味を持つきっかけにもなりました。

もちろん活字から得たものはとても多いわけですが、耳から入ってきたものというのは、なかなか記憶から消え去ることがないものです。

もうひとつこの本に書かれていて、そうかもしれないと思ったのは、「活字」になっていると信憑性が高いものと自動的に判断してしまうことが多いんじゃないかということです。
これは様々な書籍、専門書などでもそうですが、新聞やその他活字化によって「なんだか信じてしまう」ということは誰にでもあるんじゃないかと思うのです。

その悪い部分が表立っているのが、現在のSNSかもしれません。
活字の波があの小さな端末から押し寄せてきて、どれが本当かわかりませんが、盲目的に信じてそれに反する意見を述べる人に対して攻撃したりする場面もよく見かけます。

「人と交わり、会って、話す」・・要件がなくても、会っておしゃべりを楽しむ・・これが人間的成長に結びつくのが成熟した社会であると外山先生は書かれています。
さらにゆっくり、手紙、葉書を書くことで自らの言葉の世界を大きくすることができる、と結んでいます。

私も読書量は割と多い方ですが、人との会話、“話すこと”も大事に生きていけたらと思ったのでした。

 

2023/07/22

「季語集/坪内稔典」を読みました。

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『季語集/坪内稔典著(岩波新書)』を読みました。
表題どおりの「季語」を集め、その謂れや、例句が掲載されているもので、またもやブックオフで100円は安かった。

私はほとんどテレビを見ませんが、TBSで放送されている「プレバト」は、俳句のコーナーが楽しみでよく見ます。
そこで、今まで知らなかった季語などを知り、そして興味を持ちました。

私は句を捻ったりはしませんが、でも季語を知ることは楽しい!

昔、大阪四天王寺の聖霊会(しょうりょうえ)では、お供えの造花に貝殻を付けた。その貝殻を住吉の浦に吹き寄せた風が『貝寄風(かいよせ)』と呼ばれ、幻想的で美しい言葉です。
春の季語となっていました。

そういえば、以前どこかの古い祠の中に貝が飾られていたのを見たことがあります。
これはいったい何だろうと思ったのですが、この季語の語源に関係あるものだったのかもしれません。

生活の中からの季語で、『おしまいやす』というのがありました。
京都言葉で、京都の年輩の人々が「おしまいやす」と声を掛け合っては、行き違う・・・「今晩は」にあたる言葉なのだそうです。
これは知らなかった。秋の季語となっています。晩秋の人恋しい気分などが頭に浮かびました。

お茶や珈琲でも飲みながら、この本をめくっていると、とても優しくてほっこりとした気分になりました。

これからも手元に置いて、時々パラパラと頁を繰ってみようと思います。

 

2023/06/25

「文豪の凄い語彙力」を読みました。

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『文豪の凄い語彙力/山口謠司著(新潮文庫)』を読みました。
もうねぇ、いつもブックオフの100円コーナーです(^_^;)

文豪と呼ばれる方達が使われる言葉にはいつも読んでいて「これは!」と思うような、その表現にはぴったりだと思うもの、聞いたことがないがなるほど絶妙と思うもの、ここでこれを使うか、というような“目から鱗”的なものなどがあります。
この本はそういうものを集めたものでした。

〇すっぽり飯

永井荷風が「一人ッきりの、すっぽり飯はいやだな」と、使っています。
私はまったく知らなかった表現ですが、「すっぽり飯」とは、「汁、湯茶をそえないで食べるご飯、またおかずなしで食べる飯」のことをいうそうです。江戸の言葉だとのこと。
一人きりの寂しい食事の様子を表すのにはたしかに持ってこいな表現だと思いました。

〇生中(なまなか)

内田百閒先生が「貧乏の絶対境は、お金のない時であって、“生中”手にはいると、しみじみ貧乏が情けなくなる」と使っています。
「生中」は中途半端で具合が悪い感じを表すとのこと。
この言葉、私がまだ就職したての頃に使っている先輩がいました。
「なんか、いい感じに言いたいことがわかる面白い言葉だな」と、当時感じたことを思い出します。

〇岨(そば)

島崎藤村が「木曽路はすべて山の中である。あるところは“岨”づたいに行く崖の道であり・・」と使っていたものが例示されていました。
「岨」は、険しい場所を一語であらわすものだそうです。
これも明治生まれの老人が、私がまだ子供の頃に使っていたのを微かに覚えています。
やはり“感じ”が出ていて、良い言葉だな、と思いました。

上記、三つほど気になった言葉を挙げてみましたが、近年、私の語彙はますます減っていくばかり、そして周囲を見回しても全部「ヤバい」で片付けるような人も多い、そんな中、小説を読んだときにでも『いい言葉』に出会って、出来ればそれを使ってみたいな、と思いました。

 

2023/01/10

「プロフェッショナル100人の流儀(珠玉の名言集)」を読みました。

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『プロフェッショナル100人の流儀 -珠玉の名言集-/藤尾秀昭監修(致知出版社)』という本を読みました。
いつもどおりのブックオフで購入。

監修されている藤尾秀昭氏は、月間『致知』編集長で、≪人間学≫をテーマに一貫した編集方針を貫いてきた方とのこと。

この本に登場する100人の著名人の方々は、それはもう立派な人ばかりで、そのお言葉は参考にするには私のような凡人にとって厳しいものばかりでした。

いくつか私が気になったものをあげてみると・・

「地球上で最も必死に考えている人のところにアイデアの神様は降りてくる/森岡毅(ユー・エス・ジェイCMO)」
・・・何度も壁に直面し、その都度、歯を食いしばって、執念でアイデアを振り絞ってきた、泥臭い積み重ねです。と書かれていました。
たぶんこういう人は何百万人にひとりなのかもしれない。凄すぎて私には想像もつかない世界です。

「嫉妬しているうちは本当の福は回ってこない/小出義雄(女子マラソン指導者)」
・・・これはなんだか私にもわかります。自分のことで思い返してみても、“嫉妬”したときというのは、その後ろくなことになりません。素直に「よかったね」と思うと、なぜか物事が好転することがありました。

「信用は使ってはならない、使わなければどんどん増えていく/黒田暲之助(コクヨ会長)」
・・・先方の言葉に甘えて信用を使い出すと、長い年月をかけて血のにじむような努力によって蓄積したきた信用が取り崩されてしまう。お金は減ったらわかるけど、信用は目に見えないだけに減っていることがわからない。信用は使わなければどんどん増えていく。そんなことが書かれていて、「なるほど」と思いました。
溜まっていた信用を使い出した途端に一気に人としての信用を失った人・・何人か見たことがあります。

上記のようなお言葉が100人分、・・読んでいるだけで“疲れ気味”です(^-^;

 

2022/12/19

高嶋秀武さんの古い本「話のおもしろい人、つまらない人」を読みました。

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『話のおもしろい人、つまらない人/高嶋秀武著(PHP文庫)』という本を読みました。
これもまたブックオフで見つけたものです。
この本は2000年に刊行されたものに加筆修正して2002年に文庫化されたものです。

高嶋秀武さんといえば、私にはラジオ、ニッポン放送の「大入りダイヤルまだ宵の口」という学生時代に聞いた番組や、自分が働くようになってからは朝の情報番組「お早よう!中年探偵団」などをよく聞きました。
いちばんラジオでお声を聞いた方じゃないかと思います。

ジャーナリスティックになり過ぎず、でも“くだけ”過ぎず、ほどよい感じのお話は高嶋さんならではのものでした。
高嶋さんが朝の番組から退いてからは、その帯番組はちょっとジャーナリスティックに、しかも針の振れ方が気になりだし、いまは朝の情報番組、ニッポン放送の番組を聞くのをやめてしまいました。

話は本の方に戻り、この本に書かれていることは一般的にも最近よく言われていることが書かれていましたが、それでもあらためて自分をいましめるためにも参考になりました。

えっ、今そんなこと言うの?ちがうでしょ。というようなその場の状況が読めない人の実例や、本音を話さないで自分のイメージをくずさないように当たり前で通り一遍の話しかしない人、自慢話ばかりのナルシストタイプの人、どんな話も横取りして自分の得意話にもっていく人、最後の最後にネガティブなことを言う人、話が長く皆が困っていてもまったく気づかない人、などなど気をつけねばならないことが実例をあげて書かれていました。

そして、私も仕事上の会議や、冠婚葬祭時などに上記のような方々の実例に出くわしました。
みんなが困り果てて“ざわざわ”していても、そんなことまったく意に介さずにマイペースの人が少なからずいました。・・私も注意しよっと・・(^_^;)

このくらい常識だよ、と思うようなことが書かれているのかと読み始めたのですが、高嶋さんが遭遇した実例も面白く、興味深く読めました。
高嶋さん、近年 YouTube も始められたので、それも時々拝見してご健在ぶりを確認しました。
今の状況での心境などをまた本にしていただきたいなあ、などと思いつつ読了いたしました。

 

2022/11/13

「旅だから出逢えた言葉/伊集院静」を読みました。

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『旅だから出逢えた言葉/伊集院静著(小学館文庫)』を読みました。
伊集院さんが旅に出て、そこでその地で出逢った人や出来事から得た言葉について書かれた本でした。

ほとんどが国外に旅をしたときに伊集院さんが感銘を受けた言葉だったのですが、私がいちばん強い印象を受けたのは、伊集院さんの奥様がふともらした言葉でした。

場所は伊集院さんが奥様と出かけたスペイン。
バルセロナの北、モンセラットにある“奇跡のマリア”に義父の長寿を祈りに出かけられたときのことです。

奥様のお父様は担当の医師からの診断よりも、その祈りのお陰か何倍もの歳月生きることができたとのことでした。

敬虔なクリスチャンである奥様(女優の篠ひろ子さん)に「神は君に何かをしてくれるのかね?」と伊集院さんがたずねると・・

「どうなんでしょうか。私は神が何かをしてくださるとは思いません。ただ私はささやかな契約をしているのだと思います。その契約のために祈っているのではないかと・・・。」と応えているのです。

思わぬ答えに、伊集院さんは一瞬、沈黙します。
「私が旅で探していたものへの暗示がこんなに近くにあったことに驚いた」と、夜の仕事場で伊集院さんは振り返っています。

そしてもうひと言、奥様から・・

「何かをしてくださったこということはありません。でも、どんな時も、そばにいてくださいます。」と。

私自身はクリスチャンではありませんが、でも、神様って奥様の篠ひろ子さんがおっしゃっているような、そんな感じでとらえています。

私にとっても神様という存在は、何かしてくれるわけではなく、面倒を見てくれるわけでもなく、でもどこかにいて見守ってくれている、そんな感じ・・。
そうでもなければ、ただひとりこの人生を生きて行くのは厳しすぎるし、寂しすぎます。

そんなことを考えつつ読了いたしました。

 

2022/10/14

「ニホンゴキトク」という久世輝彦さんの本を読みました。

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『ニホンゴキトク/久世輝彦著(講談社)』という本を読みました。
1996年刊行の本です。

「ニホンゴキトク」というのは“日本語危篤”っていうことなんです。

この本が刊行された1996年頃に、「この日本語はもう“瀕死”の状態で“死に絶える”だろう」と久世さんが感じている“日本語”を拾い集め、かつてはこんなときに使われていた、あるいはこんな使い方をするとその様子がとても良くわかったり、感じたりしたものだ・・というようなことが丁寧に書かれていました。
2022年現在、死んでしまったと思われる言葉もいくつかありました。

特に久世さんがその言葉を拾い集めるときに参考にされていたのが、かつて一緒に仕事をされていた向田邦子さんの著者からや、コラムニストの山本夏彦氏の著書、さらに幸田文さんとその娘の青木玉さんの著書です。

久世さんが強調されているのは、言葉や言い回しというものは理屈が通って相手に伝わればそれでいいというものではない、ということでした。

言葉は感じるもの。色気、匂い、肌触り、可笑しみ、のどかさ、涼しさ・・、虚しさ、熱い思い、誰かに告げたい幸せ・・など、いろいろな言葉で伝えたいじゃありませんか(#^.^#)

でも、日本語はどんどん言葉を少なくし“記号化”しているようです。

例示されている言葉で、「英語でなんと言うのだろう」というものがありました。

「できごごろ」「面変わり(おもがわり)」「甲斐性」「生半可」「昵懇(じっこん)」などです。
これに代わる英語ってあるんだろうか?としばし考えてしまいました。正確には無いと思う。

「すがれる」という言葉を知っていますか。使ったことがありますか。
草や木が枯れはじめること、あるいは盛りを過ぎて衰えを見せはじめることをいうのだそうです。
哀れでもの悲しい気持ちがしみじみ伝わってくる・・という。
私がこの「すがれる」という言葉を当たり前のように使っているのを聞いたのは、なぎら健壱さんだけです。言葉の前後関係から意味するところはその時わかりました。
それ以来聞いていないので、もう“すたれ”てしまったのか。
“すたれる”自体も瀕死の言葉か。

「汽車」も使われなくなっちゃいましたね。
昔の歌謡曲にはよく使われていた。
久世さんの理解するところでは、汽車は長距離を走るもの、電車は通勤等比較的近距離を走る列車を当時は指していたとのこと。

汽車の「汽」は蒸気機関のことを言っているのかと思いましたが、でも昔はちがったみたい。
鉄道の歴史を遡ると、鉄道発達初期の頃は、蒸気機関車が長距離を受け持っていたと思われるので、一般的に上記のような理解がされていたのだと思います。

私が思いつくのは「花嫁」「さらば恋人」などですが、1970年代の「なごり雪」でもいきなり「汽車を待つ君の横で僕は・・時計を気にしてる」で始まります。
電車じゃ・・だめだよねぇ(^_^;)やはりこれも“長距離”を意識しているのだと思います。

250頁以上にわたり、いろいろな、“無くなりそう”な日本語について書かれていたこの本、しみじみと読みました。

 

2022/09/08

永六輔さんの「聞いちゃった! -決定版・無名人語録-」を読みました。

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『聞いちゃった! -決定版「無名人語録」-/永六輔著(新潮文庫)』を読みました。
1984年から1995年に雑誌「話の特集」に連載された「無名人語録」と「沈黙は金曜日」その他から抜粋し、あらためて編集したものだそうです。

ようするに、ちまたで永さんが耳にした有名無名問わず、聞いちゃった話をどんどんメモ書き的に綴ったものです。
だから、そのお言葉の数々は“玉石混交”!!

けっこう今だと本に載せるのも“はばかられる”ような内容も多く、当時は大らかだったんだな、というのと、これを載せないということは、つまらない本になってしまう・・とも思いました。さじ加減が難しい。

そんな中で私好みな感じのお言葉をいくつか。

「あかの他人同士が起こす奇蹟、それが夫婦というものです」・・そんな気がする(^_^;)

「夫婦というのは、別れそこなった男と女のことです」・・それも一理ある(^^;)

「死ぬということにはベテランや名人はいません。死ぬのは、みんな初心者です」・・どうしても“へたくそ”で死ねなかったという人はいませんものねぇ (・_・;

などなどです。

あと、お役所に“ちくり”とやっていたのがありました。

「ノーマライゼーションによるゴールドプランのシルバーエイジ・アメニティライフをサポートするエルダースタッフの集い・・。厚生労働省関連で、そういう会があるんだけど、行く?」・・ってやつd(^_^o)・・いくわけねえだろっ!!

私も、病院の待合室や、その他買物に出かけたときなどに、耳に入ってくる面白い会話や、不思議な会話、理不尽な会話、独善的な会話、いろいろそのときには気になったりするのですが、如何せん覚えておくことをしていないので、今後はスマートフォンなどにメモして、このブログでも“面白いお言葉”などをご紹介しようかな、などと思いました。

 

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