『荒木経惟の写真術/荒木経惟著(河出書房新社)』を古本で見つけ、見て、読んでみました。
1998年初版発行となっており、荒木さんが電通にカメラマンとして入社し、そこでどんなことを経験して(主に光の当て方を色々と工夫し、実験的なことをしていた)、その後にどう結び付けたか、というところから始まって、この本の多くは荒木さんよりも若いカメラマンとの対談で構成されていました。
対談では、荒木さんの数ある写真集の内容にふれている部分が多々あったのですが、写真集からの抜粋された写真を見ることができて、あらためて荒木さんの多様な作品を知ることになりました。
また、私は写真の技術的なことや、機材、現像の方法などの知識が無く、カメラマン同士の対談の中に出てくる専門用語は“チンプンカンプン”でしたが、それでも「きっとこういうことを言っているのだろう」と想像しつつ読み進めば、なんとなくわかってくることもありました。
多くのカメラを持ち込み、同時進行でそれぞれのカメラを使い分けていくやり方や、あえて一つの機種でその特色を生かしてテーマ化して写真集にしていくやり方など、荒木さんの多様な写真との取り組みと、その実例写真を見ていて、ますます“普通のカメラマンじゃない”と思いましたし、荒木さんが世の中で話題急上昇していた頃の“ぐんぐん・どんどん”突き進んでいく姿も思い出しました。
アラーキーは、あの頃も先鋭的だったが、今見ても先鋭的だ、と再確認する読書となりました。
『夫婦脳/黒川伊保子著(新潮文庫)』を古本で読みました。
2008~2010年「電気協会報に《男と女の脳科学》として連載」と、2009~2010年「ひろぎん経済研究所機関誌に《感じることば》として連載」されたものを改題加筆・修正し収録したものでした。
黒川さんのご著書は、この本以外にもベストセラーがたくさんあり、私も何冊か読みましたし、ラジオなどへの出演時にご本人のお話しを聞いたこともあります。
その度に、「ああ、ここで例示されている“困った夫”はまさに俺の姿ではないか・・と、いつもガックリと膝を落とすように倒れ込むのでした。
そして例示されている妻の様子は、まさに私の配偶者そのものの様子 ^_^;どうして人んちのことがこんなに手に取るようにわかっちゃうんだろう・・と思い、今後改めようと思うには思うのですが、修正するところが多すぎて覚えきれないよ・・(T_T)となってしまうのでした。
誰もが、どの夫婦が読んでも、夫も妻も思い当たる節ばかりのハズです。
今回の本でもひとつウチの夫婦と合致した例を挙げてみると・・
私が帰宅すると、妻から何か相談というか、聞いてほしいことがあると話が始まり、それは朝起きてから起こった出来事の詳細、会った人すべてについて、こんなところにも出くわした、などなど延々と話が続き、私はどのエピソードのどの部分、どの言葉などがキーワードとなるのか、必死で聞き続けるわけですが、それらは全て相談にのってほしいと言ったこととは何の関係も無いのです。
こんな状態が最低でも30分以上続いて、本題が出てくるのは一時間以内であれば、それはラッキーなことです。いつ終わるかわからず、本題は何なのか、いつまで経ってもわからない、そういうことなのです。
で、「本題は何なの?!」などと聞こうものなら、そこから「あなたは何にもわかっていない、人の話が聞けない、共感も出来ない、最低の男だ」ということになり、私は地獄の底に突き落とされ、そのあと口もきいてもらえなくなるのです。
黒川さんに言わせれば、女性はあったこと、見たこと、起こったこと全てを時系列になめる様に伝えていくのであり、本題そのものよりも、それらを全て聞いてもらって「そうなんだ、たいへんだったね」などと相槌を打ってもらいたいわけです。
そんなことがわからぬ男は問題にならぬほどダメ夫であるというわけです。
今じゃあ、何冊も黒川さんの本を読んできたので、その辺は“なんとか、かんとか”死に物狂いでクリアできるのですが、こんなことは夫婦の間では氷山の一角のエピソードです。
男も女も、このくらいのことは、心して読み始めないと、途中で泣きたくなると思いますよ。
あんまりネタばれ的なことを長文で書いても何なので、夫婦の話以外で面白かったものをひとつ挙げておきましょう。
素晴らしいリーダーというものは、登場しただけで、部下もその他の人たちも笑顔にしてしまう人だ、という部分でした。
最近、どこかの大統領が妙なキャップを被り、テレビの画面に登場しただけで気分が悪くなり、体調も崩し気味です。聞かせてやりたいっ!
自分を待ってくれている人たちの存在を微塵の憂いも不安もなく、邪気なく、嬉しがれる能力こそがリーダーの資質なのだろう、とおっしゃっています。そのとおりだ。
そしてそのためには、日頃から「被害者」にけっしてならない覚悟が必要だと。
誰かに裏切られても、裏切らせてしまったことを憂い、他者に迷惑が及ばないように慮る。
自分を被害者にして可哀想がったり、他人を恨んだりしない覚悟があってこそ、邪気なく人を嬉しがれる。
その「被害者にならない」覚悟こそが、リーダーの資質なのだと思う。とのことでございました。
聞かせてやりたいヤツばかりのお話しで締めて、本日の読後感を終えたいと存じます。
夜に先生から掛かってくる電話で一句詠みました。
【 夏の夜 散歩中だと 電話有り 】
《背景》季語:夏の夜:[夏]
夜の8時半頃になると携帯電話に着信が有る。
中学時代の担任の先生だ。
「おうっ、何してる? 俺は今散歩中だ。 ちょっと待て、今特急が通り過ぎる。うるさくなるぞ。」
線路沿いにある先生の家に向かって帰るところらしい。
だいたい何ということはない話をして終わるのだが、互いに“生存確認”的な感じにもなりつつある。
Jazz の話も、オーディオや人との出会いの話も、そして世の中の出来事もあれこれ話して「それじゃまた」となる。
先生とこんな歳になっても話をしていることになるとは、中学生の時には夢にも思わなかった。
『どうせ、あちらへは手ぶらで行く/城山三郎著(新潮社)』を古本で見つけ、読んでみました。
1927年生まれで、2007年に亡くなられた城山三郎氏の最晩年まで綴られた手帳を次女の井上紀子さん(※長女弓子さんは生後数ヶ月で早逝されている)が、父の心の内を垣間見るのを娘とはいえできぬことと思い、ためらいながら最終的にこの本として成立させたものです。
発行は2009年となっておりました。
最愛の奥さんが倒れる前年から、著者の最晩年まで、手帳には自らを励ますような言葉も多々見受けられ、でもあの著書「そうか、もう君はいないのか」でも読み取られた抑えがたい悲しみも、何度も何度も綴られていました。
そして城山三郎さんご自身の老いとの葛藤も。
城山さんの手帳に書かれたメモからこの本は出来上がっているのですが、鍵や、招待状、帽子にコート、待ち合わせの場所など、物忘れのひどさの様子もわかりました。
また、体重についても書かれていましたが、奥さんが亡くなられてからは体重の減少があり、読んでいるこちらも気になりました。
お好きだったゴルフのスコアも、悪くなっていく様子がわかり、最後の方はスコアも書かれていませんでした。
日々、自分を励ますだけでなく、「これでいいんだ“鈍鈍楽”で生きよう」という晩年をなんとか気持ち安らかに過ごそうという自分へ言い聞かせるような部分もありました。
あと何年かしたら私も同様の境地になるのかもしれない・・と思いました。
城山さんの作品は何冊も読み、このブログでも読後感を何度かご紹介していますが、晩年の執筆する様子もわかりました。
緻密で事前の調査作業は大変なものだろうと思ってはおりましたが、執筆の“裏側”も垣間見ることができて、うれしくもありました。
ますます城山三郎という作家を好きになりました。
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