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『ショージ君の南国たまご騒動/東海林さだお著(文春文庫)』を古本で見つけ、読みました。
けっこう古い本でした。紙面は日に焼け、茶色くなっていて、買うのも躊躇したのですが、面白そうだっので。
「オール読物」1981年2月号~1984年2月号に掲載されたものを単行本として1984年4月に刊行し、1987年9月に文庫化したものです。
この頃の東海林さんの文はかなり“生き”がいい。
テンポよく、展開も早い。
海外にも、国内にも旅行に出掛けていますが、迷わず決定し、行動に移しています。
私がよく読んでいるここ十年以内くらいの本では、どこに行くにも迷ったり、心配したりが先立っていますが、この頃はどんどん出掛けて、どんどん“失敗”したり、怖い目に遭ったりしている・・(^_^;)
時代が時代なだけに、ウォークマンで音楽を聞きながら電車に乗ってくる若者に文句をつけている文もありました。
そうとう見苦しく感じたらしく、その様子を描いたマンガはウォークマンを付けて聞いている若者が“愚か者”を絵に描いたみたいだし、東海林さんは矢印を付けて「バカ、死ね!」とまで書いている(^^;)
当時の大人には、腹に据えかねるものがあったことがよくわかりました。
今や、大人も皆、あのワイヤレスのイヤフォンをつけて、街を歩いているときまで多くの人が聞いていて、すっかり馴染みのシーンとなっています。
こんなことになるなんて、当時の東海林さん、想像もつかなかったことでしょう。
東海林さんが銭湯に行っても、パチンコに行っても、ホテルに行っても、銀行に行っても、当時の世の中の様子が今とは異なっていて、私にとっては「そんな感じだったよなあ」と思い出すことはあっても、今の若い人には考えられない異世界だと思います。
様々な場所では喫煙も可能だったし(職場では当たり前のように仕事しながら煙草を吸っている人がいた)、隔世の感がある文も多くありました。
時代の空気を感じつつ、世の流れを感じることできる昭和五十年代が舞台となっていたこの本、たいへん興味深く、懐かしくも読みました。
『東京いいまち 一泊旅行/池内紀著(光文社新書)』を読みました。
初出は「小説宝石」に2009年9月から19回にわたって連載されたもので、一部2012年に「東京人増刊葛飾区を楽しむ本」からも加筆修正されたものが加えられています。
この本自体は2012年に初版が発行されています。
著者、池内紀さんはドイツ文学者で、エッセイスト。大学でドイツ語の教師もされた方。
私にとっては、十年以上も前になりますが、NHKのFM放送で「日曜喫茶室」という番組があり、その番組に“ご常連”としてよく出演され、とても穏やかで、優しく、柔らかい話し方が印象的な、とても素敵な老紳士という印象が残っています。
さて、今回のこの本では、池内さんは東京の郊外に住んでいるのにもかかわらず、東京に一泊して“いいまち”を巡るという手法で様々な町を探索されています。
読んでいるうちに、「なるほどね」と思いました。
泊まってしまえば、目的地の朝の様子から見ること、感じることができるのです。
同じ東京だからといって、自宅から出掛ければ、目的地に到着するのは昼前ということになると思います。
そこからの様子と、早起きしてみた現地の様子は自ずと変わったものになるのではないでしょうか。
品川、上野、十条、王子、赤坂、築地明石町、牛込界隈、神田・日本橋などあちこち巡る池内さん、深い知識と、人に対するやさしい眼差しが文に表れていて、読んでいるこちらものんびりと散策を楽しむような気持ちになりました。
その町がある土地の形状や、そもそもの成り立ち、歴史的な建物、神社・仏閣、店など、東京の楽しみ方ってこういうのも“あり”だと思いつつ読みました。
特に上野、赤坂、千住、丸の内、青梅、神田・日本橋などは、今まで行ったことのある所でも別の視線で見て、楽しめるような気がしました。
この本片手に、年内から来年に掛けて、少し歩いてみようと思います。
『失礼な敬語 誤用例から学ぶ、正しい使い方/野口恵子(光文社新書)』を読みました。
著者、野口恵子氏は日本語、フランス語教師で、フランス語通訳を経て大学で教鞭を取っている方とのこと。
著書には、「かなり気がかりな日本語」「バカ丁寧化する日本語」などがあります。
この本自体は2013年6月に初版発行となっています。
私自身、気になる言葉づかいや、よく耳にする不思議な敬語などがあり、このブログでも折に触れて書いてきました。
著者、野口氏は実例を丁寧に挙げて解説をしていますが、野口氏の大学の生徒が実際にそうであったように、何度説明しても、その人が育ってきた過程で、親も既に日本語が怪しい・・(^_^;)というようなこともあり、何がおかしいのか、どこがいけないのか理解に苦しんでいる生徒の様子も書かれていました。
私の年代でも、私自身でも、これが果たして正しい使い方なのか、と分らなくなり、戸惑うようなこともあります。
そのあたりも、著者は丁寧に書かれていて、長年の疑問が解消したものもありました。
“議員敬語”みたいなものも気になっていたのですが、例えば「皆様方に“ご議論を”いただいて」「ぜひ“お寄りを”いただいて“ご覧を”いただきたいと思います」「“円高を”“是正を”していきます」など、わざわざ“を”を入れる気持ちのわるい使い方も指摘されていました。
あと、お店でよく聞く「こちら天丼に“なります”」「こちらの商品は二千円に“なります”」「五百円のお返しに“なります”」など、“なります”症候群(^^;)
私もあちこちでよく聞きましたが、「お待たせしました。天丼です」「こちらの商品は二千円です」「五百円のお返しです」でいいですよね。これは既に定着化していると感じています。
ついでにもうひとつ、公務員、特に国家公務員などに多い「になってございます」という謎の言葉遣い。
国会の委員会答弁などで官僚が「すでに先生ご案内かと存じますが、〇〇の数値については資料3ページのとおり“になってございます”」っていうヤツです^_^;
議員同士で「先生」と呼び合うことや、官僚が「先生」と呼ぶこともなんだか変だと思いますし、「すでにご案内」って表現も“なんかイヤ”じゃありませんか。
そもそも“なってござい”ってなんだよ!
上記は、氷山の一角で、実に数多い事例が掲載されていますので、敬語の使い方がもう何がなんだかわからなくなってきた、という私同様の方にはもって来いの本だったと思います。
『東京歳時記 今が一番いい時/出久根達郎著(河出書房新社)』を古本で見つけ、読んでみました。
著者、出久根さんが上京してからの五十年、四季折々の様々な人間関係やそこにあった風景を書いたもので、それぞれの思い出の冒頭にそのエピソードに因んだような俳句が掲出され、より話に味わいが出ているような、そんな本でした。
内容としては、『俳句研究』に連載された「一句萬象」より、2004年12月号~2007年9月号までをまとめたものとなっていました。
冒頭に様々な人が詠んだ俳句があって、そのあとに出久根さんの人生の機微にふれるようなエピソードが日記帳のように書かれていると、そのエピソードにより深い物語を感じるように思いました。
出久根さんが古本屋を開業しようと躍起になっているときに、「一人では仕入れやその他店を空ける時に困るよ、まずは奥さんを・・」という出久根さんにとっては“回り道”に感じてしまうアドバイスも、その人が出雲土産にくれた「赤い糸のお守り」がきっかけとなって結婚する話がありました。
言われた通りにお守りを財布に入れていた出久根さんがよく行く飲み屋で支払いするときに赤い糸のお守りを落としてしまい、それを拾ってくれた店員の娘さんが「これは何?」と聞いたことから二人の付き合いが始まり、結婚してしまう・・(#^.^#)というお話。
いい話でした。
そこには冒頭に「今年この桜と縁結びけり 村上喜代子」という句が載せられていました。
こんな形の本もいいものだと思いつつ、心に沁みるものを感じながら読了いたしました。
『むくどりは飛んでゆく/池澤夏樹著(朝日新聞社)』を古本で見つけ、読んでみました。
作家で詩人、書評や翻訳も手掛ける著者が世界各地を巡ったときに感じたことなどを綴ったエッセイとなっておりました。
初出誌は、1994年1月~1995年1月にかけての「週刊朝日」です。
この本自体は1995年に第一刷発行されたものです。
因みに、装画・本文イラストは、山口マオさんで、これも独特の世界観があって楽しい。
著者がカトマンズで飲んだ・・吸った?お酒の話は面白かった。
「トンバ」というお酒で、テーブルに運ばれてきたのは、大きな鉢に山盛りになった穀物。
それは色合いからすると「栗」。
そこに竹のストローが付いていて、発酵させた栗の上からお湯を注いで、アルコール分を抽出し、それをストローで吸うという・・(^^;)
ストローには水分は通るが、小さな栗は一粒も入らない仕掛けがしてあるのだそうです。
とっても興味深いです。不思議なお酒。
ストローなので、どれだけの量を飲んだのかもわからない・・(^-^;
ついでにもうひとつ気になった部分。
人だけが物を別の人に投げ、それを受け取るということをするという話。
たしかに動物などが物をバケツリレーのような感じで投げて受取り運ぶだとか、キャッチボールのように投げっこをして楽しむようなこともないと思いました。
昔の造船所の作業で熱くなった鋲を作業員が投げ、それを器具で受取り、組み立てていくとうようなことがあったが、それもまさしく人間ならではのもので、互いの意気というか、心の通うような部分があるのではないかと著者は指摘。私もそう思いました。
身近なところでは、野球のキャッチボール。
あれはどんな選手も一番たいせつなことだと言っているし、私自身も少年の頃に親や兄とキャッチボールしたのは、ただ単純なことではなくて、互いの心を通わせるものだったのではないかと思うのです。
著者の“気づき”方は、実に繊細かつ大胆で面白い本でした。
『今を生きるあなたへ/瀬戸内寂聴・瀬尾まなほ(聞き手)(SB新書)』という対談形式の本を見つけ、読んでみました。
2021年11月に亡くなられた瀬戸内さん。この世を去る3か月前に京都の寂庵にて取材した内容を基に加筆・修正されたものとのことです。
聞き手は、秘書の瀬尾まなほさんとなっています。
対談の中で、瀬戸内さんは「やりたいことを貫きなさい」「思うがままに生きなさい」「周りの人の幸せを考えなさい」そして「愛は見返りを求めません」と再三に渡り説いています。
そしてその言葉は、聞き手である秘書の瀬尾さんに対しても同時に諭すように語っていました。
瀬尾さんの質問は、私のようなごく一般人というか、“世俗の人間”がよく考え、思うようなことで、瀬尾さんは秘書となってからそのような問いを常に投げかけていたようで、それによって成長したとご本人も寂聴さんもおっしゃっていました。
私も世俗的な質問と回答を読んで、少し成長したかもしれません(^_^;)
少し私が気になった部分を挙げてみると
相変わらず若い人たちは選挙に行かないようですという瀬尾さんの質問には
それは今の政治に失望しているからでしょうね。言っちゃ悪いけれども、今はロクな政治家がいません。何かおかしな人ばかりです。
と答えています。
私も同感。
また、先生はテレビを見ながら「こいつは嘘つきだ」とか、よく言ってますね、という瀬尾さんの質問に対して
嘘をついている人は、すぐにわかります。
と答えています。
寂聴さんは、テレビを見ているだけで顔を見たら、どいつが悪いやつか、だいたいわかります。と答えています。
・・私もすぐにわかります。
もうひとつ
「あれをやらなければよかった」という後悔よりも、「あれをやっておけばよかった」という後悔の方がイヤだ。と寂聴さんがおっしゃっていたことが印象に残りました。
覚悟して何でもやってみる。そのほうが後悔をしなくてすみます・・と。
私は、割とここ十数年で、やっとそんな心境になってきました。
上記と関連して、若い人もそうでない人も好きになったら思い切って告白をするといい、というのが人生長いことやってきて思っていることです。
それによって心は晴々するし、ことによるとそこから先の人生が変わるかもしれません。
特に若い人は自分の都合や体裁ばかりを考えてないで、思い切って自らの思いを言ってみることが道が開けるきっかけになるんじゃないかと、今にして思っているのです。
ということで、寂聴さん亡くなる前の最後の取材対談収録本も、とても心の栄養になりました。
ありがとう寂聴さん。
『午後三時にビールを -酒場作品集-/中央公論社編(中公文庫)』を読みました。
文庫オリジナルで、2023年に初版発行されています。
酒場を舞台にした作品を中心に、酒にまつわるエッセイ、短編小説を編集したものとなっていました。
井伏鱒二、太宰治、坂口安吾、檀一雄、内田百閒、池波正太郎、開高健、向田邦子、野坂昭如・・執筆者をちょっと見ただけで錚々たる顔ぶれですが、ことお酒や酒場の話になると、作家というものは一体全体人としてこれでいいのか!という人が殆どでした。
多くの作家は基本的に夜は飲んでいる(^_^;)・・さらに朝まで飲んでいるのもたくさんいました。
それだけならまだしも、誰彼かまわず討論をふっかけ、それならまだしも喧嘩、暴力に及ぶ人も多数。
夜10時に入店し、次第に客が減り、朝8時になると店のママまで寝ている。それでも居続け、夕方の5時に店を出たなんて強者もおりました。
こんな人、今、現代に果たしているのか。
ほとんど皆自分勝手で、作家が変わって次の章に行っても、主人公が変わるだけで、酒場にいる連中が同じという(^-^;パターンがいくつもありました。
同時代の“呑兵衛作家”はこの人たちなんだな、というのがわかりました。
こんな飲み方する人って、私が新人で就職した頃に最後の残党を見たきりです。
すごい人たちが私の当時の職場にもいました。
さて、私が一番気になったのは、吉田健一氏。
お昼に、神保町の店「ランチョン」で編集者らと生ビール三、四杯を空にしたころ、「そろそろリプトンにしましょうか」という声をかけ、手にしたハンカチをヒラヒラ振って「ご主人、ご主人」と叫び、カウンター奥の主人が心得たとばかり沸騰したリプトンティーとサントリーオールドのボトルを盆に載せて持ってくる・・。
環視の中でウイスキーをダブルの計量カップになみになみと注いで、ティーカップのなかへどっと放り込む。
その儀式を皆が見守っていると、生ビールで大きくなった腹の中へ少しずつ熱いウイスキーティーを啜りこむ。
途端に酔いがまわり、陶酔した気分に陥った・・と一緒にこの儀式をした寺田博氏が書いています。
そのあと吉田健一氏は、大学の講義で教壇に立つこととなっていて、スタスタと講義に向かったという。
吉田健一氏は、「原稿四十枚」との依頼があれば、最後の四十枚目の最後のひとマスで文章が終わるようにして提出するのが常であったという・・。
これを読んで、なんだか不思議な気分になり、几帳面さと強烈な主張、そしてウイスキーティーの儀式もそれに似通っているような氏の気持ちが伝わってくると思ったのでした。
いやもう、いろんな人がいるねぇ・・と思いました。
『日本人と日本文化/対談:司馬遼太郎_ドナルド・キーン(中公文庫)』を古本で見つけ、読みました。
もともとは中央公論社から1972年に同タイトルで刊行されたもので、1984年に文庫化されたものです。
日本文化の「ますらおぶり」と「たおやめぶり」について、また忠義と裏切りについて、上方と江戸の違いについて、日本にきた西洋人など興味深いことについて丁々発止のやり取りをしています。
どちらも引かない感じ(^_^;)
特に日本人というものの存在、あり方について儒教が大きく影響しているというキーンさんと、ほとんど関係ないという感じの司馬さんのまったく互いに譲らない感じの対談は緊張感がありました。
キーンさんは、徳川時代の日本人は、生まれたときにまず神道の神に告げ、結婚式も神道だが、ふだんの生活は儒教で、死ぬときは仏教的な法事が行われてきた。
矛盾している三つを同時に信じられるのが日本人だという。
対して、司馬さんは「日本人は神道だ」の一点張りです。
・・私には司馬さん、不利な感じに読みました。
また、司馬さんは江戸時代というものは好きではないと言い、戦国時代が好きだという。
対してキーンさん、一般の日本人にいちばん親しみやすい時代は江戸時代という。
江戸時代の伝統的な匂いが残っているような人だったら、それは職人とか商人のような人と言っています。
江戸時代の前半は侍がつくった文化だった(近松、芭蕉、松永貞徳などの士族が思い起こされる)が、後期になると、文化のにない手はほとんど町人だったと言っていて、江戸という侍の町に、いちばん町人を喜ばせるような文化が町人の手ででき上ったというのです。
これについても私はキーンさんの見方に近いです。
今も町人がつくった文化について興味津々だし、そういうことについて書かれた本にも惹かれます。
読んでいて、全般的に司馬さんは荒っぽい理論で、決めつける感じ。
一方キーンさんは、丁寧に事実を拾っていって、立てている仮説もユニークだけど自然な導きのように感じました。
とにかく、最後まで綱引きのように“引いて引かれて”みたいな駆け引きのようなものもあり、最後までこの対談を楽しく読みました。
お二人の無限のような知識にも驚いた本でした。
『俳句開眼100の名言/ひらのこぼ著(草思社)』を古本で見つけ、読んでみました。
あまたある「俳句入門書」100冊から導き出した俳句上達のための100の名言・ヒントが集約されているという、私のような俳句初心者から見たら、とっても欲しい本でした。
著者、ひらのこぼさんは、広告会社でコピーライターの仕事をされている方で、銀化(中原道夫主宰)に入会し、この本が出された頃銀化同人となっていて、俳人協会会員と記されています。
この本自体は2012年発行となっておりました。
実に様々なアドバイスと俳句の実例が示されていて、ありがたい本でした。
しかも、「俳句は日記」だとか、「種あかしはするな」とか「第六感で作る」などなど、どういうことを言っているんだろう?と思わせておいて、具体的な例句を挙げて“なるほど”こうすれば良いのか!と納得するようなつくりになっていました。
ただ、私としては通常こういった俳句本には例句に“ふりがな”がついていないのは当たり前なんですけど・・読めない漢字が多かった・・(^_^;)・・恥ずかしいけど、読めないものは読めないのでした。
漢和辞典でいちいち調べればよいのですが、ちょっと数が多くて億劫になってしまい、そのままスルーしてしまった漢字もけっこうありました。申し訳ない。
しかし、名だたる先生の詠まれた例句は、かなり勉強になり、しかも驚くような大胆な作品もあり、“読物”としても楽しく読ませていただきました。
この本の中からヒントを得て、現在3月から初めて250句に達した私の俳句の今後に役立てたいと思いました。
明日からも頑張ります。
『どうもいたしません/檀ふみ著(幻冬舎文庫)』を古本で見つけ、読みました。
2004年に刊行されたもので、2007年に文庫化となっています。
なので、かれこれ20年も前のものです。
檀さんの本では、「父の縁側、私の書斎」という本を以前読んでご紹介したことがありました。
今回は、お父さんのお話し中心ではなく、檀ふみさんそのものが“語られる”?エッセイとなっておりました。
読んでいると、激しい物忘れや、おそろしいほどの勘違いによる遅刻、あるいは場所間違い、こうなればああなるだろうという予測がことごとく外れるおそろしさ、せっかくのチャンスに躊躇し、大魚を逃すような話・・などなど・・もうヤキモキしてこっちが「もういい、私にやらせてくれ」と言いたくなるような話ばかりでした。
だから、檀ふみさんなんですよね。
もう、きっと生まれてからずっとそんな感じなんでしょう?どんどんコースから外れていって、周りが“ひやひやハラハラ”するお嬢様、そんな人、同級生に一人はいましたよね。
まさにその人!
でもこれがまた本にすると面白いわけですよ(*^^*)
お友達の阿川佐和子さんとは言動・行動も文体も似ているようでいて、非なるものです。
どちらかというと阿川さんは“早合点”タイプ、檀さんは“うっかり”タイプとでもいうのでしょうか、ま、どちらも手が付けられないくらいの“人物”ぶりです(^_^;)
この本に書かれている数々の失敗談、思い込みによるドタバタ劇、読んでいる分には笑っていて済みますので、とりあえず笑わせていただきました。
ただし、身近にこういう人がいたら、あまり近づかない方がいいような気がいたしました(^^;)
とりあえず読んでみてっ!面白いから。
『対談サラリーマンの一生 -管理社会を生き通す-/城山三郎・伊藤肇(角川文庫)』を古本で見つけ、読んでみました。
1980年に光文社から刊行された「人間学対談」を改題したもので、文庫版は1986年に初版発行、この購入したものは1995年発行のもので、既に14版を重ねています。息の長いベストセラーだったようです。
城山さんは作家、伊藤さんは新聞記者、編集者を経て評論家となり、そのお二人の対談形式でこの本は構成されています。
「サラリーマンの一生」というタイトルになっていますが、対談の内容としては、男が仕事に就き、やがて五十代になり、六十代になり、退職するまでをどう歩み、どう生きていくか、何を支えとするのか、どんな人と付き合うのか、などを語り尽くしている・・そんな印象の本でした。
お二人の共通していた意見としては、二十代は“全力”で仕事をしろ。
そしてその後は100%ではなく、自分なりのペース配分を見つけろ。
いわゆる“左遷”されても「くさるな」、「くよくよするな」そこで与えられた仕事の中から見つけ出せるものがあるからそれに取り組め。
また忙しいからといって「時間が無い」などの言い訳をせずに、自分が取り組める研究や、学べることが必ずあるから、それにも夢中で力を入れろ。
本は読め。読まずして知恵は得られない。
上記のようなことを様々な先人(この対談当時に色々な分野でトップにいる人の例を挙げていた)の言動、生き方を示して弾むような対談をしていました。
人の上に立つ人は、人物さえちゃんと養成しておけば、仕事と金は自然に集まってくる、ともおっしゃっていて、「内閣だって立派な大臣を置けば、政策なんかは自然に生まれてくるはずなんだ。つまらんやつを大臣に据えるからおかしくなる。」とも。
ちょうど今の日本もそんな感じだなと思いました。妙な大臣は変なことしかしない・・。
また、当時はインターネットもまだ普及していなくて、Windowsもこれからという時代。
大きな災害時には、「水と新聞」を人々は欲しがる、と書かれていました。
人は結局、活字になっている情報を見て納得できる。そして活字に飢えている。
新聞からの情報への信仰の強さには驚く・・とも書かれていました。
その状況は、今、インターネットというものがあって様相は変化したと思いますが、それでもネット上の情報の信憑性が災害時に低くなることは今年の災害時にも露呈されました。
被災地で、どういう形で情報を得るのかという問題はまだ解決されていないような気がしました。
昨日だったか、本屋さんがどんどん減少して、それを国が援助していくことを始めるというニュースがありました。
この対談でも本を読むことがどれだけ“人物を”つくるか、“人間”をつくるかということが書かれていて、この本に書かれているようなことをネットで若い人が知るのは、ほぼその機会が無いように思います。
あらためて、本を読むことの大切さを感じながら読了しました。
『納豆に砂糖を入れますか? -ニッポン食文化の境界線- /野瀬泰申著(新潮文庫)』という本を読みました。
以前、このブログで同じ著者の「天ぷらにソースをかけますか?」という本をご紹介したことがあるのですが、その続編にあたるものとなっていました。
この文庫本は2013年発行となっています。
さて、タイトルにもなっている「納豆に砂糖をいれるのか」という問題ですが、そもそも私には“納豆に砂糖を入れる”と、どんな味になるのか、まったく想像も出来ず、そんな人いるのかよ、と思いましたが・・・いるんですよねぇ(#^.^#)
地域としては、「入れる派」は北海道、東北地方に多いようです。「なかには入れる人もいる」というのは関東・中部地方あたりに“ぼちぼち”見ることが出来ます。
「そんなこととんでもない派」は、関西・中国・四国・九州にかなり多く、広島と九州の一部には意外と砂糖を入れる派も散見されています。
砂糖は味を甘くするよりも、納豆のねばりを強くし、糸を多く引かせる目的の方が主となっているように読めました。
前回の「天ぷらにソース?」と同様、とても珍しいことではないことがわかりました。
その他には、「メンチ」と「ミンチ」の呼び方について(*^^*)
私は関東で圧倒的な「メンチ」に耳馴染みがありますが、関西方面では「ミンチに決まっとるじゃろが!」派が優勢です(^_^;)
この本のアンケート結果では、関西にミンチ派が集結しているようでした。
さらにコロッケには何をかけるか?という・・私にとっては「中濃ソースでしょ、もちろん」という結果が予想されましたが、いやいや醤油や、ウスターソース、とんかつソース、何もかけるかそんなもん・・という(^^;)回答もあり、混沌としておりました。
実におもしろいっ!(*^^*)
飴を「飴ちゃん」と呼ぶか否かとか、居酒屋などに行って最初に出てくるのは「突き出し」と言うか「お通し」というか・・という問題もありました。
比較的関西が「突き出し派」で、要りもしないのに突き出される感覚があるのでは、という推測も出ていました。
ご飯に味噌汁をかけて食べるのは、行儀が悪いのか否か、というのもありましたが、それと同系統の郷土料理も有ったりして、難しい問題となっていました。
私としては、自分の小さい頃、ちょっと貧しくておかずもあまり無いのでそうしているのではないかと勝手に想像して、つらい気持ちになり、自分は食べるということはほとんどありませんでした。
・・・などなど、食文化的にも興味深い問題を今回も著者は、楽しそうに探っていました。
とても面白い着眼点で、私も楽しく読めました。
『カツ丼わしづかみ食いの法則 -ナマコのからえばり9-/椎名誠著(毎日新聞社)』を読みました。
2014年発行の本で、『サンデー毎日』2013~2014年に連載されたエッセイをまとめたものとなっていました。
この頃の椎名さんは、海外への冒険のようなことに対しての強い意欲は、体力的なことや、かつてかなり危険なことがあったことも含め、あまりないようです。
少し前に「死」についての本も書かれていて、海外での冒険時には“死とスレスレ”だったことをこの本の中で思い出しています。
お孫さんもできて、これ以上は無理だろうと思っているようでした。
しかし、相変わらずの国内での仲間たちとの楽しい旅や企画、飲み、など(*^^*)は続行されていて安心いたしました。
すこし気になったところは、
「世界遺産ってなんだ」という項目。
富士山が世界遺産に認定された頃で、もうみんな遺産だと思っているんだからいいじゃないの、って言っています、簡単に言うと。
私もその頃も、今も思っていますが、世界遺産と聞くと今まで何の興味もなかった人まで続々と詰めかけ、ゴミは溢れ、トイレも溢れ、サンダルで日本最高峰の山に登ろうとする輩も現れる・・。
みんな心の中でいいものだと思っているんだからそれでいいじゃないの、と思うのです。
今年もTシャツに短パン、そこいらへんを歩くカジュアルな靴で登山しようとしている人がいたようです、ましてや外国人までそんな状態。
だから椎名さんに同感です。
もうひとつ「新聞やテレビを見なくなってしまったのは、日本のそれらが信用できなくなっているからだ」と書かれていました。
外国での報道を見聞きすると、日本のことなのに日本人が一番本当のことを知らない国民になってしまうのではないかという危惧があるとおっしゃっています。
当時、椎名さんがミャンマーに行ったら、「9.11アメリカ同時多発テロ」について国民が知らされていないことを書かれていて、軍事政権のメディア操作の恐ろしさを知ったとのこと。
椎名さんは、当時の特定秘密保護法について国会が揺れているのに、食品偽装問題や猪瀬知事の事件で大騒ぎしていて、マスコミの記者は自分の顔・名前が出ないと強引になるが、そうでないと、あられもなく狼狽する“さもしい”人達だとおっしゃっていて、これも同感です。
大切なことを十分に報道しない・・この姿勢は独裁国家化の一歩だと・・ヒタヒタと恐ろしいことが近づいている・・と私も今感じています。
何時起きるかわからない戦争突入への第一歩となるかもしれない重大事をくわしく知らないうちに許してしまうことになるのです。
憲法から国民の基本的人権の項目を削除しようとしたり、いつの間にやら国防軍を組織する項目が追加されたりしている改正案について大きく報道すべきだと思います。
椎名さんの本の読後感であまり上記のようなことは書いたことがなかったかと思いますが、特に気になったので書いてみました。
熊野(ゆや)の清水を汲みに行った時に、水を守っている龍動寺にお参りした。
そのときに飛んでいた蝶で一句詠みました。
【 彼岸花に舞う モンキアゲハ 二頭 】
《背景》季語:彼岸花[秋]
長南町に熊野(ゆや)の清水を汲みに出掛け、清水を守るように高い所に存在していた龍動寺にも上がってお参りして来た。
その時、階段を上がり、寺の前の広いところに出ると、彼岸花がたくさん咲いていて、黒い羽の下の方に白い紋のあるモンキアゲハ(※帰宅してから調べた)二頭が互いに舞うようにずっと飛んでいた。
鳳蝶(あげはてふ)、黒揚羽、烏揚羽などの季語(傍題)が歳時記にあったが、ここは彼岸花を季語に実際の光景をもとに秋の句として詠んだ。
『座右のニーチェ 突破力が身につく本/齋藤孝著(光文社新書)』を古本で見つけ、読んでみました。
なんとなく取っつきやすそうに見えて手に入れました。
それに自分の役に立ちそうだと。
しかし、読んでいくと、ニーチェの言葉から察するものには、迷い、苦しみ、立ち止まってしまうことや、過去を悔やむこと、未来に期待してしまうことなどは、あまりよろしくないコトとして書かれているようでした。
今、この瞬間は過去からの流れから来ているし、未来は今まさにやっているこが生み出しているのだ・・というような“一連の流れ”の中で人生の出来事、悩み事などを考えるような感じに読めました。
なので、私のような年中立ち止まってしまい、そこで苦しんでしまい、過去を悔やみ、未来を心配する人間には、なかなか馴染めない感じがしたのです。
でも、かなり共感できることも書かれていました。
《人間が存在しはじめてからこのかた、人間は楽しむことがあまりに少なかった。そのことだけが、・・・われわれの原罪なのだ》
という言葉。
現代社会に生きる我々は、前時代の人々よりも自由で享楽的だと思われがちですが、本当に心から楽しめているのかというのです。
いじめはより狡猾に、陰湿になり、我々が楽しむことを学びおぼえていさえすれば、他人に苦痛を与えようという気持ちになどならないだろうということなのです。
要するに楽しんでいない人がいじめを起こすというのです。
もうひとつ
《この瞬間という門から、一つの永劫の道がうしろに向かって走っている。すなわちわれわれのうしろには一つの永劫があるのだ》
という言葉。
この本では、夏目漱石や樋口一葉、ビートルズなどが例に挙げられていましたが、彼らの実質の作家活動、作家生活などの活動期間は短く、その短期間に傑作を次々とものにしている、というわけです。
才能を見せつける時間は非常に短く、その期間に作り上げたものは大抵、質だけでなく量も他者を圧倒しているといいます。
仕事での創造の炸裂は、沈潜と集中力から生まれ、ふだんの鍛錬で力を溜め、ここぞという踏ん張り時に一気呵成に畳みかける。
その時に時間の質は変わり、一瞬の価値が見えてくる・・ということで、私には特にビートルズの例でよくわかりました。
そして、今時の人はこの一気呵成の踏ん張り時がずっとやって来ない・・と、思いませんか。
以上がざっと書いてみたこの本の感想です。
まだ読み込み切れない部分がたくさんありましたが、今の自分には合わない感じがありましたので、ここまで。
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