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『一発屋 大六/城山三郎著(文春文庫)』を古本で見つけ、読みました。
この小説の初出は昭和48年11月月刊となっていて、50年以上前のものです。
なので、主な登場人物のカリスマ相場師と銀行の金庫から一千万円を盗んだ嫌疑で辞職することとなった元銀行員の主人公の背景には、通信手段としてはせいぜい電話くらいしか無い時代となっていて、住環境や、世の中のインフラなども今からは想像できない世界になっていました。
昭和30年代から40年代にかけての状況です。
そんな中でカリスマ相場師は、あらゆる専門家を呼び、情報を集め相場の世界で勝負をかけているのですが、でも、今の投資家のような人達も手段は異なるものの、同様の“切った張った”の世界に生きているわけで、むしろ迫力ある城山さんの表現に舌を巻きました。
大金庫から金を盗んだ疑い(実は盗んでいない)によって、平凡でさえない銀行員だった主人公は人生が変り、独特の考え方に変って行き、偶然の相場師との関りから自分のこれからの生き方を模索するという話なのですが、それも、現代を生きる私達の生き方について、なんらかの問題提起をしているかのように感じました。
話の展開は、まるでマンガでも見ているかのような奇想天外で「そんなことあるわけないだろ」と、何度も思わず言ってしまうようなもので、全体としては娯楽作品的な流れなのに、なぜか心に引っ掛かるものがある小説でした。
それは、人は何のために生きて、何のために結婚し、生活しているのか、という根源的な問題にまで物語が繋がっているからだったのだと思います。
単に娯楽作品としても楽しめるし、自分の仕事の仕方、生き方、異性への愛し方などについてあらためて考えることとなる要素もあるものでした。
私も少し考え込む場面が何度かありました。
400頁近くあるものでしたが、あっという間に読み終えました。
妻が貰ってきた冊子に中一の時に担任していただいた先生が・・。
【 春隣 先生の名を 発見す 】
《背景》季語:春隣[晩冬]
妻が通っている習字の先生からいただいた「千葉文化」という冊子を見ていたら・・。
私の中学一年の時の担任の先生の写真が目に入り、驚いた。
秋葉四郎先生は国語の教師で、当時は知らなかったが、有名な歌人で、多くの歌集を出し、佐藤佐太郎研究資料室の開設や、去年まで斎藤茂吉記念館の館長を務められ、今も千葉市短歌協会会長を務められていると書かれていました。
現在87歳。
私が中一のある日の放課後、私ともう二人の女生徒を呼び、それぞれに三冊の本を渡され、「君達にはこれを読んで欲しい」とおっしゃられた。
私には「次郎物語」「友情」「あしながおじさん」を手渡してくださった。
夢中で読み、今や年間150冊の読書をする本好きになった。
こうなることを思っていたのだろうか。
先生、ほんとうにありがとうございました。
一週間前でしたが、妻、長女と食事に出掛け、食後に店を出る時に(入り口が二階にあり、外階段を降りました)、あまりふだん履かない靴だったせいか、引っ掛かってつまずき、そのままちょっと高い所から転落しました。
落ちる瞬間に「大怪我になる」と思いました。
それほど勢いがあり、高さもあり、受け身も取れないような感じでした。
で、転落したんですけど・・下のコンクリートに叩きつけられる寸前に、身体が一瞬“ふわっ”と浮き上がって止まり、そのあとズドンと落ちました。
駆け寄る妻と長女、落ちた高さとその様子からして血まみれになっているかと思ったら、意外と私が立ち上がってみると大きな怪我もなく、二人は顔を見合わせて不思議な表情。
そして、長女が「あの・・勘違いかもしれないけど、倒れるとき一瞬スローモーションになってから止まったよね」と。
妻も「私にもそう見えた」と。
私の気のせいではなかったようです。
叩きつけられるほんの一瞬のところで、いったん身体が浮いたようなのです。
それでも膝、肘、顔面を打ちつけたのですが、傷は右ひざだけでした。
どういうことかその時は、事態がまったく飲み込めませんでした。
落ちる瞬間には、全治一ヶ月くらいの大怪我を覚悟したのですが、何か“未知の”得体の知れないものが働いたような気がしました。
それでも、今は左手を捻ったらしく、痛みがあるので、今日、治療に行こうと思っています。
誰が、何が、助けてくれたのだろうと思います。
去年からいろいろな神社仏閣を訪ねてお参りをしてきたご利益なのか、これからは十分気を付けて暮らしたいと思います。そして神様、仏様に感謝していこうと思います。
大怪我から逃れることが出来た不思議な体験でした。
『ビール うぐうぐ対談/東海林さだお×椎名誠(文藝春秋)』を古本で見つけて読みました。
1999年第一刷発行のもので、『カピタン97年7月~98年6月号』に掲載されたものをまとめたものとなっていました。
読み始めて・・あれ?なんだか読んだことがあるかも、と思い、調べてみたら2022年8月にこのブログで、この対談本の文庫版の感想を書いていました(^_^;)面目ない。
でも、あまり内容については覚えていなかったので、楽しく読ませてもらいました。
なにせ30年近く前の対談なので、東海林さん、椎名さん共に若い。
だからけっこう話はあちこちに飛躍したり、駄々をこねたり、小さなことで“張り合った”り、ちょっと子供みたいな(^^;)なところも、今となっては“可愛いおじさん”です。
屋形船の遊び方や、芸者遊びについて「メモメモ・・」なんて言いながら学び、ワシらはどうやって死んだらええんだ!と様々な死に方を考えたりもしていました。
いちばん可笑しかったのは、椎名さんの高校時代の同級生で、椎名さんが作家となってからも挿画を描いたり、自らも本を書かれていた沢野ひとしさんが、いい歳こいた男がどうやって女性とお付き合いすればいいのかをレクチャーする項目でした(^^;
沢野さんの実体験に伴う実にリアルな女性の“落とし方”について、東海林さん、椎名さんともに真剣そのもので聞き入っています。さらに質問もバシバシします(^-^;
“バカおやじ”だなぁ、などと思いながら読みましたが、ひょっとして自分もこの時の椎名さん達くらいの年齢だったら身を乗り出して聞いてしまうかも・・と思いました。またまた面目ない。
前回、この本を読んでこのブログに書いた感想は、かなり細かく書いてあり、自分の本に対する読み込み方が、けっこうきちんとしていると思ったのも驚きと収穫でした。
これからも本を読んだら、読後感を書いていこうとおもっていますが、もう一度“心新たに”読書後の新鮮な気持ちを大切にしていこうと思いました。
『瓢箪から人生/夏井いつき著(小学館)』を読みました。
2022年初版発行となっていました。
この本は、テレビ「プレバト」でお馴染みになっている夏井いつき先生が、自分の幼い頃から現在に至るまでの人生をエッセイとしてまとめられたものでした。
もちろん、俳句がその人生の中でどのように関わっていたのか、ということも。
『俳都』とされている「松山」でも実態として俳句を詠んでいる人、あるいは結社などに入っている人の年齢が高齢化していて、“若手”が60代という ^_^; 状況に夏井先生は「俳句の裾野」を広げるために句会ライブや、俳句甲子園などを行いますが、特に俳句甲子園についてはバッシングが凄かったことを、この本を読んで知りました。
でも、この本のタイトルになっている「瓢箪から人生」という言葉のように、人との出会いや、いろいろなことをやってみた結果として想像もしなかったことが起こり、特に良い方向に物事が動いたことが多く、読んでいて、夏井先生のあの“気風のいい”スタスタと前に進んで行く姿が目に浮かびました。
大学を卒業し、教師として仕事を始めたばかりの頃に父親が亡くなり、今でもその頃自分が何をやっていたのか思い出せないと書かれていましたが、そんな時に同じ学校の美術の先生で先輩が、夏井先生に詩集を作成することを薦め、タイプを打って、表紙の版木を彫り、印刷まで手伝ったり、まだ元気のない夏井先生に粘土をやってみては・・と薦めると、夏井先生はいつの間にか、仏像のようなものをいくつも作ると、それを焼物にしてくれたりしています。
そんな人にめぐり合えるということも人生の宝ではないかと思いました。
元気だったお父さんが病に倒れ、そのときのお母さん、家族の様子なども書かれていました。
夏井先生は泣くことも出来ないくらい無我夢中でその時を過ごし、お父さんの死を経験し、数年後にお父さんの好きだった鰊蕎麦を食べていたときに「いつも夏井先生はその蕎麦を食べていらっしゃいますね」と言われたときに涙のダムが崩壊するシーンも書かれていて、私も泣いてしまいました。
300頁を超える本でしたが、夏井先生の俳句と共に歩む人生が力強く、そしてしみじみと感じられました。
あれから一年、365句詠みました・・という句です。
【 春近し あの日の よろこび 忘れず 】
《背景》季語:春近し[冬]
今日の俳句で、去年から詠み始めた句が365句になりました。
2024年2月24日、千葉県市原市・市民会館での「夏井いつき・句会ライブ」に妻と出掛け、まさかの観客も参加の句会、そして数百人の中から驚きの優勝。
夏井先生からの「これからも俳句を詠んでくださいね」との言葉を胸に、日々俳句を詠んでみました。
俳句は特殊な才能の有る人、教育を受けた人が詠むものだと思い込んでいた私が、生まれて初めて会場で突然与えられた5分間で作った俳句が優勝に選ばれた、あのうれしさ、よろこびは、今も心の中で息づいています。
銚子、円福寺寺宝展で見ることの出来た古文書の内、珍しい暦の裏紙を使ったものを見せていただき、一句詠みました。
【 冬うらら 暦(こよみ)の裏に 灌頂記(かんじょうき) 】
《背景》季語:冬うらら[冬]
前回に続いて銚子、円福寺の寺宝展で出会った古文書についての一句。
貞和5年(1349年)以降、東寺で写された古文書。
年数がはっきりしているのは、貞和4年の具注暦(ぐちゅうれき)という暦(こよみ)の裏面を利用して写しが作成されているため(※紙は貴重だった)。
亀山天皇が一人前の密教行者となるための儀式『伝報灌頂(でんぽうかんじょう)』の記録とのこと。
展示物を見ると、たしかに暦の裏紙であり、表から見てもそれが透けて見える。
『運がいいと言われる人の脳科学/黒川伊保子著(新潮文庫)』を古本で手に入れ、読んでみました。
2011年に単行本化されたものですが、元々は2009~11年発行の著作を加筆修正してまとめたものです。
いつもの黒川節がいつものように炸裂(^_^;)しておりましたが、特に私が気になったところを少し挙げてみます。
〇人は自分を被害者に見立てて怯えているときよりも、誰かをかばうために闘っているときの方が、何倍も強いのだと思う。
そう考えれば、かばう人がいる人はしあわせである。
という一文です。
同感です。
私も自分がピンチに見舞われ、大変なことになっているのに、後輩から相談を受けて親身になってアドバイスしたり、手助けしたりしている時は、何故か自分の窮地も忘れるように頑張っていました。
そして、そうすることが私自身を心強くしていたのです。不思議なことです。
〇国家的な非常事態のときに、総理大臣他が官邸に速やかに移らなかったことについて、国民や野党などが国会で責めた話が書かれていて、実際は集まるより早くITが進んだ今は公邸などにいても情報収集は出来るし、連絡も取れるのだという与党の弁明があった話でした。
この本にも書かれていますが、国民はその「沈黙」とも取れる、官邸参集までの時間に不安を感じたのであって、いち早く首相や関係大臣が集まる姿を見せることが国民を安心させるのだということなのです。
これにも同感しました。
プロは相手の視線で自分を見るのが大事。相手の立場を慮って相手を安心させるふるまいが大事なのだと思いました。
最後は
〇部下など、相手の失敗を「ちゃんと言ってただろう!」などと責めるのはどうか、という話でした。
「私も再度確認すればよかった」などと「〇〇すればよかった」と相手の責任を追及しない心遣いが大切で、逆に言うと、こういう言葉をかけてもらえる人になるのが大事だという・・そうだな、と頷いてしまう話でした。
いつものように“気づき”の多い本となりました。
銚子・円福寺の寺宝展。室町時代に天皇含めた出勤簿が?!で、一句。
【 冬ぬくし 室町に 出席簿有り 】
《背景》季語:[冬]
銚子の円福寺には、日本の宝、世界的に見ても貴重な古文書が保存されています。
第19回寺宝展で慶応義塾大学教授・佐々木孝浩先生の解説を聞きながら貴重な古文書を目の当たりにした。
室町時代の宮中では、首到和歌といって、毎日指定の場所に出向き、定められた題の和歌を毎日一首詠んで所定の紙に書き付ける形式が盛んだったのだそう。
天皇は歌だけで署名する必要はなく、その女房も署名することなく、ただ二行目の最初を一段下げるとのこと。
後土御門天皇とその女房、さらに多くの出席者の歌と署名がありました。
文明12年(1480年)の自筆です。驚きました。
映画『ファイアーブランド ヘンリー8世最後の妻(FIREBRAND)/2023年 イギリス 監督:カリン・アイヌーズ 出演:アリシア・ヴィキャンデル、ジュード・ロウ』を見て来ました。
16世紀の英国、ヘンリー8世の5人の前妻は追放、処刑、出産死亡・・そこに最後の妻として望まぬ結婚をしたキャサリン・パー。
そもそもヘンリーはイングランド国教会を設立していて、それに反するプロテスタントの信念に基づき血塗られた国を光ある未来に導きたいとする妻キャサリン。
そしてキャサリンは、国王と対立する立場であることを告発されてしまい・・政治的陰謀が絡み合う宮廷で異端者としての証拠探しに巻き込まれます。
映画は、そんな状況下でキャサリンが前妻たちのように国王に首をはねられるのか、あるいは病に蝕まれた国王が先に死ぬのか、王と妻の“戦い”と“駆け引き”が繰り広げられていました。
王の怖ろしさと、醜さ、妻のどこまでもしらを切り、戦い抜く姿、息もつかせない展開でしたが、見ているこちらが具合が悪くなるような展開と、映像の“エグさ”・・。
英国史上最もスキャンダラスで悪名高い暴君、ヘンリー8世も、生き残りを賭けて戦う妻キャサリンも名演というか、二人の“怪演”に驚きました。
最後の最後までハラハラし、厭ぁな気分のこの映画、さすがイギリス映画だと思わせました。
一緒に見た妻と共に、ぐったりして映画館を出ました。
『ラジオ深夜便 季語で日本語を旅する【総集編】/鷹羽狩行(NHKサービセンター)』を古本で見つけ、読みました。
先に言っちゃいますけど、いい本でした。そして勉強になりました。
2010年発行のもので、四季それぞれの項目の中には著者と有名人が旅に出る「吟行」もあり、私の好きな人「小沢昭一」さんも俳号『変哲』で登場していました。
俳句のリズムと調べ、俳句の中の数字の面白さ、推敲とはどういうものか、俳句とことわざ、ユーモアと俳諧味、などなど私のような俳句経験一年未満の初心者には興味深くも楽しく参考になることばかり。
ウキウキしながら読みました(#^.^#)・・私、ほんとうに俳句が好きになったのだな、この一年で、とあらためて感じました。
また、巻末にはこの本に登場した俳句を季語・五十音順で季節とどんな項目にあたるものかが掲載されていました。
これも初心者にはありがたいものです。そうか、この季語はこういうものなんだというのがひと目でわかります。
さらに巻末には、作者別に登場した俳句が列記されていました。
ああ、この人の俳句って私にはないものがある・・とか、その作者の特徴もわかりました。
何度でも読んで楽しく参考になる本だと思いました。
これからも、いつも手元に置いておきます。
『夏井いつきの 美しき、季節と日本語/夏井いつき著(ワニブックス)』を古本で見つけ、読んでみました。
2015年初版発行となっていました。
内容としては、俳句の季語を意識することによって、手紙やメールを送るときにちょっといい表現ができるようになれば、というものでした。
なるほど読んでみると、季語を意識すると、手紙やメールの出だしが軽く入りやすくなるな、と思いました。
ほんのちょっとした季節の変わり目や、人の動き、花、景色、天候、行事など、季語を意識することで、受け取った側はホッとしたり、気持ちよくなったりと好結果を生むようです。
問題は・・手紙を書く人がどんどんいなくなってしまう現在の状況です。
メールにしても、LINEのようにいきなり本題に入ったりするものが登場したり、仕事上のメールでも形式などに拘らず、前段なしで本論に突入だとか、絵文字が付いていたりもするケースもあります。
若い人には上記のようなことが当然のことのように感じているかと思いますが、季節を意識したような、あるいはタイムリーな、うまい出だしがある文は相手の心に響きます。
今や手紙がうまく書けないと共に、携帯電話で個人間のやり取りしか経験せずに社会に出てしまい、業務上の電話での会話も出来なくなっているというのが現状ではないでしょうか。
というわけで、この本はそんな人にもやさしく、手紙の書き方から、メールの実例なども載せていて、ある意味実用書です。
私には、実用書としても、そして手紙やメールの世界から見る季語の良さも俳句とは逆の方向からみたこととなり、とても参考になりました。
人との付き合い方にちょっとしたフレーバー、スパイスとなるヒントがたくさん載っている本でした。
映画『ブルースの魂(THE BLUES UNDER THE SKIN:Le Blues entre les dents)/1973年(※2022デジタル修復版) フランス 監督:ロバート・マンスーリス 出演:BBキング、バディ・ガイ他』を見ました。
元々は1973年の映画で、今回上映されているのはそれをデジタル修復したものでした。
ドラマとドキュメンタリーが融合しているもので、ドラマはちょっと稚拙な感じの演技もありましたが、それでも実にブルースで歌われている社会的、人間的な世界はこういうものだというものがうまく表現されていました。
また、黒人の奴隷制度から始まり、その後の貧困、ドラッグ、ギャンブル、女、犯罪につながる様子もドキュメンタリー的にまとめられていて、そういうこととブルースという音楽がどういう関係性を持っているのか、というところもうまく描かれていました。
そして、何と言っても、BBキングをはじめとする演奏シーンが素晴らしかった。
実際のブルース全盛期には、私はまだ生まれておらず、その後にジャズやロックに影響を与え、Rストーンズやビートルズなど私の大好きなグループが影響を受けていることからずっと興味を持ってきた音楽がブルースです。
演奏シーンのギターの弾き方を見ていると、ガシガシと弦を押さえ、フレットにバチバチ当たる感じでの運指が実にワイルドでカッコいい!
ボーカルのフレーズを追いかけていくようなギターもたまらなく良くて、演奏に合わせて身体が動いてしまいました。
ブルースってどんな音楽だ。どんな境遇のどんな人が始めたのか。
独特の哀しさを湛えるメロディー、コード、スケール、色々なものを目の当たりにできる映画でした。
それに、1970年代のフィルム独特の映像の色も時代を感じさせてくれてとても良かった。
『森毅の置き土産/森毅(著)・池内紀(編)青土社』という本を古本で見つけ、読んでみました。
2010年第一刷発行となっていました。
著者、森毅氏は数学者であり、評論家、そしてエッセイストとしても活躍され、テレビなどでもお見かけすることがありました。
この本は、その森氏の著作から、ドイツ文学者でエッセイストの池内紀氏が編んだものです。硬軟織り交ぜ、ボリューム感満点でした。
ビシッと自らの考えを言うのですが、でも肩の力は抜けている・・そんな感じのエッセイが私にとってとても魅力に感じました。
私がこの部分はいい、と思ったところを一部ご紹介します。
ものを食ったり飲んだり、とりとめもなくお喋りをした、なんならひとりで、なんということもなく時間が過ぎていく。
それを人生のムダのように言う人もいる。
きっと人生というものになにかの目的がなければならぬ、と考えている人だろう。
人生に目的(エンド)というものがあるとすれば、それは死に決まっている。
と書かれていました。
私も最近そんなことを考えているところでした。
ちょっとした目的はあるかもしれませんが、目的達成の効率ということなら、人生の七割くらいはムダのようなもの、でもそのムダを生きることで、その人の人格が作られます。
仕事が人間を作るのではなく、暇が人間を作る・・いいねえ(#^.^#)まさに今の私の心境。
もうひとつ
若い頃に忙しくしたおかげで、いまをのんびり疲れていられる?!
いやいやそうではなくて、むしろ若いときにムダをしたおかげで、目標や計画と無縁に生きられる。
忙しがってないと不安、というのでは不幸だ。
まさに忙しがってないと不安だったのが、私の働き盛りの年齢の時の心模様でした。
この本、もっともっと早く読んでいたらよかったのに・・。
今の私は大病して仕事も辞め、必死に毎日生きていた、仕事をしていたことをもう一度心の中で思い起こし、反芻して、生きていることに感謝し、やりたいことをして、疲れたら休む、この生活に尽きると思います。
不思議な、力の抜けた、でも希望のある良い本でした。
映画『ミスター・ジミー(Mr.Jimmy)/2023年 アメリカ・日本 製作・監督・編集:ピーター・マイケル・ダウド 出演:ジミー・桜井他』を見て、そして聞いて来ました。
私、存じ上げませんでしたが、主役のジミー・桜井氏は実在の人物で、サラリーマンの傍ら30年に渡り、あのロック・バンド「レッド・ツェッペリン」のジミー・ペイジ(※よく三大ロックギタリストと言われる人達のひとり)をギタープレイ、アクション、衣装、機材他全てを完璧に再現しているの人なのです。
それも度を超すというか、なんというか、例えば197〇年〇月〇日のどこそこの会場でのコンサートのジミー・ペイジのプレイ、というふうに、私も当時、海賊盤が山と出ていたツェッペリンのライブ音源があることを知っていますが、その時々のペイジのプレイを再現しているのです。
それはボーカルやベース、キーボード、ドラムも含め全てジミー・桜井の記憶にセットされている・・恐るべし。
映画の中では、ジミー・桜井がプレイするライブハウスに噂を聞き、来日していた本物のジミー・ペイジが訪れ、握手するというシーンがありました。
そして、全楽曲の使用許諾も得るのです。
その後アメリカでツェッペリンのコピーバンドに参加し、ライブを何百本もこなすのですが、桜井氏の目指す完全再現は、楽しく“ノリ”で過ごす観客のニーズとは異なり、バンドのメンバーとも方向性が異なることで別れてしまいます。
この悩みが映画の最大のテーマだと思います。
完全再現が果たしてビジネスに繋がるのか・・日本ではまだしも、アメリカやその他ヨーロッパなどでは無理があるのです。
ギターソロ30分以上なんて、ワアワア騒ぎに来ている年配の観客には付き合えないし、細かく何月何日のプレイはああだった、なんて人も外国にはほぼいないのです。
最後はツェッペリンのドラマーだったジョン・ボーナム(故人)の息子がドラムを叩いているバンドから声が掛かり、そのツアーに参加し、ジミー・桜井氏自身のバンドでも再現活動を続けて行くところまで描かれていました。
逆に私にはジミー・ペイジの、そしてツェッペリンの音楽の聞き方が初めて実感してわかったという感覚がありました。
つまり、今まで私は、アルバムを中心に聞き、ライブでのプレイはソロやインプロビゼーションが回りくどく聞こえ、煩わしかったのですが、いやいやそれは逆でライブでのその時々のジミー・ペイジのプレイ、ツェッペリンというペイジが描く音楽世界に漂うように、身を任せるように聞いていくと、広大で深淵なギタリストというよりもプロデューサー的なジミー・ペイジの音楽ワールドが広がっていくのでした。
いやあ、何で今まで毛嫌いしてきたんだろうと思いましたよ。
あわててツェッペリンのライブを聞き直しているところです。なんだ、いいじゃねぇか!!(^_^;)
というわけで、映画としても見ごたえがあり、私個人にとってもツェッペリンを見直す機会になりました。
力作でした。
『失礼な一言/石原壮一郎著(新潮新書)』を古本で読みました。
2023年発行なので、古本と言っても近年のものです。
著者、石原壮一郎氏はコラムニストで、「大人養成講座」「大人力検定」「大人の言葉の選び方」などの著書があります。
読んでみると、けっこう“やらかし”がちな例がたくさん示されていました。
ペットを亡くした人にかける言葉なども、ついつい言ってしまいそうなことが例示されていて、思わず言ってしまう人がいるだろうという感じでした。
私も役所の窓口で飼い犬の登録に来た人に、窓口の担当者が「犬の登録ですね」と言って、「失礼なっ!ウチの〇〇ちゃんを“犬扱い”しないでください」と怒っている人を見たことがあります。
窓口の担当者は茫然としておりましたが、うしろから係長さんが出てきて「申し訳ありません・・ワンちゃんの登録ですね」と、その場を納めようとしている現場に遭遇したことがあります。
・・難しいよねぇ、犬を犬と言ってはいけないんだものねぇ・・。
とにかく実用的な例示がたくさん載っていました。
「おごる」ときと、「おごられる」ときに言ってはいけないこと。
その人の年齢を知った時の多種多様な“地雷”。
独身者に対して結婚について質問するやつ。
人様の「好き」を否定する人。
冠婚葬祭での“やらかしがち”な落とし穴の数々。
などなど、私自身がやらかしていないか、ドキドキしながら読みました。
カミングアウトされたときの対応、というのもありました。
私も長年、公私ともに遊んだり、仕事でいろいろな付き合いのあった後輩から、実はとLGBTQのGであるとカミングアウトを受けたことがありました。
意外となんとも思わず、ああそうなんだ、と思っただけでした。
そのとき既にカミングアウトを受けていた本人の仲良しの何人かがその場にいて、皆とても自然にしていて、その後もまったく以前と変わりなく付き合うことができました。
本人も年上の人間には私だけにカミングアウトしたのだが、良かったと言っていました。
でも、カミングアウトする人を間違うと、“アウティング”されてしまって大変なことになりかねません。
対応力が試される世の中になったものだと実感した本でした。
特に最近は、たった一言が大変な事態を招いている実例が毎日のようにあって、心休まることのない会社の上層部の人はたくさんいるでしょう。
自分は大丈夫だ、などと慢心せずに、常に相手のことを慮って、対応、言葉遣いに気を付けようと思いました。
映画『映画を愛する君へ(Spectateurs!)/2024年 フランス 監督・脚本:アルノー・デプレシャン(『あの頃エッフェル塔の下で』) 脚本:ファニー・ブルディーノ 出演:ルイ・バーマン、クレマン・エルヴュー=レジェ、ミロ・マシャド・グラネール(『落下の解剖学』)、サム・シェムール、ミシャ・レスコー、ショシャナ・フェルマン、ケント・ジョーンズ、サリフ・シセ、マチュー・アマルリック(『フレンチ・ディスパッチ』)』を見て来ました。
映画と映画館に憧れ、映画というものから様々な刺激、影響を受けてきたデプレシャン監督が自分の映画で語ったシネマ・エッセイのような作品でした。
近年は映画というものが、スマートフォンの中に入ってしまい、映画館に行くことの意味を感じない人もいるかもしれませんが、それでも映画館で見る映画と手の中にある、あるいは自室のモニターで見ている映画ではやはり異なるものがある・・と、この作品の監督も私も感じていることは事実です。
映画の途中で、過去の名作のカメラワークについて語るシーンなどもありましたが、携帯電話の小さな画面はまったくそれを感じることも出来ないし、自分以外に観客のいる映画館内の客席で感じるものはこれもまた全く違うものがあります。
その感覚は映画館で見ることを中心にしている人だけが感じることのできるものです。
芝居、ミュージカル、ショーなども似たようなことが言えるかもしれません。
テレビ中継があるから、ビデオがあるからと舞台に足を運ばないことで、現場で感じる大きなものを損失しているという感覚に似たものがあります。
全編が映画の歴史や、映画から受ける魔法のようなものについて語られ、あらためて映画を見ることの楽しさ、映画館に通うことで得られる大きな感動や作品からの息吹、そんな大切なことが映像化された作品でした。
映画好きな人には教科書みたいに、まだ映画館ではあまり見ていないひとには足を運ぶきっかけとなるような映画でした。
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