「ユーモアのレッスン/外山滋比古」を読みました。
『ユーモアのレッスン/外山滋比古著(中公新書)』を古本で読みました。
2003年初版発行となっていました。
もう20年以上前の本ですが、「ユーモア」というものは何なのか、どういうシチュエーションで“観測”?できるのか、古典など歴史的な面からも「ユーモア」というものについて考察されていました。
この本でも書かれていましたが、私はかつて「はかまみつお」さんがラジオで語っていたユーモアの定義を思い出しました。
ユーモアの語源は人間の四つの“体液”に由来していて、血液、胆汁などの四つの液体のバランスが偏ることによって表れるその人の個性というか、そいうものがユーモアにつながるということなのだ、というふうに読めました。
簡単に言うと、人間の持つ“おかしみ”のようなことがユーモアを醸し出しているということなのだと思います。
その人が真面目にやればやるほど、関係のない他者から見るとなんだか可笑しい、という思い当たるような感覚です。
例として挙げられていた結婚式などのスピーチや、落語、シェイクスピアの作品や、内田百閒氏の摩訶不思議な文などは、そのユーモア性について実にわかりやすく書かれていました。
それにつけても、最近の「笑い」というものは、ユーモアからは“遠く”かけ離れているものだと感じます。
人を“子バカ”にしたり、ひどい目に遭わせて“うろたえ”るのを傍から見て笑ったり、賞レース用に作っているのか、予め「こうこうこういう構造でギャグを作ると面白い」というシステムを構築しておいて、それに当てはめると笑える・・という幻想を抱いているような笑いもあります。
どれもこれもちっとも面白くない。
「間」によってユーモアを感じさせ面白くすることを身につけた達人のような人のことも書かれていましたが、今のお笑いの多くにはその「間」も感じさせる人が少ないと思います。
こっちが笑う前にもう次の話題に入っている。
漫才などでも完全に相方に視線と会話を向けてしまっていますが、本来はそう見えても、実は観客に向けて話しているように感じさせないと面白味は伝わって来ないのです。
この感覚、俳優のドラマなどの演技でも感じます。
役者同士のやり取りに完全にハマり込んでしまって、見ているこちらには伝わって来ない役者が多すぎるとも思いました。
要するに自分に酔っているんじゃないでしょうか。
ということで、とりとめのない感想となってしまいましたが、「ユーモアのレッスン」の読後感でした。
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