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『静子の日常/井上荒野著(中公文庫)』を読みました。
2009年新刊作品の2012年文庫化です。
主人公の静子さんは夫が亡くなり、息子夫婦(高2の娘もいる)家族三人と同居することになるが、静子さんの三人への洞察力は“ただモノ”ではなく、同居することになった三人それぞれに抱えているものがあることを察知し、それらを何事も無かったように、しかもなんとなく良い方向に変えて行くことのできるおばあちゃんなのでした。
静子さん自身も亡くなった夫との出来事(夫には明らかに恋人がいたことを知っていたが、最後まで知った素ぶりも見せずに送っている)が、いまだモヤモヤと残存し、そして今現在通っているスイミング・クラブでも人間関係その他で問題を抱え、さらにさらに好きだったのに一度しか相対で会ったことのない過去の男性との決着も抱えているのでした。
この小説は静子さんからの視線だけでなく、場面場面でそれぞれ三人の家族が主体となる文となっていて、家族四人が他の三人をどう見ているかということも実にリアルな感じで書かれていて、その転換のうまさに舌を巻きました。
人は皆、何らかの問題を抱え、悩み、人には言えず、悶々としている・・という当たり前のことですが、なかなか自分のこと以外は理解できないことを巧みに描き出し、しかもこんな風に考えてみたらけっこう生きていけるじゃないの、ということが淡々とストーリー展開と共に書かれていて、小説ながら私の生きて行くこれからにも参考になりました。
とにかく面白いストーリーと人間観察力が光り、夢中で読んでしまいました。
著者・井上荒野さんのお父さんは作家・井上光晴で、瀬戸内寂聴さんを愛人にしていました。
そのことがこの小説にも大きな影響、ヒントを与えていることはなんとなく感じました。
荒野さんのお母さんはこの小説の主人公「静子」さんそのものなんじゃないでしょうか。
驚いたことに、荒野さんが高校生の時に寂聴さんが井上家自宅を訪れています。
寂聴さんが出家して五年後です。
井上光晴さん死後も、本妻である荒野さんのお母さんと荒野さんは交流を続けていたのです。
男の愛人と、その男の妻と娘が交流する・・私もその事実を知って驚きましたが、この小説の内容もそれに似通った雰囲気の場面が何度もありました。
笑ったのは、荒野さんが寂聴さんに「歴代の恋人の中で、父は何番目くらいですか?」と聞いたら、「みーんな、つまんない男だったわ!」と破顔されたという・・(^^;
そんな感じの空気もこの小説に漂っていましたよ。だから深刻そうな場面でも、わくわくしてちょっと笑って読んでしまったのでした。
とても面白い、今年読んだ中でもベストといえる小説でした。
『妖怪画談/水木しげる著(岩波新書)』を古本で見つけ、水木先生の素晴らしい妖怪の絵と共に読みました。
1992年第一刷発行となっていました。
水木先生と言えば私にとっては「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」「河童の三平」がリアルタイムで経験し、かなり夢中になったものでした。
鬼太郎は漫画から入り、やがてアニメが始まるという経験。
悪魔くんも漫画の新連載からワクワクして読み、テレビ実写版が放映され、それも実に面白かった。
河童の三平は、テレビ実写版から入り、独特の古風な怖さのあるもので、これも夢中になって見ました。
そんな水木先生の、この「妖怪画談」は、水木先生が日本中のあちらこちらで聞いたり、実際に現地に赴いて採取した妖怪たちの絵が描かれていました。
その絵に古くからの言い伝えや、先生の考察なども加わり、前頁カラーの印刷で、読んでいるだけで充実した“妖怪体験”ができるような本でした。
鬼太郎にも登場した私達にお馴染みの妖怪もいましたが、地方に伝わるとても怖い妖怪や、ちょっと愉快な妖怪、いたずらする妖怪、騙すだけでなく、連れ去られてしまうような妖怪、ひどいときには命もとられてしまうような妖怪もいました。
妖怪たちは、森の中や川、海など、さらに日常生活をおくる中で見えたりするものもありましたが、今やその森などの自然もどんどん消滅し、妖怪も住みずらい世の中になったんだろうなぁと思いましたよ。
今の世の中は、妖怪よりも怖ろしい“人間”が都会のあちこちに生きている・・というようなことになっているのだと思います。
・・きっと、妖怪も逃げちゃうような残酷で非道な“人間”という生きもの・・。
私は、この妖怪図鑑とでも言えるような本を読みながら、上記のひどい人間よりも、妖怪に親しみを感じるくらいです。
もう一度妖怪たちの絵を見ながら今日は眠りに就きたいと思います。
『第一阿房列車/内田百閒著(新潮文庫)』を読みました。
百閒先生の著書としては有名なもので、タイトルは存じ上げておりましたが、実は初めて読みました。
読む前は何かストーリー性があって、列車内での出来事が描かれた作品だと思っていましたが、読んでみたら・・なんというんでしょう・・最初から無目的というか、ただ列車に乗って東京から大阪まで行き、“とんぼ返り”するっていうのをやりたいという百閒先生の衝動というか、我儘というか、そんなことを実際にして、その様子を百閒先生の思うことをただただ綴りながらの往復行動が書かれている、というものでした。
しかも目的があって行くのではなく、ただ行って帰ってくるだけなので、あらかじめ乗車券も買わないという決意?をする百閒先生、目的があると思われると困る、みたいなことにこだわり、案の定あらかじめ日時を決めておいて、同行をお願いした人と東京駅に行ってみると乗車券は売り切れている・・(^^;)
で、同行の人(なぜか百閒先生の我儘に、言われるがままについて行ってこき使われるのにもかかわらず親切に先生に奉仕する人ばかりが百閒先生の周りにはいる)が、なんとか機転を効かせて乗り込むことができるのですが、食事がしたい、酒が飲みたい、他の乗客が麦酒を飲んでいると下品だと不快になったり、デッキに出てみたり、列車の全容や機能を語ったり、速度や通過する駅、景色についてふれてみたり、もう思うがままをただ書いているのです。
で、それが面白いと思える人じゃないとこんな本は読めません(^_^;)
第一、この列車に乗るためのお金も持ち合わせず、例によって借金に出かけるのですが、いつも百閒先生が書かれている他の著書同様に、貸す人がいるんですよねぇ、ほんと不思議。
ただ目に見えるものを書き、そのとき思ったこと(たいていろくでもないこと)を書いているこの本は、百閒先生の“無理無体”を一緒に笑うことができなければ読むことができません。
私は“不幸”なことに ^^; 笑ってしまう人種でした。
「用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」
この百閒先生の言葉に頷ける人、読んでみてください・・(^_^;)
『本屋通いのビタミン剤/井狩春男著(ちくま文庫)』を古本で読みました。
1990年に筑摩書房から刊行されたものの1993年の文庫化版です。
古いものですが、私も夢中で本を読んでいた頃なので、出ていた話題が当時を彷彿とさせて、懐かしくもあり、あの頃の本と本屋さんの勢いを感じました。
何度も話題に出てきたのは、「サラダ記念日/俵万智」でした。
空前の大ベストセラーで、しかも短歌の本なんて考えられなかったことだったと思います。
その頃の出版業界の活況や、実際の業界の内幕なども書かれていて実に面白かった。
さらに私の記憶にもありますが、椎名誠さんと椎名さんが編集長を務める「本の雑誌」の人気が当時はかなりのものであったことがわかる記述がたくさんありました。
私も夢中になっていたクチなので、よくわかります。
雑誌というものが、かなりの隆盛だった時代が今にすると「ほんまかいな?!」ということになっていて、隔世の感があります。
著者の井狩さんは取次の仕入部に勤務されていた方ですが、私はラジオで井狩さんのお話しを何度か聞く機会がありました。
どんな本が売れるか、ということに関しても、「装丁」がかなり関係していることや、表紙の色、テレビ等で芸能人がその本にふれた発言をした、タイトルだけで売れることもある、などなど実に興味深い話でした。
それについてもこの本でふれられていました。
時代が時代なので、アナログレコード盤を本として売る(※本としての委託販売なので、返品が効くという利点がある)ことのメリットや、カセットブックなんて今やなんだかわからない人も多いものについても“新しい手法”として書かれていました。
とにかく、本というのものの魅力に“憑りつかれ”、本と共に人生を歩んできた方のこの本は、本好きには実に面白いものでした。
あの頃は田舎でも、町内に何軒も本屋があり、東京に出かければ、本屋がいくつもある、今にして思えば夢のような世の中でした。
懐かしかったのですが、現状を鑑みると、ちょっと寂しくなる読書となりました。
『ほっとする論語/杉谷みどり(著)・石飛博光(書)(二玄社)』という本を古本で見つけ、読んでみました。
2007年発行のものなので、ちょっと古い本でした。
帯を見てみると、一時期テレビでよくお見かけした市田ひろみ(服飾評論家)さんが推薦の言葉を書かれていました。
この本は著者・杉谷みどりさん(プロデューサー・編集長・著述家)が、孔子の言葉をわかりやすく解説し、書家の石飛博光さんがその論語を様々な書体で表現されていて、論語についてあらためて込められている意味をしみじみと感じ、さらに書によって視覚的にも芸術的にも刺激を受けるような形になっていました。
「詩を学ばざれば、以て言うこと無し」
さしあたり必要のない詩を読み、さしあたり必要のない礼儀作法を学ぶことが教養だとすると、なにか即効性があるわけではない。
それらが価値あるものに生まれ変わるまでには熟成が必要だということ・・。
教養は感性を養い、人の持つ豊かな感性の世界に触れて行く事で、社会や時代の枠にとらわれず自由な発想が出来るようになる、・・歳とって実感しているところです。
わずかな言葉から多彩な意味内容を汲み取り、人の抱く喜怒哀楽の深さ、感情の微妙な陰影、人情の機微までを知ることになる。こうして育まれた豊かな心に「思いやり」が生まれると。
・・そうか、そうだよ。やっと今になってわかりかけてきたよ、と思いました。
「得るを見ては義を思う」という論語のところでは、簡単にいうと
欲に目がくらんだ人の前に儲け話はやってくる。
騙す方は真剣で、そんな顔をよく知っている。
うまい話に出会ったら、自分をよく見て考える。大き過ぎないか、豪華過ぎないか、立派過ぎないか・・。
上記のことも当たり前だとはわかりつつ、多くの人が、いざその時には忘れてたいへんなことになる。ニュースでもそんなことをしょっちゅう聞く。
などと色々考えつつ、そして書を鑑賞しつつ読み終えました。
少し気分がすっきりしました。
『言葉の温度/イ・ギジュ著・米津篤八訳(光文社)』を古本で見つけ、読んでみました。
2019年初版発行となっていました。
著者イ・ギジュ氏は作家で、もともとはソウル経済新聞などで社会・経済・政治などの記者をされていた方とのこと。
最初立ち読みしていて、なんだか欲しくなり購入しました。
「言葉」に関する本なので、日本語に訳したときにそのニュアンスが伝わって来るのだろうかと思っていましたが、基本的には問題ありませんでした。興味深く読みました。
著者が寺院で古い石造りの塔を見ていたときに、住職から「この数百年は経っている石塔は、実はちょっとした隙間が必要なのだ」という言葉に引き込まれた様子が書かれていました。
「余裕がなく、中身ががっしりと詰まっていると、風雨に耐えられずにガラガラと崩れてしまうのだよ」と教わり、「何であろうと、隙間があってこそ頑丈になるものだ」というわけなのです。
著者の頭の中をこの言葉が駆け巡り、「あまりに完璧を求め過ぎて、途中でバランスを失ってひっくり返るようなことが数えきれないほどあったような気がした」と思ったことが書かれていて、私も今までいろいろな局面でそんなことがあったような気がすると思ったのです。
もうひとつこの本からのエピソードをご紹介しておきましょうか。
結婚した娘に電話したくてもなかなか通話ボタンを押せない七十代くらいのお年寄りを見たことが書かれていました。
10分ほど迷ってから電話すると「お父さんだよ。元気でやってるか?ただかけてみただけだ・・・」という通話。
この「ただかけてみただけ」という言葉の裏には、いろいろなことが背景にあると思います。
心配を口にだすことができないけど、でも電話をかけずにはいられない親心・・。
さだまさしさんの歌にもこんな感じのものがありました。
上記のようなある人がかけた言葉に著者が“ピン”と感じたことがたくさん書かれていました。
その場で覚えておこうと思っても、やがて忘れてしまうような大切な言葉がたくさん書かれていました。
『わたしの好きな季語/川上弘美著(NHK出版)』を古本で見つけ、読みました。
2020年第一刷発行となっています。
四季さまざまな「季語」をテーマにした96篇のエッセイが収められていました。
俳句を詠み始めて1年と一ヶ月の私ですが、初めて知る季語もいくつかありました。
「絵踏(えぶみ)《春》」・・一般的に言われる「踏絵」は踏まれることになる“絵”そのものを指しているとのことで、踏むという行いそのものは「絵踏」なんだそうです。
しかし、この「絵踏」を季語にして詠む句はなかなか難しそうです。
「競馬(くらべうま)《夏》」・・これはもともとは神事だったものだそうで、今でも上賀茂神社で当時の装束をつけ、伝統行事として行われているようです。
著者、川上さんの季語に対する自分の過去の思い出などを含めて綴られたエッセイは、絶妙な味わいを醸し出していて、しかも季語の知識も得ることができました。
「黴(かび)《夏》」なんて季語も取り上げていましたが、川上さんは「黴」を好きな季語に挙げていて、「自分でもどうなんでしょう」とおっしゃっています。
でも、今でこそ、そう思う人も多いかと思いますが、日本人って「黴」や「菌」とは長い年月に渡って“付き合って”きたわけで、うまく使えば独特の句が作れそうな気がします。
「夜長妻(よながづま)《秋》」という、今までまったく知らなかった季語もありました。
・・どういう意味なのか川上さんも想像して書かれていましたが、男の私からするとちょっと怖い(^^;
全部で96の季語について読めたのは、私にも勉強になりました。
時々ひっくり返して、どれかひとつでも使って句を詠んでみたいと思います。
映画『アンジーのBARで逢いましょう/2025年 日本 監督:松本動 脚本:天願大介 出演:草笛光子、松田陽子、寺尾聰、石田ひかり、六平直政他』を見て来ました。
草笛光子さんの最新主演作です。松田陽子さんも主演と言っていいようなつくりの作品となっていました。
草笛さん扮するアンジーという名の不思議なお婆さんが町にやって来て、不吉な事故物件のような建物を借り、バーを始めようとする話でした。
『一億人の俳句入門/長谷川櫂著(講談社)』を古本で見つけて読んでみました。
2005年第一刷発行となっています。
著者、長谷川櫂さんの俳句関係の本としては、「国民的俳句百選」、「四季のうた 文字のかなたの声」の二冊を読み、過去このブログでご紹介したことがあります。
俳句に対して真摯で、とても真面目な真正面から取り組む様子が印象的な方と記憶しています。
この本では、「入門」としていますが、特に“切れ”や“季語”、俳句の持つ“リズム”の大切さなどがかなりの頁を割いて書かれていました。
特に“切れ”については、これほど何度も例示して説明してくれた本は今までにありませんでした。
また、同じ“切れ”のある句にしても、「一物仕立て」と「取り合わせ」の二種の俳句があり、それについても詳しく解説されていました。
私が今まで読んだ入門本などでは、きっちり基礎的な知識と技術を網羅しているものが多く、網羅しているだけに深い所までたどり着いての解説はありませんでしたが、この本では、一般的入門書に書かれていることでも不要と思われるものは捨て、大事だと思われるところは詳しく書かれていました。
ちょっと今までとは異なる俳句に対する感覚が磨かれたような気になりました。
それが果たして今後の私の俳句に結果として出てくるか・・。
私としては、俳句の持つリズム、言葉から感じる音色などに気をつけてみたいな、と思っているところです。
『「意識高い系」の研究/古谷経衡著(文春新書)』という本を古本で見つけ、読んでみました。
2017年第一刷発行となっていましたので、かれこれ8年前のものになります。
そうか、「意識高い系」という言葉があちらこちらで聞かれるようになったのは、そんなに前だったのかと思いました。
著者の古谷経衡(ふるや つねひら)さんの声は、ここ数年ラジオの文化放送で聞くことがあります。
語り口はやわらかいが、現在起きている事象について、けっこう突き詰めていく姿勢が独特のやり方で印象に残ります。
この本では、「意識高い系」と、さらにそれと混同しやすい「リア充」の区別についても“くどい”くらい章を立ててまで、とことん分析しています。
・・で、私はここで早くも“挫折”の予感がしてまいりました。
こんなに憎々しくも、徹底的にそれぞれを分析することに意味があるのだろうか、と思い始めてしまったのです。
「意識高い系」についての考察も、“これでもか”というくらいに徹底的にやっていて、もうどうでもいいんじゃないだろうか、勝手に言わせて、やらせておけば・・と思い、最後はこっちの具合が悪くなってきて読了という具合でした。
この本の中で使われていた“スクールカースト”という言葉も初めて聞きましたが、そんなことが原因になるのか、とも思いつつ、著者自身に被害者意識が過剰にあるんじゃないか、とも思ってしまいました。
読み始めた時には、面白い本だろうと思っていたのですが、読んで行くうちに疲れてしまい、後半は力なく読み終えたという感じになりました。
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