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『風葬/北方謙三著(集英社)』を古本で読みました。というか、途中で読むのをやめました。
1998年第一刷発行の本です。
読み始めたのはよかったのですが、想像通りの“ハードボイルド”で、主人公の刑事が犯人と睨んだ相手を実に怖ろしい攻め方(現代だったら拷問)で、落としていくシーンが何度も出てくるのですが、手錠で柱を抱かせた相手の靴下を脱がせ、その靴下に砂を詰め、脳に衝撃が伝わるように何度も頭に打ち付けるような、読んでいるこちらがゾッとするやり方をするのです。
そういう方法が色々出てきて読んでいるこちらがダメージを受け、具合が悪くなってくるんですね。もう拷問を受けているのが自分みたいに思えて来て、寒気がしてくるのでした。
さらに登場する人物は誰もが人の心を持たず、人を殺すことなんて何とも思っていない人物ばかり。
登場人物も多すぎて覚えるのも大変。
人間味がある人はほとんどいないので、覚えることが難しいのです。
だって、みんな血も涙もない人ばかりだから特徴が無いのです。
若い頃だったら、“パワー”で読み続けることが出来たかもしれないし、話としては面白い展開なので、それなりに読むことが出来たかもしれないけど、途中で自分の心身の状態がひどいことになって来たのに気づき、三分の二まで読んで離脱しました。
その方が自分の健康を害さないと思ったからです。
もうハードボイルド小説は読まないだろうな、そういうものを読める時期は二十年前くらいに終わっていたようです。
ごめんなさい。
『おぼえていても、いなくても/蛭子能収著・画(毎日新聞出版)』を古本で見つけ読みました。
毎日新聞とサンデー毎日に掲載されたものから抜粋し、加筆再構成されたもので、2021年に発行されたものです。
私の蛭子さん像っていうと、ちょっと怠惰というか億劫なことはしない人で、仕事の場でもけっこう自分勝手、思わず本当に思っていることを口に出してしまいヒンシュクを買う・・というような印象で、もし一緒に仕事することになったら困ったタイプ、あるいは親類縁者の中にいたら近づきたくない人・・^_^;そんな感じでした。
でも、この本を読んで人の見方なんて、ほんとに一面しか見ていないのだなと反省いたしました。
蛭子さんは正直なんです。
色々な行い、言動は、私たちが生きていくうえで、そして仕事上で“ぐぐっ”とこらえて、とにかく“心にもないこと”でもいいから発言したり、行動したりして事なきを得る・・それをしないだけなんです。
読んでみたら、蛭子さんの幼少期、少年期はかなり貧しく、しかも家族はそれぞれの都合で母親と二人きりのことが多かったようで、兄に面倒をみてもらい、何とか高校は出てもその後の仕事も厳しい状況で、母をおいて東京に出てきたことについても、自分のやりたかったことをやってみたい、自分の人生だからということで、自らの心に正直に生きていくことを中心に置いているということがわかりました。
テレビ番組で見えていた奇異な行動や、あり得ないと思えるような発言も、蛭子さんの心の奥から聞こえてくる叫びのようなものだと感じだしました。
人の見え方って、心のチャンネルを変えてみたり、見る方向を変えてみると、それはそれなりに何かがみえてくるのだと、あらためて知りました。
両親、奥さん、その他仕事で接することのあった太川陽介さんらについても感謝の気持ちをかなり詳しく書かれていました。
終盤で、テレビ番組の企画の中から自分の「認知症」が発覚してからの、今後の生き方、奥さんとの過ごし方について書かれていて、それもなかなか私のような凡人にはできないような決意がありました。
実際はとても面白い話ばかり、可笑しい漫画付きっていう本なのですが、私にとっては学ぶことがたくさんあった本でした。
『私訳 歎異抄/五木寛之著(東京書籍)』を古本で見つけ、読んでみました。
2007年に第一刷発行されたもので、作家・五木寛之氏による“私訳”、つまり意訳をさらに超えて、著者・五木氏が自分はこう感じた、こう理解した、こう考えたという主観的な視線から書かれた現代語訳版『歎異抄』と言えると思います。
歎異抄については、その存在は学校でも習ったし、よくラジオなどで「歎異抄」について簡単に読めるようにした本などの紹介もされていて、一度は読んでみたいと思いつつ、手が出なかったものでした。
ひとつには歎異抄は、弱者を押しのけるような生き方をしてきた人、人としてどうかというような生きのび方をしてきた人、そんな人の記憶の闇に一条の光が射されるような、そんな存在なのか、と思っていて、そのくらいしか自分には情報がありませんでした。
でも、この平易に書かれた(言葉面は誰にでもわかるような、やさしい文)私訳は、結局うまく理解することが出来ませんでした。
事前の知識・理解が不足し過ぎていたこともあるかもしれませんが、読んでいくと、一生懸命に何かしらを極めようとして生きている人と、酷いこと、悪辣なことをする人も結局“往生”するのだ・・ということになって、「そんなんでいいのか」と言うような人は何もわかっていない・・という結論になり、なんだか真面目に生きても損しちゃうんじゃないの、って思ってしまう超凡人な私がいるのです。
親鸞その人の筆ではなく、第三者をとおして描かれた回想録ということもあり、その著者の嘆きの書であることから、ますます理解することが困難なことになってしまうのでした。
あらゆる煩悩にとり囲まれている身はどんな修行によっても生死(しょうじ)の迷いからはなれることはできない・・そのことを憐れに思って立てられた誓いこそ、すべての悩める衆生(しゅうじょう)を救うという阿弥陀仏の約束なのだ、というわけですが、まだ何だかわからないのです・・。
この世に生きている者はことごとく深い業を背負っている・・これはわかった。
私たちは、すべて悪人であり、そう思えば、わが身の悪を自覚し、嘆き、他力の光に帰依する人々こそ、仏に真っ先に救われなければならない対象なのだ・・という・・何となくわかったような気になった。
おのれの悪に気づかぬ“傲慢な善人”・・世の中、こんな人だらけなような気もする・・でさえも往生できるのだから、まして悪人は往生できるのだ、って、ここでまた最初のわからない自分が現れる(^_^;)・・最後までぐるぐる頭の中が回ってしまう本でした。
映画『キッズ・アー・オールライト(The Kids Are Alright)/1979年 イギリス 監督:ジェフ・スタイン 音楽監督:ジョン・エントウィッスル 出演:ザ・フー(ロジャー・ダルトリー、ジョン・エントウィッスル、キース・ムーン、ピート・タウンゼント)、リンゴ・スター』を千葉劇場で上映していると知り見て来ました。
レコード・デビュー60周年記念、日本初劇場公開 HDレストア版・・ということでした。
この映画があるということは知っていましたが、見たことがありませんでした。
一部映像は何かのきっかけで見たことがあったり、インタビュー音声や演奏についても音源は何かしらのレコードなどで聞いたことのある記憶が蘇ってきました。
とにかくインタビュー以外はほぼ「ザ・フー」の演奏シーンばかりです。
スッゴイです!これがロックの姿だというのをひしひしと感じました。
驚いたのは、ジョン・エントウィッスルのベースでした。
今まであまり強い印象を持ってはいなかったのですが、この映画の中の音は劇場の大きなスピーカーを通しているからということもありますが、彼が素晴らしいプレイをしていたことがよくわかりました。
フレーズも素晴らしいし、こんなにバンドを引っ張っていたのかと驚きました。
ピート・タウンゼントがタンバリンだけ叩いているシーンのベースなど、ジョン・エントウィッスルのベースそれだけで音楽になっていて、ハーモニーまで感じました。
キース・ムーンのドラムはズドドコ・ズドドコと、ずうっと雷が鳴っているようだし、しかも“おっそろしく”正確で淀みのないものでした。
さらにビートルズのリンゴ・スターとインタビュー形式で会話しているときの“ぶっ飛び”具合もさすがでした。
ロジャー・ダルトリーは、風貌もカッコよく、しかもシャウトするのに安定していて、歌詞もよくわかり、パワフルで、ロックの手本だといいたいくらいの良さ。
そしてピート・タウンゼント。
こんなギター・スタイルの人は後にも先にもこの人だけだし、あの腕を振り回す奏法も随所に飛び出し、ギターを破壊し、でも時には美しい音色のメロディーも奏でる。
ピート・タウンゼントがステージ上で飛び跳ね、ものすごいアクションでギターを弾く姿も今まであまり見る機会が無かった私には、こたえられない爽快さでした。
滅茶滅茶激しいのに、芸術性もあり、狂気もあり、人間らしさもあり、荒々しいロックバンドなのに交響曲のように聞こえる時もある。
見てよかった鮮烈のロック映画でした。
『みみずくの夜メール 2/五木寛之著(朝日新聞社)』を古本で見つけ、読んでみました。
2005年に第一刷発行されたもので、当時、三年間にわたって朝日新聞に連載されたコラムの後半部分に他のいくつかの文章を加えたものであるとされていました。
エッセイとまではいかないが、日々の暮らしの中から、不平を言ったり、ため息をついたりするような感じで文字にしたようなもの、と著者ご本人が書かれています。
ということで、私がブックオフで手にしたときに、「これは読みやすそう」とすぐに思いました。
そして、そのとおりの“読みやすさ”でした。
また、この頃は五木さんが「百寺巡礼」をされていた真っ最中であり、さらに「千所千泊」という目標を立てて、日本列島の知らない町や村を千箇所訪れて、そこに泊まるというようなこともされていたようで、原稿執筆と共にされていたわけですから、体力的にも大変なことをされていたことがわかりました。
そんな中でも、市井の芸術家について興味を持ち、その人と作品についても紹介されています。
地方に行けば、上記のような芸術家に出会うこともあるでしょうし、運転免許を取ろうとして車の歴史や構造などについても徹底的に調べてから免許センターに行ったりもしています(^^;
歌謡曲の作詞を手掛けたり、独自の健康法を身に付け、体力的なピンチを乗り越えたり、まだ「男の更年期」などということが世間で言われる前からそれが存在すると、お医者さんとやり合ったりもしていました(^_^;)
心血をそそいで色々なことに取り組むのもいいのでしょうが、五木さんのようにどこか力を抜けるところは抜きながら生きていく、そんなスタイルに憧れてしまいました。
何せ二十年前の本ですが、でも、今の私にはとても参考になることがたくさん書かれていました。
まだ五木さんの本で未読な「歎異抄」についての本も手に入れてありますので、また読みましたら読後の感想を書きたいと思います。
映画『ムガリッツ パンもデザートもない(MUGARITZ No Bread No Dessert)/2024年 スペイン 監督:パコ・プラサ 脚本:パコ・プラサ、マパ・パストール』を見てきました。
「ムガリッツ」というミシュラン常連の名門店は、毎年11~4月の期間、メニュー開発のために休業し、革新的な料理を誕生させているのだそうで、その開発状況をドキュメンタリー映画にしたものでした。
とても期待して妻と見に行ったのですが、上記メニュー開発についてのコンセプトというか、哲学というか、とても料理についての論争とは思えない話し合いが続き、申し訳ないけど何を言っているのかよくわかりませんでした。
美食の枠を超え、料理の提供ではなく、クリエイティブな生態系の形成だ・・というのは・・わからない・・。
シェフ、スタッフ、アーティストなど自律的な細胞たちが、年に一度、メニュー開発イコール調和を求め集まってくる・・ってことなんだけど・・ちいと難し過ぎて映画として楽しめない^_^;
開発段階の各人の奮闘ぶり、ミーティングなどのドキュメントもさることながら、二回にわたる試食会がこの映画のクライマックスなんだろうけど、料理がどんなものなのか映像だけではよくわからなかったのです。
しかもどういう味なのか、というのも哲学的な解説ばかりでこれまたさっぱりわからなかった。
料理自体のビジュアルをもっとカメラを寄せてクリアに見せてくれて、しかもどういう具材をどんなふうに料理し、奇妙な食べ方をさせるのは何故なのか、というのもわかりやすくしてほしかった、というのが感想です。
ミシュラン常連のレストランの料理の映画なのに、どんな料理なのか最後までよくわかりませんでした。
専門家が見るような映画なのでしょうか。
ちょっとお手上げでした。
『小泉八雲とセツ -その言葉と人生-/四條たか子著・小泉凡監修(宝島社)』を読みました。
今年の9月刊行の新刊なのに古本で安く手に入りました。
今、NHKの朝の連続テレビ小説で小泉八雲と妻のセツさんの物語をやっていて、とても興味があったので読もうと思ったのです。
この本の監修の小泉凡氏は八雲の曾孫です。
読んでみて八雲とセツさんの色々な時代、シーン、周囲の人達の写真も“ふんだん”で、それだけでも貴重なものだし、今現在テレビを見ている自分からしても親近感を感じ、実際に出雲、松江に何度か旅行しているので感慨深いものがありました。
また、二人の結婚前の様子から、その後亡くなるまでのことが実にわかりやすく、そしてどのような人達が二人に関わって、どんな出来事があって、八雲は松江から転居しつつ、その地その地でどういう生活、仕事をしていたのか、執筆してきた作品についてなどについてもまとめられていて、このページ数でよくこれだけ網羅できたものだと感心しました。
また、巻末に「雪女」「ろくろ首」「貉(むじな)」「耳無芳一の話」も収録されていて、名作を味わうことも出来ました。
私自身、今まで出雲、松江には三度出かけていて、八雲が住まっていたあたりの風情などにいつも惹かれるものがあり、八雲に関する本も何冊か読み、旧居や記念館を訪ねるなどして興味津々のところにテレビでドラマをやるということで、所謂「朝ドラ」というものを見たことはありませんでしたが、今回は毎回見ています。
実話とは異なり、脚色された部分も既に多くありますが、それでも面白く見ています。
あらためて小泉八雲と妻のセツさんについてドラマ共々色々な文献もあたりながらお二人の歴史を辿ってみたいと思っています。
『日日是口実(にちにちこれこうじつ) -「お茶が教えてくれた15のしあわせ-/森下典子著(新潮文庫)』を古本で見つけ、読んでみました。
ルポライター、エッセイストである森下典子さんの「お茶」・・茶道の教室に通って色々なことを感じていく・・に関するこの本、古本で時々見つけ、ずっと気になっていたので読んでみました。
“帯”に黒木華さん、樹木希林さん出演で映画化された、とありましたので、きっと内容も面白いものだろうと思い、背を押された感じです。
2002年に飛鳥新社から刊行され、この文庫本は2008年に文庫化されたもので、私が手にしたものは、2018年において“三十一刷”を重ねています。
著者は大学を卒業しても出版社でのアルバイトをしていて、友達は就職先が決まったり、その後結婚したりと、今後の方向性が見いだせず、本人にはちょっと“キツい”状況である中、母親に勧められて「お茶」の教室に通うようになります。
そこからの本人の気持ちや“気づき”がこの本に書かれていることです。
先生は一つひとつの作法は厳しく教えますが、雑談的なことや“人生の教え”みたいなことは一切しないのです。
著者の不満は時々爆発しそうになるのですが、でも・・実際には決まりごとを淡々としていく茶道の動きの中で四季の移ろいを感じ、集中する中で自らの心と対峙する瞬間を感じたりしていきます。
それが、その様子がとてもいいのです。
巻末の「解説」を落語家の柳家小三治さんが書かれていて、小三治さんが独演会の時に落語をやらずにこの本の朗読をしたことがあるとのことで、私はたいへん驚きました。
小三治さんが読んでいて泣いてしまう・・というのです。
今、この本を読み終えて、私はその気持ちがよくわかります。
人は人それぞれの小さくて弱い心を持っていて、でも日日の移ろいの中でその小さな心を少しずつだけど元気づけて生きて行きます。
そんな著者の気持ちに共感して思わず涙してしまうのです。
お茶は季節の移り変わりに沿って日本人の暮らしの美学と哲学を自分の体に経験させながら知ることだった、と書かれていました。たしかにその様子はこの本に丁寧に書かれていました。
本当に知るには時間がかかるけど、「あっ、そうか」とわかった瞬間、それは血となり肉となる・・これもその瞬間のことがわかりやすくこの本に書かれていました。
著者は力強く「会いたいと思ったら、会わなければいけない。好きな人がいたら、好きだと言わなければいけない。花が咲いたら、祝おう。恋をしたら、溺れよう。嬉しかったら、分かち合おう。幸せな時は、その幸せを抱きしめて、百パーセントかみしめる。それがたぶん、人間にできる、あらんかぎりのことなのだ。」ときっぱりと書いています。
私もそう思います。
だいじな人に会えたら、共に食べ、共に生き、だんらんをかみしめる。
一期一会とはそういうこと。
肝に銘じます。
『ドナルド・キーン自伝/ドナルド・キーン[角地幸男訳](中公文庫)』を古本で見つけ、読みました。
360頁もあるもので、キーンさんの幼少期から晩年まで実に事細かく振り返っていて、9歳の時に父親の仕事について行ってヨーロッパの船旅をしたり(この時のこともかなり細かく記憶されている)、海軍日本語学校へ入ったときのこと、戦死した日本兵の日記に感動したこと、日本人捕虜との交流、大学時代の日本研究、京都に住んでいたときのこと・・どのエピソードも興味深く、面白く、しかも日本文学についてのキーン氏の知識、理解、研究度合の深さなどに驚愕したのでした。
川端康成、大江健三郎、阿部公房、吉田健一、谷崎潤一郎、有吉佐和子などが、どんどん登場してその思い出や大きな出来事なども実に興味深く読みました。
特に三島由紀夫との交流については、ほんとうに死の直前までの様子が細かに書かれていました。
あの事件の直後に三島の机に残されていたキーン氏への手紙は、三島の奥さんがそのままアメリカに帰っているキーン氏に投函され、届いているのですが、キーン氏も書かれているように、本来なら警察が押収するような“事件関連の資料”と言えるようなものだったのかもしれません。
文中に出てくる日本の風景、様子なども実に貴重なものでした。特に京都についての記述が克明で、日本を、京都を愛する氏の心が伝わってきました。
キーン氏の著書については何冊か読み、まだ数冊手に入れていますので、それらを読みましたらまた感想を書こうと思っています。
『落語と私/桂米朝著(ポプラ社)』を古本で読みました。
1975年に発行されたものを改訂し、2005年に新装発行されたものです。
内容は、小沢昭一氏が寄せている文に「これ一冊で落語論は十分。親切に平易に述べられている。落語の実演家ならではの指摘、日本伝統芸能についての独自な見解に教えられることが多い。」と書かれていて、読後の私も同感しました。
米朝さんの落語はUSENの落語チャンネルでよく聞きましたが、どんな噺もこの本のように平易でわかりやすく、ちょっと聞いている人が迷いそうな表現や、耳慣れない昔の慣習などがあると、ちょっと簡単に説明してくれたりするし、淀みないし、くすぐるような小さな笑いから、爆笑まで、寄せては返す大波小波のような見事な落語でした。
しかも品がある。
さらにこの本でも書かれていましたが、落語の成り立ちや、今までの形態の変化や、お客さんや社会状況などについても身体に染ませた上での落語は味も深みもあるもので、いつも感服しておりました。
また、米朝さんは今ではまったくどの噺家も取り上げないネタをよく取り上げられていました。
しかも、絶対に面白い見せ場のようなものがない噺で、ご本人曰く「私もどこが面白いのか最初はわかりませんでしたが、やってみるとそこはかとなく可笑しい噺だったりします」と、見事な出来栄えで誰もやらぬネタを復活させていました。でもって米朝さんが語れば、今聞いてもなんだか可笑しいのです。
この本では、上方と東京の落語の違い、またその在り方についても異なる部分が多いとわかりやすく説明されていました。
たぶん小中学生が読んでも落語の歴史的な経緯から、その面白さの醍醐味までわかってくるんじゃないかと思われるこの本、“楽しい教科書”となっておりました。
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